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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

アジール、道祖神としての廃車―絲山秋子『薄情』

今回はこの小説作品について。 

薄情

薄情

 

 

絲山秋子の「薄情」という小説を読んでいて、ふと思い浮かんだ言葉、それが「アジール」だった。アジールとは、歴史学の概念のひとつで「聖域」とか「無縁所」とか言われている場、政治権力の支配の届かない場を指す用語である。学生の頃、随分と網野善彦の本を読んでいたから、ふと思い出したんだと思う。

「薄情」の3章に「境界の区域」という言葉がある。この作品には様々なキーワードが散りばめられていて、いろいろな角度から読めそうだが、今回は「境界」ということに注目したい。

 

この小説の主人公、宇田川静生は自分の内側になにか足りないという感覚を持っている。「欠落」を感じている。だけれど何が欠落しているのか全くわからない。確かめようもない。漠然とした欠落を抱えて、バイト(嬬恋キャベツの収穫)と親戚の家業(神社)の手伝いをしながら暮らしている。結婚して、そろそろ子供がいてもおかしくはない年齢のようだが、そういう具体的なことは考えない。彼はいたる所で漠然と何かを考えては「考えるのをやめる」。

 

国道17号の外に出て県道を北上していくと、旧市内と旧郡部の境目のような地帯がある。峠を越え、ありは川を渡った途端に文化が変わるのとは違う。平地にありがちなゆるさで街が終わっていき、次の集落に着くまでに色がついていないような景色。ひとの意識の密度が感じられない地域がある。住宅で埋め尽くされているわけではなく、農村にも属していないそのあたりのことを、かれはひそかに境界の区域と名付けた。」(41頁より引用)

 

ここで「アジール」という言葉を思い出した私は主人公が神主の「後継者」であることに納得した。「神主というのも境界の仕事」(47頁-48頁)なのだ。神主の領域はアジールといえるし、そもそもまだ一人前の神主ではなく、あくまで後継者という身分にも境界を感じる。社会的にはっきりした身分ではない。宇田川は境界を生きている

いや、彼だけではなく、もしかしたら誰もが境界を生きている、と感じてしまう瞬間があるのかもしれない。ある出来事についてその場ですぐに白黒つけることができない、なんてことはよくある。あらゆる事柄には「判断保留」という宙ぶらりんの状態がある。この保留状態を否定することは人間を急くことになる。「あの震災後」にしきりに言われた「不謹慎」という言葉は人を判断保留のグレーゾーンというべきもの、つまりアジールの外へ追い立てた。

神主の後継者という将来は約束されているが、宇田川は自分の社会的立場に不安定なものを感じている。それが「よそ者とは何か」を問う彼の思考にも表れているように読める。

 

よそ者とはなんなのだろう

非正規雇用みたいなものか。掛け捨ての保険くらいはついているのだろうか

それとも身軽で無責任で架空めいた存在なのか

(14章、247頁より引用)

 

非正規雇用」という言葉やこの感覚が現代的だ。こういう境界にいる人々は多いだろう(と、書いている私も境界人である)。

境界にいる人はよそ者ではない。「よそ者が本当によそ者になるのは、よそ者と言われた瞬間からなのだ」(13章、217頁) つまり、「判断保留」の状態ではなくなったところ、白黒はっきりつけられた所に「よそ者」は存在する。そういう意味で鹿谷さんは当初「よそ者」ではなかった。彼は境界のひとだった。

境界といえば、作中に出てくる「変人工房」が外せない。先に書いてしまったが、そこのいるのは鹿谷という人物である。主人公宇田川が変人工房に車を停めながらケストナーの『飛ぶ教室』という本を思い出す場面がある。『飛ぶ教室』に登場する「禁煙先生」(世間からドロップアウトして境界に住むひと)と鹿谷さんは一瞬だけ重なる。宇田川もかつては「禁煙先生」みたいになりたかった。だけれど物語が進んでいくと「変人工房」という境界がなくなってしまう。ケストナーの小説はしょせん小説でしかなく、宇田川の憧れも架空の存在に対する漠然とした思いでしかないのだ(と、言いながら今論じている「薄情」も小説なんだけど・笑)。

しかし、「境界」とは実際どこにでもあるもので、変人工房の消滅と鹿谷さんという存在の抹消が「境界」の消滅にはなり得ない。というか変人工房がなくなった後も、そこは相変わらず境界のままかもしれない。ちょうど「犬の形をした絶望がいた」(87頁)みたいに。

変人工房という形がなくなったあとに空白が残される。

 

「みんな鹿谷さんのことが大好きだった。そういう時期が確かに存在した。それがすべて、無効になる。」(248頁-249頁)

 

この作品自体も白黒はっきりつけることを拒否しているように思える。それでいいのかもしれない。現代を生きるということは、社会的にも精神的にも「境界」にいて、はっきりしないことを引き受けることかもしれない。その状態に耐えること、宇田川は何度も志向を中断したり放棄したりしながら、まだしばらく生きていくのだろう。

 

絲山作品に特有の「車」というキーワードは「薄情」にも印象的に用いられている。宇田川が定義した「境界の区域」には道祖神の代りに「廃車」がある。どこにも属していない境界を守るための守り神のように廃車が風景に溶け込んでいる。

実は車という存在が宇田川を越境させたりしているのも面白い。県境を自由自在に越えていく車に乗って遠くへ行こうとして、欠落を抱えた高校生のカズシ君を道の途中で拾って送り届けて……。でも最後はやっぱり群馬に帰るのだ、宇田川は。今しばらく神主の後継者という「境界的時間」を生きるために。

 

 

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 “薄情 | 絲山秋子 | 評者◆大塚真祐子(三省堂書店神保町本店)|図書新聞