Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

雑踏に、遠景になる者―カフカ「失踪者」

カフカエスク」という言葉があることを最近知った。「カフカのような」、とか「カフカ作品にあるような不条理な」、という意味らしい。年末からしばらくカフカ作品に触れ、ずいぶん「カフカエスク」を味わってきた気がする。今回は2015年末に読んでいた「失踪者」というカフカの長篇小説について、その感想を書いていきます。第一章は以前このブログでも紹介した「火夫」です。「火夫」だけが「失踪者」という長篇小説から抜き出されてひとつの短篇作品として独立したようです。

↓火夫についてはこちらの記事に書いています。

 

mihiromer.hatenablog.com

 

カフカの長篇小説は「城」「失踪者」「審判」の3つみたいなので、二つは読んだことになるようです(今年中に「審判」も読みたいです。)

ちなみに今回私が読んだ「失踪者」は『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集Ⅱ-02』に収録されているもの(池内紀 訳)で、以下引用の頁番号などはこれに則っています。

 

失踪者/カッサンドラ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-2)

失踪者/カッサンドラ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-2)

 

 

カフカ「失踪者」のあらすじを簡単に説明する所から始めよう。主人公のカール・ロスマンはヨーロッパからアメリカへ移民してきた。自分の意志ではない。故郷でやらかした(しかもこれも自分の意志ではない)ために両親によってアメリカへやられたのである。そんなカールがニューヨークへ上陸する船で偶然伯父に出会い、こうしてアメリカでの生活が始まるのだが、何一つうまくいかない。すべて予想の斜め上をいく展開がカールを待っている。火夫の正義を主張できない、偶然出会う伯父に保護されるもその後あっさり伯父に見捨てられる、ようやく手に入れた職業も失う(しかも自分の意志ではない)、警察に追われたり、わけのわからない境遇に押しこめられたり……。カフカ自身、この作品を完成させることはなかったが、どうやら後半カール・ロスマンはこの不条理な世界に自分を合わせていくコツみたいなものを修得し始める。こうして一人の青年は完全な「失踪者」になるのだ。

 

私が読んでいて思ったこの小説のキーワードは「遠景」と「正義への無力感」だ。

 

カフカ「失踪者」を読みながら一番初めに考えたことは「すべてがあっという間に遠景になる」ということだった。次々と後ろへ去りゆく景色とでも言おうか。この間読み終えた「城」が「どこにもいけない」小説であるなら、「失踪者」は「どこまでも連れて行かれる」小説だ。時々、主人公のカール・ロスマンは遠くを見ている。その描写(遠景)がこの小説の素晴らしい所だと思う。長くなりそうだが、好きなので引用しておこう。

 

「朝と夕方、また夜の夢のなかで、大通りにせわしない雑踏が往きかいした。上から見ると、ひしゃげたような人と、さまざまな形の車の屋根がまじり合って、とめどなく流れていく。そこに騒音と埃と臭いがまじり合い、強い光が射しかける。あらゆる事物が発光する光が、すべてを運び去り、また運びこんでくるぐあいで、眺めていると目がチカチカしてきた。まるで大通り全体を大きなガラスが覆っていて、それがたえまなく巨大な腕で粉みじんに砕かれているかのようだった。」

(前掲書 Ⅱ伯父 44頁より引用)

 

「やがてゆるやかな高みにのぼっていった。ときおり足をとめて振り返ると、ニューヨークの街と港がひと目で見えた。かなたに大きくひろがっていた。ニューヨークとボストンを結ぶ橋がハドソン川の上に美しい弧を描いていた。目を細めると、揺れているように見える。下にはただひと色の水の帯がのびていた。両側の巨大都市は、すべてが空っぽで役立たずに据えつけられたようで、大小とりまぜた建物にも、どこにも何のちがいもない。地上の道路には、いつもどおり人々の生活があるのだろうが、上はうっすらと靄がたなびいているだけで、それはじっと動かず、ひと吹きで追い払えるようにも思える。世界最大といわれる港ですら静まり返っているようで、以前に間近から見た記憶があるせいで、船の姿が見え、それがゆっくりとうごいているのがわかるだけではないだろうか。その船も、ながくは追っていられない。すぐに視野からそれて見えなくなった。」

(前掲書 Ⅳラムゼスへの道 112頁より引用)

 

一つ目は伯父の家のバルコニーから見下ろしたニューヨーク。二つ目は伯父に放逐された後、素性の知れない二人組に連れられていく道中、遠ざかるニューヨークだ。エピソードも次々と変転するが、その都度描かれる遠景の描写が具体的だ。カールは自分の目の前にある出来事(近景)は理解できない、意味がわからない。それなのに、遠景はよく見えるのだ。そしてちゃんと見えている遠景にはどことなく「人間疎外」の風景が広がっている。たぶんその遠景の「人間疎外」の渦中にカールはいるのだが、本人はかなり最後の方まで「正義」や自分の言い分に拘る。あくまで人間的であろうともがくのだが、自分の力では何も変えることができない。遠くに見える人々の生活はどこもかしこも不条理なもので、すべてが「たえまなく巨大な腕で粉みじんに砕かれている」のかもしれない。ただ、風景の只中にいる当の本人に、このどうしようもない悲惨さはわからないのだ。

カフカ作品は、巨大な機構に巻き込まれた近代社会の人間疎外を描いているのだけれど、労働者の目を通して描いたプロレタリア文学とは違う雰囲気を持つのはこういう遠近の使い方にあるのだろう。

 

第一章「火夫」において、カールは火夫に対する「正義」を主張するが、それは認められなかった。力ない青年カールはそのまま「火夫」を置き去りにして船を離れた。特に六章「ロビンソン事件」という部分でカールの立場は「火夫」と重なるように読める。やはり正義は通らないのだ。それでカールはせっかく手に入れた職から締め出されてしまう。

 

「カールの言葉を聞いてから、調理主任はじっと彼を見つめていた。ボーイ長の言ったことも聞いていないようだった。目をみひらいてカールを見ている。大きな、青い瞳だった。それが年齢と疲れから、少しうるんでいた。立ったまま、前の椅子に手をかけていた。すぐにでも言いそうな気配だった。

(カール、よく考えると、何もはっきりしていないし、あなたの言うとおり、よく調べてみなくてはならない。みんなが納得できるようにしましょう。正義がなくてはならないものね)

しかし、そんな風には言わなかった。しばらく間があった。誰もあえて口をひらかない。」

(前掲書 Ⅵロビンソン事件 192頁より引用)

 

誰もカールを擁護してはくれない。カールもやがて社会へ己の要求を通そうとすることを諦める。その諦め、正義への無力感によって彼は世界に受け入れられるようになるのだ。不条理な世界に上手く適合できるようになってくると、身分証明書なんて必要のないものだし、なんの意味もなさなくなる。カールは適当な所に滑り込めるようになるのだ(特に断片の二つ目の話「オクラホマ劇場の求人」の部分)。

 

何者にもなれるようで、実は何者でもない。単なる無名の「失踪者」として雑踏の中へ消え、やがて雑踏になる。いつも見ていた遠景になり、「とめどなく流れていく」しかなくなるのだ。それが主張をやめた個人の末路なのかもしれないと思うと、ぞっとする。

カフカエスクは現代において特に異様な状態ではないだろう、その事実があまりにも恐ろしい。

 

 

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