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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

過去に、未来に、手を伸ばす―ル・クレジオ『パワナ―くじらの失楽園』

「それが始まりだった、まったくの始まりだった、そのとき海には誰ひとりいなかったし、鳥たちは太陽の光と果てしない水平線のほかなにひとつなかった。幼いころから、わたしはそこへ、すべてが始まりすべてが終る場所へ、行きたいと夢みていた。」

ル・クレジオ著、菅野昭正 訳『パワナ――くじらの失楽園』(集英社 1995年)7頁より引用、作品冒頭)

 

パワナ―くじらの失楽園

パワナ―くじらの失楽園

 
 

J.M.G.ル・クレジオ、菅野昭正 訳『パワナ――くじらの失楽園』(集英社 1995年)

 

こんな風に書き出されるル・クレジオの短篇小説「PAWANA」。この始まりの文章が大好きで、ル・クレジオ作品の中でもこういう部分にとても惹かれる。つまり、どこか回想可能な懐かしい場所(始点のようなもの)を持ちつつ、まだ見ぬ新世界を希求する、こんなタッチが大好きだ。ル・クレジオの他の作品だと「黄金探索者」や「隔離の島」、「黄金の魚」なんかに私はこういう雰囲気を感じる。作品全体に過去回想の色合いが強いのに、そこで思い出される登場人物(特に主人公)たちのエピソードは、不思議と未来やまだ自分の知らない質感に手を伸ばそうとしている。

 

「パワナ」という語は「くじら」を意味する。作品の中に≪アウェイテ・パワナ!≫という言葉が出てくる。意味は≪注意(注意しろ)・くじら≫、ナティック語というインディアンの言葉として書かれる。

 

「くじら」を扱った小説で最も有名なものはなんと言ってもハーマン・メルヴィルの「白鯨」だろう。訳者は解説の中で、『白鯨』のような途方もない作品が出た後の時代ではどんな言葉で書かれていても「くじら」に関わる主題を選んでしまえば『白鯨』の巨大な磁場から発せられる力に逆らうことはできない、と書いていた。今回久しぶりに「パワナ」を読み返して「白鯨とは全然ちがう」と思ったが、「白鯨と全然違う」、と思ってしまうということ自体、やはり「白鯨」の地場から逃れられていないのだろう。

 

ただ、やはり全然違うのである。メルヴィルの「白鯨」には捕鯨船に乗組む「海の荒くれ男」に特有の粗野で楽観的な雰囲気が感じられた。それに比べて「パワナ」には荒っぽい船員のイメージが薄いように思える。というのも、この作品の主な登場人物「ナンタケットのジョン」と「チャールズ・メルヴィル・スカモン」の二人はそれぞれ1911年の地点から、1856年の捕鯨航海を回想しているのだ。ずいぶん遠い過去の回想だ。「ナンタケットのジョン」はかつて自分が少年だった頃に歩いた地に赴いて回想しているが、目の前の風景に過去の面影はない。「ずっと昔なのだ、人間の残した痕跡すべてに風が吹きわたって、ただ巨鯨の骨しかあとに残さなかったのだ」(25頁)。どこか、寂寥とした雰囲気が漂ってくる。

二人が回想する1856年の捕鯨航海は、その当時リオノー号の船長であったチャールズ・メルヴィル・スカモン」がそれまで誰にも知られていなかったコククジラの繁殖地を突きとめた航海だった。このことで捕鯨業界による鯨の乱獲が始まる。秘められていた場所が暴かれたことで、その場所(コククジラの繁殖地である潟湖、ラグーン)は血に染まる。

そのことが良いとか、悪いとか、そういう判断をするのは文学の仕事ではない。ちなみに、スカモン船長は実際に存在する人物をモデルに描かれており(彼によって発見された潟湖はスカモンの名を冠する)、反捕鯨団体にとっては悪名高い存在らしい。

「ナンタケットのジョン」と「スカモン船長」の回想が交互に語られる全4章の構成の作品で、実在の人物はどうたったかはさておき、ル・クレジオが再創造した「スカモン船長」は死を間近にして、秘められた場所の暴露をひどく後悔している。勿論、潟湖の発見前は、一攫千金への野望もあったかもしれない。新しい、自分が知らない「未知の領域」に踏み込むということへの胸の高鳴りもあっただろう。しかし、実際に発見してしまって数十年後に独白として語られるのは「後悔」なのだ。その後悔の中で船長は「ナンタケットのジョン」を思い出す。回想の中の少年の眼差しに「非難」を感じ取るのだ。そして後悔する。少年の眼差しが問いかけたこと、「どうして愛するものを殺すことができるのか」。これに対して老人(スカモン船長)は答えを見いだせないままだ。

 

「もしもあの1856年1月の運命の日、私の視線が、砂の島の蔭になかば隠れた、人跡のない海岸のあの入江に止められなかったとしたら、あの世界の腹はいまでも在っただろうか?」(前掲書、85頁)

 

「私は彼のことを考えている、まるで私が時間の流れを止め、短艇の軸を止め、あの鯨の通り道の入り口をまた塞ぐことができるかのように。かつてあの通り道を開きたいと切望していたように、いま私はそれを切望している、その入口をまた塞ぐことを。そすれば地球の腹はまた生きはじめることができるであろうし、鯨たちの身体は世界のもっとも静かな水のなかへ、遂に名前をつけられることのないであろう潟湖のなかへ、ゆっくりと滑りこんでゆくことになるであろうに。」(前掲書88頁-89頁)

 

そんなことはわからない。

「もし自分が○○しなければ」それは未知の領域だ、手を伸ばすことはできるが掴みとることはできない。あるいはスカモン船長は過去に手を伸ばすのと同時に、未知の自分へ手を伸ばしているのかもしれない。そんなことが可能かどうかは別として。回想には少なからず、そういう側面があるのではないだろうか、可能性としての自分を掴もうとするような。

 

他方「ナンタケットのジョン」が回想するエピソードで印象的なのはアラセーリという女性だ。エミーリオとかいうスペイン人に買われた奴隷で召使のインディオ、セリ族。少年のころのジョンは彼女に淡い恋心を抱く。少年が見ているアラセーリはどこかウーマ(「黄金探索者」)やシュルヤ(「隔離の島」)に似ている。逃亡し、捕まり、「砂地におろされた遺体」となって老人ジョンの回想に現れる。罵りの言葉を浴び、川辺に掘った穴にぞんざいに投げ込まれるアラセーリの描写は、乱獲された鯨の死と結びつく。

少年水夫ジョンにとって愛する者だったアラセーリ、その死を回避することはできなかった。ただ彼女が埋められた場所、かつての活気が失せてしまった場所を歩きながら、年老いたジョンもまた回想することでしか確かめられない「すべてが始まり、すべてが終る場所」、未知へと手を伸ばしているのかもしれない。

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