言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

食い合う果ての消滅―本谷有希子「異類婚姻譚」

「暮らし」というものには痕跡がある。その痕跡だけが示されると、暮らしの主体たる個人の不在が際立つものだ。たとえばこの小説に出てくるものなら、これから山へ捨てられる猫サンショの生活用品、部屋に残される強烈な尿の臭い、家にいないはずの時間に玄関で発見される旦那の皮靴や部屋に脱ぎ散らかされた背広のズボンとワイシャツ。それぞれの要素から、持ち主の不在が感じられる。「いない」ことのほうが「いる」ことよりも強烈に印象付けられる描写が効いている小説だった。

 

「強調された不在」、結局のところ、この小説は「夫婦の顔が似てくる」ということを素材に、「私」というものを掘り下げた作品なのかもしれない。「似る」ためには当然「私」と「相手」が必要で、この両者が暮らしの中で互いに境界を侵食しあったり、入れ替わったりしながら、自分という「人の形」がどんなふうだったか思い出そうともがいているように見える。

 

蛇ボール」という言葉が出てくる。登場人物の一人、ハコネちゃんの結婚観だ。

 

結婚って、相手のいいところも悪いところも飲みこんでいくんでしょ? もし悪いところのほうが多かったら、お互いタマッたもんじゃありませんよ。

(中略)

二匹の蛇がね、相手のしっぽをお互い、共食いしていくんです。どんどんどんどん、同じだけ食べていって、最後、頭と頭だけのボールみたいになって、そのあと、どっちも食べられてきれいになくなるんです。

(「異類婚姻譚」本文より引用)

 

「蛇ボール」という言葉は、作品の中で二匹の蛇(夫婦)が相食むウロボロスのイメージとして提出されている。「私」はハコネちゃんのこの結婚観を聞いた時、今まで人と付き合っていく中で、自分が食われ続けていたことに思い当たる。「相手の思考や、相手の趣味、相手の言動がいつのまにか自分のそれに取って代わり、もともとそういう自分であったかのように振る舞っていることに気付く」。

始めは自分だけが食われていたと思っていたが、実は物語の後半で、抗えないほどに自分が相手を食っていたことに気がついてしまう。互いに互いを食い合っていることに、そこまで似ていたことに気がついた時に二匹の蛇として提示されたウロボロスのイメージは消滅してしまう。「蛇ボール」のイメージは一匹の蛇でも成立する。つまり、自分を尾から食みながら終わることなく回り続ける一匹の蛇としてのイメージが。

読者の目の前に、最後に残るのは「私」が「私」の尾を食みながら、「私」という「人の形」をたしかめている一匹の蛇のイメージではないだろうか。「私」の自我を巡ってぐるぐる回っているような話。

 

「人の形」という言葉も作中に繰り返され、「蛇ボール」と同じくらい印象に残る。小説の素材が夫婦の顔という「人の形」だ。それが崩れていく過程が似てくる。ある日、仕事を早退してきたらしい旦那が脱ぎ散らかしていた背広のズボンやワイシャツには、まだどこか「人の形」を残していたが、最後には旦那に捨てられてしまう不気味さ。そもそも始めからなんとなく旦那の描写には人間離れした気味の悪さが漂っていた。旦那は「楽しないと死んでしまう新種の生きもの」とさえ表現されている。

 

「暮らし」の中にある些細な要素を抽出して描いていった先に強調された「不在」、この不気味さ。「存在」同士が食い合う果ての消滅は、「自我」を巡る思考が辿り着く一つの結末なのかもしれない。

 

 

異類婚姻譚

異類婚姻譚