言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

印象が風景と溶け合う描写の瞬間―トルストイ『アンナ・カレーニナ』

過去に、トルストイの後期作品『復活』について書いた時にも注目した風景描写であるが、『アンナ・カレーニナ』でも素晴らしい自然風景が描かれている。今回の記事ではアンナ・カレーニナ』に描かれた美しい風景を引用でいくつか紹介したい。人の印象や心象と、美しい風景が溶け合う描写の瞬間を切り取ってみたい。

 

 

アンナ・カレーニナ〈中〉 (岩波文庫)

アンナ・カレーニナ〈中〉 (岩波文庫)

 

 

一つ目は第二編(岩波文庫版『アンナ・カレーニナ』上巻)より。キティに振られて孤独を味合うコンスタンチン・レーヴィンであったが、田舎で農業に携わり迎えた春(復活祭の頃)にはどこか満たされているような印象がある。孤独だからこそ、真剣に向き合った自身の生活が充実していくのを感じるレーヴィンの心の高まりが、風景描写と重ねて描かれ印象深いものになっている。

 

復活祭も雪のうちだった。そのあと、復活祭の二日目に、急に暖い風が吹き、雨雲がむらがり起り、三日三晩といもの、嵐のような、なま暖い雨が降りつづいた。木曜日になると風はなぎ、自然界に生じた変化の秘密をおおいかくそうとでもするかのように、濃い、灰色の霧がたちこめた。霧の中で水はあふれ、氷は割れて動きだし、濁って泡立った小川は一そうあわただしく流れた。そしてちょうど復活祭後の第一週(聖フォマ週)は、夕方から霧もはれ、雨雲も綿のようになって散って、すっかり晴れあがった。そしてほんものの春が顔を出したのである。翌朝になると、さしのぼった明るい太陽は、水面をとざしていたうす氷をたちまち溶かしてしまい、なま暖い空気はそこに満ちあふれているよみがえった大地からの水蒸気にゆれ動いていた。

中村融 訳『アンナ・カレーニナ』(岩波文庫1989)上巻第2編12章、283頁-284頁より引用)

 

二つ目に取り上げるのは、第三編(岩波文庫版、中巻)のアンナの心境と風景を重ねあわせている場面。この部分は直喩になっているため、風景と心情の重なり合いがよりダイレクトにわかる。アンナも夫のカレーニンも、それぞれに行き詰まりを感じ、それぞれに苦悩している。アンナはウロンスキーへの愛に対しても疑問を感じ始めており、「疲れた眼にはときに物が二重に映るように、彼女の心の中ではなにもかもが二重にかさなってくるよう」(岩波文庫、中巻、98頁より引用)に感じていた。

 

立ちどまって、冷えびえとした日ざしにきらきらと輝いて、雨に洗われた葉をつけたヤマナラシの梢が風にそよぐのを見つめているうちに、彼女(アンナ)は、あの人たちは許してはくれまい、なにひとつ、誰ひとり、ちょうどこの空や、この緑のように、これからはあたしに容赦しなくなるだろう、と悟った。

中村融 訳『アンナ・カレーニナ』(岩波文庫1989)中巻第3編、102頁より引用)

 

三つ目で終わりにしよう。実は私が『アンナ・カレーニナ』を読んで一番美しいと思った描写がこれなのだ。人の印象と美しい風景(黄色い服、斜陽、麦畑)が溶け合い、それを見ている人物の心情が最大限の盛り上がりを見せる。

場面はこうだ。レーヴィンの兄セルゲイと、キティの友人であるワーレンカが一瞬だけいい雰囲気になる。二人はドリィの子供たちとキノコ狩りに行くのだが、そこでのワンシーンだ。それまでセルゲイもワーレンカも色恋とは無縁であったが、ここにきて一瞬だけ幸せな雰囲気に、まるで青春の一場面のような高まりを感じるのだった(しかしこの二人にとってこれ以上の瞬間は訪れなかった)。

 

いま彼(セルゲイ)が別の側からふたたび林のはずれに出て、斜陽の明るい日ざしの中に、黄色い服を着こみ籠を手にして軽やかな足どりで白樺の老木のそばを歩いてゆくワーレンカの優雅な姿を見かけたとき、そしてまた、ワーレンカの印象が、一面に斜陽の日ざしを浴びて黄ばみかけた麦畑や野づらの果ての、はっとするほどの美観と溶けあったとき彼のおぼえていたこの感情こそ、まさしく青春というものではなかっただろうか。」

中村融 訳『アンナ・カレーニナ』(岩波文庫1989)下巻第6編、29頁より引用)

 

ここまで書いてきて思ったのは、気分の高揚を描く時にそれに対応するような風景を描くという手法について。古いアニメーションの表現にたとえるならば、「恋する乙女の背景は花畑」みたいなものだろうか。また厳しい状況の時には雷鳴が轟いている、というようなものだろうか。風景と人物の心情の効果的な相乗。そういったものを私はトルストイの作品から感じてしまう。影のような不吉さがつきまとっているアンナの印象的なドレスの色が黒であったということも付け加えておこう。

 

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