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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

美だけで生は成り立たない―坂口安吾「夜長姫と耳男」「桜の森の満開の下」

私は坂口安吾をよく知らない。代表作らしい「堕落論」を読んだことがない。今回私の読書生活が偶然ブルーノ・タウトから坂口安吾へと繋がった。そんなわけなので私が初めて読んだ安吾の文章は代表作の「堕落論」でもなく、ファルス的作品でもない、「日本文化私観」であった。人と作家、あるいは作品との出会いというのは様々だなぁ、と改めて思った。

坂口安吾(1906-1955)日本の小説家、評論家、随筆家。

私が最初に読んだ「日本文化私観」に安吾曰く、「タウトによれば日本に於ける最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生れ、彼の蔑み嫌うところの上野から銀座への街、ネオン・サインを僕は愛す。」とのこと・笑。

もう少しだけ「日本文化私観」から引用させていただこう(青空文庫版なので、頁番号は載せてません)。

 

「多くの日本人は、故郷の古い姿が破壊されて、欧米風な建物が出現するたびに、悲しみよりも、むしろ喜びを感じる。新しい交通機関も必要だし、エレベーターも必要だ。伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡び

ず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。なぜなら、我々自体の必要と、必要に応じた欲求を失わないからである。」

 

「タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距(へだた)りあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。」

 

特に最初の引用に極端なものを感じるかもしれないが、安吾が生きた時代を考えれば納得できる。日本が急進的に変化した時代であり、その変化に希望もあった時代なのだ。現代とはだいぶ状況が違う。

私の個人的な感想としては、電車が動かなくても困らないが(田舎に住んでいると公共交通機関への期待というものは始めからない。だいたい車移動)奈良の仏像が全滅したら困る。都市と地方の差というのもあるかもしれない。

 

前置き(?)が長くなってしまった。坂口安吾「日本文化私観」を読み終えた後、安吾の小説作品も読んでみたくなり、いくつか読んでみた。今回はそのことについて書こうと思っていたのだ。

「夜長姫と耳男」「桜の森の満開の下」という安吾の短篇小説をふたつ紹介する。どちらの作品も【グロテスク・残酷さ、といった動的でどぎつい印象】と、【色にたとえるなら白色、無垢な微笑、静的な印象】というコントラストが際立っている。

 

 

「夜長姫と耳男」

夜長姫の十六歳の正月までにミロクボサツとそれを納めるズシを作れ。

姫のもとに派遣された職人、耳男の三年にわたる死闘の日々。しかし夜長姫という存在は世間一般的で言われる美しい姫君とは様子が違う。「笑顔」で「残虐」なのである。耳男はそんな姫のために「バケモノ」の像を刻み始める(というのも、像を刻み始める前に耳男はその耳を削がれるなど、姫の残虐性を目撃しているのである。姫の残虐な行為と笑顔のコントラストはこの物語の迫力そのものだ)。

芸術とは戦いだ。命をかけた必死の、ぎりぎりの、まさに死闘なのだ。

耳男はバケモノの像を彫りながら、何度も姫の笑顔に「押される」のを感じる。そしてどうにかその笑顔を「押し返そう」とする。姫に負けじと鑿をふるう。その結果、迫力のあるバケモノの像が完成する。

 

「それは耳の長い何ものかの顔であるが、モノノケだか、魔神だか、死神だか、鬼だか、怨霊だか、オレにも得体の知れなかった。オレはただヒメの笑顔を押し返すだけの力のこもった怖ろしい物でありさえすれば満足だった。」(本文より引用)

 

この像は姫に気に入られ、その後耳男は別の像の制作に入ることになるが、今度は姫の笑顔を「押し返さねばならぬ」という不安な戦いはない。抗うということなしに、ただ芸本来の三昧境にひたっているだけだった。その結果、この二つ目の像は姫の興味を引くことはなかった。そして姫の最期の台詞がこちら。

 

「好きなものは咒(のろ)うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。」

 

