言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

本は読みたいようにしか読めない、ということに自覚的であること。

 

今回も『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』という本を読んで考えたことについて書いていきたい(今回でこのシリーズ(?)終わりにしたいと思います。実にいろいろなことを考えさせられた本だった、おススメです。)

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予告通り三回目の今日は【本を読んでいるとどうしても逃れられないことに気がつくバイアス】があるってことについて。最初の記事でこの言葉を使ったからそのまま書いたけれど、ちょっとわかりにくかったかもしれない。つまりどういうことかというと、

 

「本は読みたいようにしか読めない」

 

ということだ。この言葉を私はよく使っている。私がこの言葉を使う場合に「本」としてまとめられているものの多くは「小説」だが、特別な訓練でもしていない限り、人間というのは恐ろしいほどに自分が読みたいようにしか読まないし、読めないのである。

 

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』より「是が非でも私たちのもとに届くことを望んだ書物たち」という章からいくつか引用する。

 

書物の一冊一冊には、時の流れのなかで、我々が加えた解釈がこびりついています。我々はシェイクスピアを、シェイクスピアが書いたようには読みません。したがって我々のシェイクスピアは書かれた当時に読まれたシェイクスピアよりずっと豊かなんです。

(前掲書、222頁より引用、ウンベルト・エーコの言葉)

 

我々の生き方、個人的な経験、我々が生きているこの時代、受け取る情報、何もかも、家庭の不運や子供たちがかかえる問題までもが、古典作品の読み方に影響を与えるんです。

(前掲書、225頁より引用、ジャン・クロード=カリエールの言葉)

 

古典の読み方、読まれ方に関して、ウンベルト・エーコボルヘスの『「ドン・キホーテの著者ピエール・メナール』という作品を例として挙げている。この話は、セルバンテスより後の時代に生きているピエール・メナールという人物が、「ドン・キホーテ」をリライトしようと試みる話だが、同じ言葉を書いても、時代が違えば意味が変わってきてしまう、というもの。

 

当たり前の話かもしれないが、このことに関して我々は意外と無自覚かもしれない。

「本を読みたいようにしか読めない」というのは、結局の所、我々ひとりひとりが生きている時代や生活環境、もっと個人的で些細なところでは最近読んだ本にまで影響されずにはいられない、ということだ。

勿論、これが悪いことだとは思わない(思っていたらこんなブログは早々に削除すべきである)。ただ、自分の感想や意見にはかなりの思い込みや偏見が紛れ込んでいる可能性について常に自覚的でなければならないと思う。このことを頭にいれておけば、他人と意見が食い違ってもそれほど苦にはならない、むしろその食い違いの根にあるものを解きほぐそうという姿勢になれる。結果として他者の物の見方に面白さを発見できたりする。

 

私はこんなブログを運営しながらいつも「読書感想文」という小学生みたいな言葉を使っているが、これにもきちんと意味がある。私が書くのは「批評」でもなければ「書評」でもない。あくまで「感想文」なのだ。なぜなら全く専門性がなく、論理的でもない。どちらかというと感覚的で享楽的なお遊びである。お遊びであるからこそ、私は主観たっぷりに取り上げたい本を選び、これまた主観たっぷりに引用箇所を選び、そしてそれをどう解釈し表現しようか、自分の言葉で考えている。徹頭徹尾主観たっぷりであるが、常にそのことについて自覚的であるよう努めている。

「書評」や「批評」を否定しているわけでは勿論ない。というかできない(笑)

だけれど、そこまで厳密なものでなくとも、何かしら自分の考えを言葉にするというのもまた必要なことだと思う。何か気になった本があったとして、今の時代ちょっとググってみる(インターネットで検索してみる)ことなんてしょっちゅうあるけれど、その結果誰かの読書感想文が読めるというのは面白い。もちろん、誰もが幾ばくかの客観性を持ち合わせつつ、ある程度主観から自由ではないのだから、実に様々な言説が飛び交うことになる。そのひとつひとつが、いつか「古典」と呼ばれるようになるかもしれない同時代の文化を豊かにしていると考えてみようではないか。

そんなわけで、私は今日も読みたいように本を読むのだ。

 

もうすぐ絶滅するという紙の書物について

もうすぐ絶滅するという紙の書物について