Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

消える境界線―仙田学「中国の拷問」

「うちのダンナが変態はじめたの。朝のばたばたしてるときに、いつもはあたしが触らせない台所でうろうろしてるから、やめてよって腕を摑んだら氷柱みたいに冷たいのよ。」

(仙田学「中国の拷問」冒頭部分、『盗まれた遺書』所収、125頁より引用)

 

こんな魅力的な書き出しで始まる小説があります。以前当ブログで三回にわたって紹介した仙田学『盗まれた遺書』という本に入っている小説「中国の拷問」。初出は「早稲田文学」2003年1月号、著者の新人賞受賞作(デビュー作)です。

以前ブログで『盗まれた遺書』を取り上げた際、「中国の拷問」にだけは全く触れることができませんでした。ぱっと読んで、意味がわかりませんでした。でもツマラナイというわけじゃない(むしろ面白い)。何も言えそうになかったので敢えて書きませんでした。今になって思うに、きちんと読むと触れてはいけない怖さに触れてしまうことを本能的に回避していたのではないでしょうか。読めば読むほど、私の精神を不安定にしていくこの作品の怖さに改めて遭遇してしまったようです。

はじめにお断りしておきますと、私の読み方はきっと間違っています。でも小説に正解や不正解はありません、というか読んだ時の私が読みたいようにしか読めません(苦笑)ですから、以下に書いているのはあくまで私が経験したひとつの「仙田現象」(©いとうせいこう氏)です。

 

盗まれた遺書

盗まれた遺書

 

 

 この小説の筋を簡単に書いてみます。冒頭から「変態」という言葉が出てきていますが、これは変身です。ひとが、ある日突然「変態」して失踪してしまうということが社会的に当たり前の世界が描かれています。社会的に当たり前ということは、「変態」をめぐる各種の社会制度が細かに設定されています。「変態基礎年金」だとか民間の変態補助団体」から派遣される「変態認定士」とか。人間が虫や家電製品なんかに「変態」してしまうなんて絶対にあり得ないことなんだけれど、社会的に受け入れられているらしい描写は笑えました。登場する人物たちは、それぞれ身近な人が変態してしまって残された人々です。彼らは「旧い旅館が改築された二階建ての木造アパート」で共同生活を営みながら「受難」をこなしています。変態によって家族が失踪してしまった場合、残された人々はこちらも社会的に整備された制度である「受難」を受けなければならない。「受難」の種類は様々で社会福祉的な作業から、後半になると「手記の発表」「タレント受難者」が現れるらしいなど、様々なものが存在しています。

 

と、ざっくり書いていくとこんな話ですが、私が今回書きたいのは「変態」や「受難」のことではありません。ここまでは前回読んだ時にとても面白いなぁ、と思っていたことでした。

今回はこの小説のもつ「境界線のなさ」に注目していきたいと思います。深く深く作品の潜ろうとして恐怖を味わいました。「盗まれた遺書」もそうなのですが、よくよく作品を探っていくと読者の側も無事では済まない(!?)事態に陥ります。「盗まれた遺書」の場合、「盗む」という行為が、遺書の文面を書き換えていき、その先に読者がいる。そして読者はこの作品について何かを語ろうとした時にまた書き換えてしまう可能性を孕んでいる……そんな風に我々読者側にも波及していく読書体験ができます。この感覚はコルタサルの「続いている公園」に近いと私は思っています。小説の外側にまで影響力をもち得る作品の構造があります。

 

「中国の拷問」から私が感じた「境界線のなさ」というのは、ひとつには、この作品の語りには様々な物が何の断りのなしに、どんどん投入されているということです。引用した冒頭は一人称形式の小説でも、その後で三人称形式になっています(実はほとんどこちらの形式)。でも、時々「手紙」が入ったり、杏子(主人公、映一の姉で変態した)が古本屋で見つけた「探偵小説」の部分と思しき中国の拷問の場面が挟まったり。映一の行動も時間的にどうなっているのか判然としない、理路整然と時間が流れていません。いろいろな要素に挟まれる形で攪乱されているように見えます。当たり前のように様々な描写が並べられていて、それぞれの場面の間には境界線らしきものがみえません。それにも関わらず全体が漠然とつながって見えるのは『盗まれた遺書』という一冊の書籍全体にもあてはまりますね。

でも一番面白いのは、後半になって出てくる設定、「写真のなかに入る遊び」。だれもいない風景写真を撮り続けることを自らの「受難」と捉えている奈緒という人物がいます。そんな彼女の台詞。

 

