Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

今の私にとって小説を読むということ

今回はいつもの読書感想文ではなく、今の私にとって小説を読むということは一体どういうことなんだろうか? どんなふうに私は小説と向き合っているのだろか? ということを考えてみようと思います(興味のない人はスルー推奨です。)

 

 今のところ、私は小説というものは「読みたいようにしか読めない」気がしています。自分が小説を読んでいる時の頭の使い方って、哲学書を読んでいる時とは全然違うんですよね……ということに、今更気づいた(笑)哲学書を読むということは、理論を辿るということで、(誤読は仕方ないにしても)ある程度書き手の意図の通りに読んでいくものです。書き手も、自分の論を相手に納得させるために道具としての言葉を尽くしているはずです。

 それに対して小説を読むということは、その作品を読んでいる時の自分の状況を無意識のうちに重ねてしまうことなんじゃないか? だから「読みたいようにしか読めない」。私のブログの読書感想文には、必ず本文の引用が出てきます。そういう引用の部分って実は読みながら付箋を貼っています。つまり、読みながらその時点で自分の見方(読み方)を強く反映した部分を本文から抽出しているんですね。それで、あとからその抽出したものについて、「何故そこが気になったのか」を具体的に文字にしていく作業がブログの更新です。

 

一応のところ、新人賞を目指して小説を書いている人間なので、「想定読者」という言葉をよく聞くのですが(実はあまり好きな言葉ではないのですが)、読者の「想定」がある程度できるということは、「読みたいように読む」人々の傾向がある程度限定できるからではないでしょうか。最近、佐藤洋二郎という作家の「福猫小判夏祭り」という小説を読んだのですが、この作品の「想定読者」から私は漏れてしまっているだろう、と感じました。勿論、細部を見ていけば素敵な表現はいくらでもあるのですが、あまり好きにはなれませんでした。

勿論、文芸批評を専門的にやっている人にとってはこういう読み方はアウトなのかもしれません。もっと客観的に読めるものなのかもしれません(私にはわかりませんが)。

しかし、私はあくまで「自分の言葉で語る」ことを大事にしたいと思っていますし、同時に、自分の主観たっぷりの読み方しかできていないことに対しては自覚的であろうと思っています。

「読みたいようにしか読めない」し、「書きたいようにしか書けない」というエクリチュールの呪縛みたいなものには常に意識的でありたいものです。

 

以前「盗み続ける書評」と題して仙田学『盗まれた遺書』という書籍を紹介しましたが、この作品を読みながらこんなことを考え始めたのでした。表題作の「盗まれた遺書」という作品は、誰が書いたのかはっきりしない遺書を(それも外国語で書かれていて完璧に読めない遺書を)作中の人物たちが主観たっぷりに読み、しかも書き換えているらしい、そして書き換えられたらしいものがどうやら読者の前に提示されているらしい、という作品でした。もうこれは、わたしが書評という名目のもと、さらにしつこく書き換えてこのブログを見ている人々に提示して、テキストを増殖させてやろう、という気になります(笑)

 

mihiromer.hatenablog.com

 

 

文芸評論家ではない一般の読者にとって、そもそも読書ってこんな感じなのではないでしょうか? インターネットを通して確かに専門家の意見もたくさん読めるようになり、それはそれでありがたいことなのですが、そういう権威に圧倒されて一般の読み手が委縮してしまっていたら、それは出版業界にとってもマイナスですよね?

私はこれからも敢えて自分の専門外である文学に関わっていきたいと思っていますし、小説の面白さを自分なりに語っていければいいな、と思っています。誤読すら覚悟で、いろいろな見方を提示していきます。「あ、こいつ明らかに馬鹿だ」と思ったら笑ってやってください。少なくとも、小説の面白がり方はひとつではないらしい、ということをもっといろんな人に体感してもらえれば嬉しいですね。

 

「福猫小判夏祭り」という小説からちょっとだけ引用したいと思います。この小説のワンシーン、主人公の波多野という中年の男が町を歩きながら駅名に「橋」とあるのに実際にその場所には「橋」も「川」もないことを考えて、駅名の由来を知りたがっている場面があります。

 

「ひとりになると些細なことや、他人からみれば呆れるようなことが気になる。社会に参加したいという心の表れではないかと思うときもあるが、案外とつまらないことやどうでもいいことのほうが、近頃は重要ではないかと考える。物事の細部が気にかかる。駅名の謂れを知ったところでどうなるものではないが、そこから世界が広がる。そんな愉しみかたがあるのを知った。」

佐藤洋二郎「福猫小判夏祭り」初出「文學界2001年3月号」、同作者『実践 小説の作法』(日本放送出版協会 2002) 138頁より引用)

 

こういう所に読者としての私が自分自身を重ねてしまうんですよね。勿論、この主観的な読み方をしているという事実には意識的であり続けたいです。あと、この部分だけ抜き出して引用すると誤解を招きそうなので一応書いておきますが、この小説はひとりの男の生き様を描いた小説であり、私が問題にしている「小説を読むということ」といったことを描いたメタ的な小説ではありません。

 

この小説についてtwitterで述べたこと(まとめ)

佐藤洋二郎「福猫小判夏祭り」という小説を読んだ。初出が文學界2001年3月号。離婚小説って感じだ。結婚や離婚という人間の関係性を通して人生を見つめ直すような語り。でもいくら振り返って見つめ直しても、何一つ取り戻せないし、結局心の底に重い塊だけが残る。

そもそも主人公は存在しない橋や川に想いを馳せている。川という流れる印象から流動して次々に移り変わる関係性を連想したが、そういう流動は過去の記憶にしかないのかもしれない。現在はいつだって停滞してわだかまっているような気がする。

「地下を流れる水」から紡がれる描写であるマンホールの下を流れる下水の臭いや、鼠の死骸のある貯水槽のタンクなど、薄暗い負のイメージは良かった。こういう水の印象に古今和歌集水無瀬川を重ねるのは無理があるようにも思ってしまう。薄暗い負のイメージを無理に浄化しようとしているように見えた

あと、たぶん作者の想定読者(この言葉はあまり好きではないのですが。)は私みたいな存在じゃない 笑。40〜50代男性なら展開するシーンに親近感が湧くかもしれない。私には合わなかった。合わないからなのか、登場人物の属性がすんなりはいって来ず、それぞれの要素が感覚的に結びつかなかった。