言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

非日常への招待状1―コルタサル『遊戯の終わり』

久しぶりの更新になってしまいました。沈黙している間はだいたいコルタサルの短編小説を読みふけっていました。

今回は岩波文庫『遊戯の終わり』というコルタサルの短編集の中で、特に気に入ったものを取り上げて簡単に紹介しようと思います。

 

遊戯の終わり (岩波文庫)

遊戯の終わり (岩波文庫)

 

 

 当ブログで取り上げようと思っている短編小説は以下の通り。

「続いている公園」「誰も悪くはない」「河」「キクラデス諸島の偶像」「黄色い花」

「水底譚」「山椒魚

 

三回くらいに分けて語ろうと思います。書きはじめたら一回分の更新にしたらアホほど長くなりそうで……(苦笑)

コルタサルの短編集『秘密の武器』(岩波文庫2012)の訳者解説で的を射た解説文を見つけたのでここに引用しておこうと思います。これからコルタサルの作品を読もうとする人々へ。

 

「この短篇集(『秘密の武器』のこと。ただ、コルタサル作品全般に言えることだとブログ主は思う)に収められている五篇の作品は、言ってみれば作者コルタサルが読者に宛てて出した一種の招待状、彼が創造した幻想と悪夢、連続し、継起する時間とそこから生じる因果律の法則が通用しない世界への招待状といえるかもしれない。恐怖と非日常の世界を愛する人でなければ、この招待状を開かない方がいいだろう。うかつに開いてしまうと、手紙、一枚の写真、ジャズのレコードが読者を通常とは異なる時空の世界に引き込んでしまうかもしれないからである。」

(『秘密の武器』岩波文庫2012 訳者解説316頁より引用)

 

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コルタサル著 木村榮一訳『遊戯の終わり』(岩波文庫 2012)収録作品について↓

 

1「続いている公園」

小説を読んでいる時には背後に気を付けようと思った(苦笑)。現実とフィクションが巧妙に接続する小説。小説の登場人物、ある男が小説を読んでいる、その小説の内容がやがて小悦の外側に現れて本を読む男の後ろに……。この小説作品を読む我々自身を作品の構造と合わせて考えるとまるで「ドン・キホーテ」のような重層性を帯びる。つまり、

現実(「続いている公園」を読む私)→フィクションの現実(小説を読む男)→フィクションのフィクション(男が読んでいる小説)→フィクションの現実(フィクションのフィクションから続く時空間)→現実(「続いている公園」を読了して後ろをふりかえる私)

 

2「誰も悪くはない」

なぜかセーターを着ることができないんです、でも着たいんです。妻と待ち合わせの約束があるんです、急ぎたいんです。でもなぜかセーターを着ることができないんです。

急げば急ぐほどこんがらがる。やっとの思いでセーターの外に右手がでた。これで一気に解決だ。そう思ったがしかし、なぜか右手は非協力的なのだ。

「左手はネズミ取りにかかったネズミのようだし、外からはもう一匹のネズミが中にいるのを逃がしてやろうとしている。いや、そうじゃない。外のネズミは助けるどころか噛みついているのだ。突然、袖の中の彼の手に痛みが走った。右手が袖の中の日照り手に猛然と噛みついているのだ。」(『遊戯の終わり』16頁より引用)

そんな右手の変身は右手だけのものなのか、セーターの外の時空間そのものが異質なものになってしまったのか……。

 

3「河」

「セーヌ河に身投げしてやるわ、たしかそんなことを言っていたね。」(冒頭)

妻は出て行ったのか、出て行かなかったのか。夢と現実を寝ぼけ眼でさまようような語り手の「ぼく」。夜明けという河、ベッドなのか河なのか、シーツの上なのか水の中なのか。無駄のない単語によって同時に二つのイメージを喚起する作品。

「夜明けは素裸の二人を包みこみ、一個の震える物体に変えて、結び合わせる。」(前掲書22頁より引用)

 

続きはまた次回の更新で!