前回の続き更新です。今回もコルタサル『遊戯の終わり』から短篇小説を紹介します(というか、ほぼ自分用のメモ状態)。
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4「キクラデス諸島の偶像」
「そうなんだ、説明するにも言葉がないんだ」「少なくとも、ぼくたちの言葉じゃね」
(『遊戯の終わり』87頁より引用)
発掘した彫像(偶像)の「本質」とでも言うべきものに、辿り着いてしまった考古学者ソモーサがその「本質」をモーランに語ろうとしている。しかし、その行為はやがて「語り」を越えて、いつしか偶像の時代(過去)へと引き戻される。始めに狂い出したソモーサだけではなく、その狂気を目撃していたはずのモーランまでもが、暴力的な時間に支配されるのを読者は目にすることになる……。
「考古学者というのは自ら探求し解明した過去と多少とも一体化する。彼は過去の遺物と固く結ばれることによって、理性の枠を越え、さらには時空間をも変質させる。そこに一種の空隙が生じるが、その隙間を通って……」(92頁-93頁より引用)
5「黄色い花」
「信じてはもらえないだろうが、ぼくたちは不死の存在なのだ。そのことを知ったのは、不死ではない人間、つまり死すべき運命にある男と会ったことがあるからだ。」
(102頁より引用)
こんな風にして始まるこの小説は、輪廻思想を題材にした作品である。この「死すべき運命にある男」の身の上話が主に語られる。
ある日95番のバスに乗ったこの男が自分の子供時代にそっくりな少年に出会う。少年の名はリュックと言った。些末な日常のエピソードまで、男はリュックがあまりに自分に似ているため、自分の生まれ変わりである存在が「時間に襞がよってしまって」生じた狂いによって、自分が死ぬ前に生まれてきてしまったと確信した。しかし、リュックという少年は男よりも先に死んでしまうのである。男→リュック→リュック死後に生まれてくる生まれ変わりの存在→さらにその生まれ変わりの存在、というような輪廻の輪がここでふっつりと切断される。輪廻の輪からはみ出してしまった男は死すべき運命にある、ということになってしまったのだ。(この男以外の存在、つまり我々は不死の証明をすることはできないが、たぶん漠然と輪廻の法則の内側にいるのである。生まれ変わり続けている限り、我々は不死なのだろう。)
輪廻からの解放(解脱)といもいうべき境地に陥った男はリュックの死後幸福感に包まれるがそれも長くは続かない。ある日花壇の端に咲いていた黄色い花が美しかったけれど、死ぬべき存在の自分にはこの先ずっと虚無しかなくて、一輪の花さえない……。
一瞬でも輪廻から離れる視点を獲得してしまった男は極限まで思いつめた個人主義的死生観に嵌っていくしかなかったのだ。つまり「自分」とい個の一生は確実に終わってしまうということを強く意識しすぎてしまったのだ。それ故に自分は「死すべき運命にある」と強調する。
たまたま95番のバスに乗ったところから男の死生観の思索は始まり、最後には花の一輪さえない虚無が暗い入り口を開けて待っているかのような短編だ。