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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

読書の車窓から―磯崎憲一郎『電車道』

読書日記

「これではまるで自分の過去に、ずっと密かに後をつけられていたようなものだな」

 (磯﨑憲一郎『電車道』132頁より引用)

 

 

電車道

電車道

 

 

今回は、磯﨑憲一郎『電車道』(新潮社 2015)について。

この作品は、100歳くらいまで生きることになる二人の男の人生を描きつつ、鉄道開発を背景に変わっていった日本の風景を描いた長篇小説だ。濃密な風景が連綿と現れ続ける描写には、絵巻物を見ていくような面白さがあった。100年という時間が、横に、横に、伸びていく。でもその時間の中に描かれる人物や風景が以前とは全然違ったものに変わってしまうというのではない。表面的に景色は変わった、だけれど何故か変わらずに繰り返していることが意外と多い

よく「歴史は繰り返す」なんて言われたりするが、その「繰り返す」ものは大きな歴史上の出来事(後に年譜に掲載されるような)だけではない。実際には誰も証明することはできないけれど、人間の心の動きや、日常の些細な事柄も密かな反復を続けているのかもしれない。

たとえば、この作品の中にはやけに「くるぶし」に怪我を負っている人が描かれている。右のくるぶしを蜂に刺された少女、凍傷になった少年、「野良犬にくるぶしを噛まれることなど日常茶飯事だった」と書かれる昭和の一角。蚕の幼虫の白さや、後に電鉄会社の社長になる男が恋してしまったイギリス人女性の肌の白さ。宅地造成のために一時は失せた畑が、戦時中に「報国農場」と呼ばれて再び黒土の畑へと戻ったり。どんなに政治・社会が変わっても、昭和40年代の子供の遊びは明治時代の子供たちと変わっていなかったり。……etc. 

挙げればキリがないほど、小さな反復がいくつもいくつも寄り集まってこの長篇小説を形作っているように思えてならない。読みながら小さな反復に気がつくと思わずにやけてしまう。時々、作中の人物も「なんだかよくわからないが繰り返している?」ことに思い至ったりするのも面白かった。

 

ただ、果して繰り返し続けることだけで本当に良いのか? という疑問に立ち向かっていく男が二人、登場する。立ち向かうんだけど、読んでいるとなんとなく、反復していることに気がつく。

 

一人はある晩家族を残して家を出て、洞窟で暮らし始める(この洞窟の描写が最初の方にあるんだけど最高に魅力的)。やがてそこに住む子供相手に塾を作ってそれが私立の学校へと成長し……家出をした男は校長と呼ばれるようになる。もう一人は突然選挙に立候補して、でも当選できなくて、ふて腐れて伊豆の温泉に浸かってぼんやりする日々を過ごしたり、そこに療養で来ていた白人の女に恋をしたり、その恋も破れてから思い切って電鉄会社を設立することになる。アグレッシブに立ち向かう、彼らは世間的に「従順な」存在ではなかった。資本主義社会に浸かりながら、抗いがたいその波に揉まれながら、激動と呼ばれる時代を通り抜ける。曲がることのない電車のレールのように、二人の男の人生は交わることなく、突き進む。

 

その様子は電車の車窓から見える風景に似ている。しばらく穏やかに平地を走っていた電車の外には広大な畑がある。広大な畑と時々民家がある。ある地点でゴーっという大きな音と共にトンネルに入り、景色が真っ暗になってしまう。でも、しばらくするとトンネルを抜けて、また広大な畑と時々民家という風景が現れる……。畑で栽培されているものは、なだらかに変化している。ある場所は桑畑、ある場所では大根や茄子の植えられた畑。そして気がつくと電車は住宅地や商店が立ち並ぶ街中を走っている。通勤・通学の人々でごった返す駅があり、駅ビルがある。

この小説全体が、そんな車窓からの風景みたいなのだ。

 

それにしても百年前の勤め人の苦悩と、昭和から平成に元号が変わろうという時代の新入社員の苦悩がさして変わっていないのだとすれば、それはもう絶望を通り越して滑稽というしかない、反復は、個人にとってみれば単なる悲劇かもしれないが、歴史にとってみれば一種の緩衝剤のような機能を果たすことにもなる。

(前掲書、232頁より引用)

 

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