言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

生と死のコントラスト―トルストイ『アンナ・カレーニナ』

「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」(トルストイ/中村融 訳『アンナ・カレーニナ』上巻、5頁作品冒頭部より引用)

 

 

アンナ・カレーニナ〈上〉 (岩波文庫)

アンナ・カレーニナ〈上〉 (岩波文庫)

 

 

言わずと知れたロシアの文豪トルストイの名作『アンナ・カレーニナ』はこんなふうに書き出される。主に三組の夫婦の生活と、一組の非公式(つまり不倫)の関係が描かれており……などという説明は野暮だろう。世界の名作と言われるような作品のあらすじは別の所にいくらでも書かれているだろうし、読めば読むほど単なる恋愛小説(または家庭小説)ではないことがわかる。名作と呼ばれ読み継がれているものは常に読者に思考を迫る。いつの間にか「愛とは?夫婦ってなに?家庭ってどうあるべきなの?」と言った素朴な問題を考えさせられているし、さらに貴族社会の道徳、ロシアの政治、宗教、芸術、地主と農民、都会と田舎、生と死……など実に多くの事柄が書かれていることに気がつく。

今回、私のブログでこの作品を取り上げるために、いくつかテーマを絞った。

以下の事柄については次回以降の記事で書いていく予定。

 

一つ目は、風景描写のこと。

過去に、トルストイの後期作品『復活』について書いた時にも注目した風景描写であるが、『アンナ・カレーニナ』でも素晴らしい自然風景が描かれている。

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二つ目、アンナと読書のこと。

「本を読む女」という視点で論じられる小説作品として最も有名なのは「ボヴァリー夫人」だろうが、実はアンナも本を読む姿が描かれている。前半と、後半の部分を紹介して、彼女の生活と読書への態度の変化を考えたい。生きることと読むこと、この視点で『アンナ・カレーニナ』を切り取ってみたい。

三つ目、ナボコフが語った『アンナ・カレーニナ』。

ナボコフロシア文学講義』(小笠原豊樹 訳、河出文庫2013年)という本でナボコフトルストイを「ロシア最大の散文小説家」とし、200頁にも渡って自身のトルストイ論を展開している(しかもそのうち180頁以上を「アンナ・カレーニナ」に割いている)。この本について簡単に紹介しつつ、「アンナ・カレーニナ」に登場する悪夢について、作品の時間についてまとめておきたい。

 

 

今回残りの部分では「アンナ・カレーニナ」における「生と死」のコントラストについて書いておきたい。トルストイにとって「生と死」という問題は極めて重要なものだったのだろう。それは作品の端々からうかがえる。

例えば「アンナ・カレーニナ」でレーヴィンの義兄ニコライが病死する第5編30章にだけ小見出しが付けられている、「死」と。この義兄ニコライが作品前半部分において、異様な生と死のコントラストを生み出しているように見える。レーヴィンが幸せの絶頂にある時、そのすぐ次のページに登場するニコライは病身であり、不吉な影のようにレーヴィンの人生に入り込んでくる(第3編31章)。

 

≪おれ(レーヴィン)は働いている、おれはなにかをやりたい、だが、おれは忘れていた、なにごとにも終りがあるということを――死というものがあるということを≫。

岩波文庫版『アンナ・カレーニナ』中巻、210頁より引用)

 

死がやってくるまでは、なんとかしてこの生を生きぬかなければならなかった。闇が一切を彼から被いかくしていた。が、この闇があればこそ、彼はこの闇の中での唯一の導きの糸は自分の仕事だと感じ、精いっぱいの力でそれをとらえ、それにしがみついていたのである。

岩波文庫版『アンナ・カレーニナ』中巻、218頁より引用)

 

病死するニコライ以外にも小説のヒロインであるアンナも出産のために死にかけたり、愛人(ウロンスキー)がピストル自殺を企てたり、そういえば彼の馬も馬術競技のレースで背骨を折って死ぬことになる。作品のはじまりのほうで鉄道に轢かれて死ぬ人物が描かれているし、アンナの結末は、鉄道自殺である。これだけの長い作品にいくつも仕込まれた死。しかしそれとは対照的に社交界の女性たちの装いは華やかだ。キティの若く美しい瑞々しさや、アンナの美しい所作は忘れがたい。オブロンスキーの寒いダジャレ(?)やウロンスキーの軽さ、そういう「生」もあれば生活に根差した重い「生」もある。このコントラストが素晴らしい。

トルストイは人物の心の動きをその人物たちの動作や周りの風景も絡めて細やかに描き出している。

 

やはりアンナの最期の思い(死の動機)で印象的な一言を引用しておかねばならない。彼女は鉄道に飛び込む間際に、狙いを定めながら心の中でこうつぶやく。

 

≪あすこよ、ちょうど真ん中のところへ、そうすればあたしはあのひとを罰せるし、誰からも、自分自身からものがれられるのだ≫

岩波文庫版『アンナ・カレーニナ』下巻、410頁より引用)

 

アンナにとって死は復讐であり、逃避だったのかもしれない。しかし個人の復讐に関しては、作品の始めのほうで聖書の句を引用して不可能であることが示さている。

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以下、読みながらtwitter(@MihiroMer)でつぶやいていたことをメモしておく。