「撮っている側と、撮られている側と、それを見ている側とのあいだには、境がないんだなって思いはじめているの。だってあたしは、もとの姿に戻ったひとがまたここに立つことがあるようにって思いをこめながら、誰もいない風景やものを撮るじゃない。それを見るひとたちも、記憶のなかにいる大切なひとの姿を写真に重ねて見るわけでしょう。」

「生霊も同じよ、境がなくなるの。」

(前掲書、163頁、164頁より引用)

 

奈緒は「生霊」を見るらしい。誰に対してであれ「悪いことをしてすまない」と思っている存在を生霊として引き寄せてしまう。奈緒はこの現象によって変態してしまったひとをある程度探すことができるようで、映一に変態した姉、杏子をみつけてあげるという提案を作品のはじめのほうでしています。この所にストーリーとしての緊張感がありました。

ただ、奈緒の見る生霊は様々で、「他人が悪いことをしてすまないと思っている相手までをも生霊として見てしまうのなら、そのなかには他人のもっとも大切なひとも含まれていることもあるだろう。」(159頁より引用)、ひとの関係性の複雑さが提示されています。

そして、その関係性に目に見える境界線なんてない。「撮っている側」「撮られている側」「それをみている側」との間には境がない、生霊にも境がない……。これがふたつめです。

 

写真の中に入る遊びで現実と写真の間にあるはずの境界線が消え、その後にひとの関係性にも境界線なんてない、ということが読み取れてしまった先に怖さがあります。この怖さはこの作品の持つ精緻な描写の力がないと再現できません。

「手前から弓形に突き出して対岸へ届いている橋の上にはベビーカーを押している女たちや欄干に肘を突いている煙草を吸っている老人や犬の散歩をしているランニングシャツ姿の男……」(176頁)、同じ描写が169頁にもあったことを思い出してぞっとしました(同じ写真をみているからなんだろうけれど)。この反復が「写真に入っていく」ということを強調しているように見えてしまうのです。それから、時々奈緒に関する描写が杏子を思い出させます。奈緒は映一の生霊をみたという、映一は「中国の拷問道具を探しに出かける」と書き残して失踪した姉が拷問にかけてなにかを聞き出したがっている相手が自分かも知れないと思う……。

 

「何年ものあいだ、毎月手紙が届くたびに、記憶のなかにいる一緒に暮らしていたころの姉さんの存在をすこしずつ手放し、文字から出発して、知っているのとはまったく別のひとに変わっていく姉さんをつくりつづけなければならず、こちらからは投げかける言葉が見つからなくて、ぼくはずっとあの物語のなかの、中国の拷問をかけられていた主人公のようでした。」

(166頁-167頁)

 

映一の受難はたぶん「写真に入る遊び」を通して、かつての姉と遭遇すること(だからこそ、失踪してしまった姉・杏子が当たり前のように登場している描写があるのではないでしょうか、あれは単なる過去回想とは異質な、映一の経験なのではないでしょうか?)。それだけではなく、手紙や記憶(写真に入ることと重なる)を起点に姉を思い出し、懐かしみ、解体し、再構築すること。でも、どれほど姉を再構築しても結局は遠い存在になってしまうのかもしれない。そんな受難を、最後に奈緒がじっと見ているのではないだろうか? と思いました。そして奈緒は、杏子と重なって見えることがある……。

 

今回この記事を書く上で改めて思ったのです。「変態」は何も家電や虫になってしまうことだけじゃない、もしかしたら全く違う人間だけれどまったく違う姿になってしまうこともあるのかもしれない……。

私には実は蒸発癖があります。Twitterをやっていますが、しょっちゅうアカウントを消します、そして別のアカウントを作ります。これ、変態じゃないか、なんて思ってしまったのです(苦笑)。

作中に出てくる「変態」自体が境界線を越えることだとしたら、もっと多様な読み方ができるかもしれません。

 

 

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追記2016年2月7日

 少し前の記事になりますが、仙田学さんが自身のブログで取り上げてくださってます。「中国の拷問」発表当時のちょっとレアっぽい(?)話が読めますよ!

ameblo.jp

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再読をしながらtwitterでつぶやいたことのメモ(@MihiroMer)

変な景色が見えてきた……。この小説のアウトライン的なものは異様ではあるけれど単純。だけれどこの作品が小説として面白いのはそこじゃない。作品の外側を構成する文と文との間にあるもの、見え始めるこの変な景色をこの眼で捉えたい……(茫然)←「中国の拷問」再読中。

 

仙田学の小説作品に「境界線の無さ」みたいなものを感じるのだけれど、それが私の中ではコルタサルに通じてしまうのです。コルタサル作品を読みながら「なにこれおれはどこいった?」と思うことがよくあるけど、まさにそんな感じがする仙田作品は変な作品なのだ。