疫病で死んでいく村人を見ながら笑っている姫、そんな姫の笑顔に抗おうとすること。その戦いの力が(時に残酷な力が)迫真のある作品を生み出す原動力になる。甘えの通用しない厳しい芸術論が見えてぞっとすると同時に、姫の死が読者である私に安堵をもたらした。たぶん、読みながら、もう抗えない(戦えない)と思っていたのだろう……。

 

 

桜の森の満開の下

あなたにとって、桜とはどういう存在だろうか? 賑やかなお花見だろうか、それとも静けさの象徴だろうか。私は賑やかなものが苦手なので、どうしても一人で静かに桜を見たいと思うのだけれど、この小説は「桜の林の花の下に人の姿がなければ怖ろしいばかりです。」と始まる。桜の林の下を通り抜ける時、人は気が狂ってしまいそうになると。

 

「花の下の冷たさは涯のない四方からドッと押し寄せてきました。彼の身体は忽ちその風に吹きさらされて透明になり、四方の風はゴウゴウと吹き通り、すでに風だけがはりつめているのでした。彼の声のみが叫びました。彼は走りました。何という虚空でしょう。彼は泣き、祈り、もがき、ただ逃げ去ろうとしていました。」(本文より引用)

 

喧噪と静寂。おしゃべりと沈黙。

人間の暮らしにはどちらも必要なものなのかもしれない。

ある山暮らしの山賊の男が美しい女をさらってきた。男は一緒に暮らし始めたその女の身支度の様子をみて「個としては意味をもたない不完全かつ不可解な断片が集まることによって一つの物を完成する」ことに気がつく。オシャレ小物はそれ単体では良さがわからない、女が組み合わせて身に着けることによって美しさを発揮する。そんな単純なことに男は気がついて驚く。

女の希望によって、男は都での生活を始めるのだが、そこは喧噪ばかり。喧噪、というかおしゃべりの世界。おしゃべりのシーンの集積が都の暮らしだと言ってもいい。一緒に暮らす女が求めるので男は人を殺し、その首を取ってくる。女はその首で人形遊びのようなことをする。その「首遊び」のシーンがとにかく印象的だ。

 

「女は毎日首遊びをしました。首は家来をつれて散歩にでます。首の家族へ別の首の家族が遊びに来ます。首が恋をします。女の首が男の首をふり、又、男の首が女の首をすてて女の首を泣かせることもありました。」

 

「ペチャペチャとくッつき二人の顔の形がくずれるたびに女は大喜びで、けたたましく笑いさざめきました。」

 

山賊の男と人形遊びに興じる女のほかに、山からもう一人連れてきた女がいるのだが、その女までもが市井の噂話(おしゃべり)に興じている。男はこういった都の生活に退屈を感じて、女を連れて山へ帰ることにした。

その道の途中、桜の森の満開の下を通るのだが、男は背負っている女の正体を鬼だと思って首を絞めて殺してしまう。そしてそのまま二人の姿は桜の花びらに埋もれるように消滅して小説は終わる……。幽玄、という言葉をふと思い出す終わり方だった。

 

思うに、実は男と女は表裏一体の存在で、どちらか一方が欠けてしまえばそれでもう存在自体がなりたたなくなってしまうようなものだったのではないだろうか。男があれほど辟易したおしゃべりの世界も、山暮らしの静けさも。どちらかがあって初めてもう片方もある、という関係。山賊である男は都からやってくる人々を襲い生計を立てていた、純粋に山だけで暮らしていくことなど始めからできないことだったのだ。女の装身具だけでなく、あらゆる断片が人間の生活を組み上げているのかもしれない。断片だけみれば生活というものは、時に美しく、時にグロテスクに見えるものだ。生活の一面だけを見て、その全体を評価することなどできやしない。

女を殺してしまったことによって、男はもうどこへも行けなくなってしまう。彼にはもう暮らしというものがなくなってしまった。

 

「ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分かりません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。」

 

 

こういう読み方をすると、安吾がタウトを批判する意味が少しだけわかるような気にもなる。やはりブルーノ・タウトの美意識は素晴らしいが生活というものが欠落しているように思える。生活(暮らし)というものはもっと猥雑で俗っぽいものも含んでいるし、やっぱり「電車が動かないと困る」のかもしれない(私だって朝起きて、車のエンジンがかからなかったら困る)。