言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

非日常への招待状3-コルタサル『遊戯の終わり』

さて、コルタサル『遊戯の終わり』(岩波文庫)の中からいくつか短篇小説を選んで感想を書いてきましたが、今回の更新で『遊戯の終わり』に関しては一旦終わりにしたいと思います。本当はもっともっと書きたい所なのですが、如何せん図書館本なので返却期限が……(苦笑)満喫させていただきました、有難う、図書館。

過去記事(1回目、2回目)はこちら↓↓

 

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今回はコルタサルの短篇「水底譚」と「山椒魚」と取り上げます。この2作品はどちらも直接書いてはいないけれど、どこかで「読者の側の現実」に繋がってくるように読めます。コルタサルの短篇「続いている公園」もそうですが、我々読者は単なる傍観者ではいられないのかもしれません、そこの所に得体の知れぬ怖さがある。「フィクションの中の現実」と「読書をしている我々の現実」がいつの間にか接続している、それが現時点で私が考えるコルタサル作品の醍醐味です。

 

6「水底譚」

「今頃の時間になると、昔のことが懐かしく思い出されるものだ。亡くなった人が無性に懐かしく思い返されると、その人の残していった空白を言葉やイメージで埋めたくなるのは当然だ。」(コルタサル著 木村榮一訳『遊戯の終わり』岩波文庫2012、173頁引用)

 

語り手「ぼく」は若かった頃の思い出を懐かしみつつ、旧友の「きみ」(マウリシオ)に自分がみた「夢」を語って聞かせている。その夢というのは、川のあたりを歩いていた「ぼく」は一体の水死体が川上から流れてくるのをみかける。水死体の顔をみたとたん叫び声をあげて目が覚めた、というもの。そしてその水死体の顔が思い出せないという。この「夢」については、マウリシオの話す以前に別の旧友ルシオにも話したんだけど、その時の状況は今(マウリシオに話している時)と全く同じ。ルシオに話した時は、夢の話をしながら夢の中で水死体をみた地点まで散歩していた。その時「ぼく」は夢の中の川上から流れてくる水死体の顔を思い出す……。その顔は「ぼく」自身だったと。

「ぼく」と「きみ」(マウリシオ)はそんなルシオとの出来事を交えながら夢の話をしつつ、やはり夢の中で水死体をみた地点まで川辺を散歩している。そして徐々に水死体をみた地点へと近づき……。

 

「とうとう、あれが正夢になるんだ、マウリシオ、正夢にね。」

(前掲書183頁より引用)

 

地縛霊的な語り手「ぼく」は繰り返し繰り返し、語り続けているのだろう。話を聞かされる「きみ」はもしかしたらこの小説を読む「読者自身」かもしれない。語り手は延々と語り続けるのだ。自分が死んだあとの「空白を言葉やイメージで埋める」みたいに。

 

 

7「山椒魚

まるで山椒魚に憑りつかれたように水族館に足繁く通い、山椒魚の水槽の前でガラス越に山椒魚を見つめる語り手の「ぼく」。やがて「ぼく」の意識が山椒魚に乗り移ったかのように「ぼく」は山椒魚について外面から見る以上のものを感じ始める。

 

「毎朝、水槽の方に身を乗り出すたびに、その考えが徐々に強まっていった。彼らは苦しんでいた。水底にいる彼らの身を噛むような苦悩を、彼らの受けている過酷な拷問を、ぼくの体の繊維組織の一本一本がひしひしと感じとっていた。」(前掲書207頁より引用)

 

それが最後には、「ぼく」の意識は完全に山椒魚に憑りついており、やがて人間の姿をした「ぼく」と完全に切り離されてしまう。「ぼく」の意識は山椒魚に取り残されてしまうのだ。山椒魚になった「ぼく」が人間だった頃の「ぼく」を水槽のガラス越しに、ガラスの内側から見つめている……。山椒魚になってしまった「ぼく」は「人間としての思考力を失わずに」いつか彼(人間だった頃のぼく)が山椒魚についてこのような物語を書いてくれることを期待して、小説は終わっている。

そうして我々は、「山椒魚」という小説作品を読んでいることに、読了後、ふと気がつくのだ。