お久しぶりの更新になってしまいました。長編小説を書いている間はだいたいこのくらいの亀更新になります。いつも見に来てくださる方、ありがとうございます。のんびりですが、これからも読書感想文(?)頑張りますね。]
悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)
- 作者: コルタサル,木村栄一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1992/07/16
- メディア: 文庫
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木村榮一訳『コルタサル短篇集 悪魔の涎・追い求める男 他八篇』(岩波文庫1992年)
さて、今回からまた数回に分けてこの小説に収録されている短篇小説をいくらか紹介していきたいと思います。この本に収録されている短篇小説は以下↓↓
・続いている公園
・パリにいる若い女性に宛てた手紙
・占拠された屋敷
・夜、あおむけにされて
・悪魔の涎
・追い求める男
・南部高速道路
・正午の島
・ジョン・ハウエルへの指示
・すべての火は火
ちなみに私が好きなのは「すべての火は火」。「夜、あおむけにされて」「南部高速道路」も面白かったです。岩波文庫版コルタサルは重複している作品が結構あるのが困ります(苦笑)ひとまず、私が所持しているのはこの文庫です(前回まで紹介していた『遊戯の終わり』などは図書館本!)。
前置きが長くなってしまったので今回は一篇だけ紹介して終わりにします。
「パリにいる若い女性に宛てた手紙」
小説の語り手「ぼく」が「きみ」(パリにいる若い女性)に宛てた手紙という文体形式の作品。「ぼく」には口から子兎を吐き出すという奇癖があり、そのことを告白するという手紙の主旨が、最後には遺書になっている……。
聖域ともいうべき日常(または秩序)を壊していくことへの罪悪感が簡潔な文体から滲み出る。
「家の中にあるものはどれもこれもよく考えた上で配置してあり、そうした配置はこの家の、そして現在遠くで暮らしている人の心を映し出している。だから、小さなコップを動かすということは、そうした関係の組み合わせをかき乱すということにほかならない。本に指を近づけたり、ランプの円錐形の光をいじったり、オルゴールの蓋を開けようとすると、すでにでき上がっている秩序に挑みかかり、それを汚そうとしているような気持ちに襲われる。とたんに、罪の意識がまるで雀の群のようにさーっと目の前を通り過ぎて行き、何もできなくなるんだ。」(前掲書12頁より引用「パリにいる若い女性に宛てた手紙」)
「ぼく」にとって子兎を吐き出すことは何の問題もない(というか問題もなく日常の一部として成立してしまっている)。
「新しく生まれた子兎は以前の兎と同じ生活、同じ習慣をくり返すんだ。習慣というのは具体的な形をとったリズムなんだよ、アンドレ、そしてそのリズムに乗ってぼくたちは毎日の生活を楽に送っているというわけだ。」(前掲書15頁より引用)
十羽の子兎と安定した日常を築いていた「ぼく」はある日、十一羽目の子兎を吐き出してしまう。リズムが崩れる瞬間だ。それはある種の秩序の崩壊であり、「ぼく」の秩序だけでなく「きみ」の秩序(「ぼく」は「きみ」の家に一時的に引っ越してきて暮らしている)を汚すことにもなってしまう。それに耐えきれなくなったかのように、手紙の終わりのほうが遺書めいてきて、そして……。
「十一羽の子兎は、悲しみのない立方体の夜の中で眠っている。」(前掲書24頁より引用)
ここにはもう、秩序や安定はない。十羽が十一羽になれば、やがて十二羽になり、十二羽は十三羽になり……という可能性を秘めている。
ちょっとした出来事によって崩壊する日常、日常というものがどれほど危ういバランスの上に乗っっているものなのかを考えてしまう。コルタサルらしい短篇小説だ(とか言いつつ実はコルタサル読書歴たった数か月なんです、ごめんなさい)。