本当に雑記なので、読み飛ばしてやってください(読みながら思ったことをストレートにつぶやいているので、読書感想としては生々しいかもしれない笑)

↓↓

アンナ・カレーニナ』第一編を読み終えた。さらさら読んでいたようでけっこう時間が経っててびっくりです。兄夫婦の痴話喧嘩を仲裁に来たアンナもまた、男女の云々に巻き込まれていくのか……。恋するアラサー男、レーヴィンが可愛かった(しかし相手が18歳w)。←ひどい感想だ笑。

 

語られる登場人物たちの思考に納得できるとサラサラ読み進むし、「こいつ、何を考えてるんだ?」と思ってしまうと、読書スピードが落ちます笑。極端な読書時間を過ごしてる感じです。 確かに今の時代、この書き方で小説は書けないということを再確認してます。面白いけれど。

 

自分が子供の頃に思っていた小説のステレオタイプっていうのかな? 小説とはこういうもんだ!というイメージが、読んでもいなかったくせに、『アンナ・カレーニナ』的で、それだけ「小説観」において影響力の強い作品だったんだなぁと思いました。そういう観念からの脱却、足掻きが今なんだけど笑。

 

アンナ・カレーニナ』第二編まで読み終わった。やっぱりトルストイは自然風景の描写がいいなと思ってしまう、『復活』もそうだけど、春がね、春の描写が好きだ。

 

今日の『アンナ・カレーニナ』。 めっちゃ草刈りしてた。←第三編の初めのほう。安定の酷い感想だ(棒) 読んでいてこの作品が長い理由がわかってきた。長くならざるを得ないってコレ。こんなにたくさんの人物、どうやったら書けるようになれるんだろう

 

アンナ・カレーニナ』第三編まで読み終えたところで本日はおやすみなさい。三編前半は面白くなかったけど、最後の方で突きつけられた死というもの、生とのコントラストが素晴らしい。

 

「どれもこれもあまりにもばかにすばらしかったので」なんて言葉がでてくるくらい、幸せ絶頂なレーヴィンが微笑ましい。この男のテンションの浮き沈み激しすぎる笑(第四編後半)。ナボコフが『ロシア文学講義』で言及してた場面とかもでてきた。←『アンナ・カレーニナ』の話。

 

アンナ・カレーニナ』 第三編の終わりの方について「生と死のコントラストが素晴らしい」みたいなことを前に書いたが、その部分だけでなく、小説全体に強烈なコントラストが。冒頭に書いてある通り、それぞれの家庭にはそれぞれの不幸があるのだろうが、特にアンナとキティを比べてみてしまう。

 

比べることだけがすべてじゃないけど、なんか鮮やかに際立っていてついつい笑。幸⇆不幸のこの差は長編小説ならでは。アンナに纏わりつく影のような暗さ(彼女の印象的なドレスは黒だ)は夢のシーンの不気味さによって増幅する。(『アンナ・カレーニナ』)

 

今日は『アンナ・カレーニナ』の第六編を読み終えた。ドリィの心の動きが印象的だった。こういう古典長編はそれを読む年齢が違えば感じ入る部分も違ってくるのだろうと思う。作品冒頭で書かれているようにそれぞれの「家庭」についての話だが、子を持つ母親はドリィに親近感を感じるかもしれない。

 

いろいろな家庭があり、それぞれに不幸も幸福もあるのだろうが、読者が夢中になる部分というのもそれぞれなんだろうなぁ……笑。おれはあんまりアンナに夢中になれない(ボソ)。ドリィとアンナ、この二人がクローズアップされるのは作品の始まりを思い出させる。立場が変われば風景も変わるか。

 

トルストイ中村融 訳)『アンナ・カレーニナ』(岩波文庫、全三巻)を読んだ。「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」という印象的な冒頭。

 

家庭や生活といったものを中心に話題はロシヤの政治、制度、芸術論まで幅広く展開する。汲みきれない部分もあったが色々な所で気が付くとつい考えさせられてしまったのだった……笑。トルストイにとって、家庭と生活は切り離せないものであったのかもしれないなんて、考えたり。

 

「本を読むヒロイン」という視点(「ボヴァリー夫人」などこの文脈で語られることが多いけど)で見れば、アンナは本を読む人である。覚えている限り、前半の汽車と後半のウロンスキイとの生活の中の二回、アンナの読書風景が描かれているが、この二回の読書は質が異なるように思う。

 

前半の読書は「小説を読みつつ、その中を生きてみたい願望(フィクションから生活へという態度)」が色濃く打ち出されていたのに対して、後半は何か生活からの逃避がうかがえる(生活を忘れるために、がむしゃらに本を読んでいる印象)。とか、ざっくりメモだけ。

 

ナボコフロシア文学講義』からトルストイの「アンナ・カレーニナ」について論じた部分のみ再読。なんか、やっぱりナボコフの読み方は時々ものすごく面倒くさいが、勉強になることは多かった。特に「アンナ・カレーニナ」という作品に流れる「時間」については読み返しても面白い指摘だ。

 

冒頭のオブロンスキーの平凡(?)な感覚は、作品の基礎を築いたという点で大事なのかもしれない。とは言っても、おれはやはり自然の風景と人間が溶け合うような描写が好きだ。風景に感情や感覚が映る感じの。ワーレンカとセルゲイがキノコ狩りをするシーンに印象的な描写があった。