Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

タウン・ホー号の物語の位置づけ―メルヴィル『白鯨』

今回でメルヴィルの小説『白鯨』に関する一連の更新は終わりにしたい(長かった、ようやく決着をつけられそうです・汗)。何が面白いのか、読んでいて何を感じたのか、ほぼ自分の備忘録的な更新でしたが、今年この小説を読めたことには意味があったんじゃないか、と思います。

 

最後は第54章「タウン・ホー号の物語」という岩波文庫版中巻の134頁から178頁に収められている「つぎはぎ」のひとつについて書いていく。

「白鯨」という小説の中には物語の進行とは関係のない「異質な」ものが混入している、というのは最初の記事でも書いた通りだ。

 

mihiromer.hatenablog.com

 

つまり「つぎはぎの構成」なのだ。今回ブログに書くのはそんな「白鯨」にあってたぶん一番「異質な章」についてだ。

 

まず、この章は「白鯨」の物語の進行に一切関与しない独立した物語である。中巻の訳注によると、『白鯨』が出版された1851年11月中旬より6週間ほどまえに、そのまま「独立した」作品として「Harper’s New Monthly Magazine」の8月号に発表されていたらしい。

内容をざっくり書くと、洋上でピークオッド号とタウン・ホー号が「出会い(ギャム)」をした時に、タシュテーゴ(ピークオッド号の銛打ち)がタウン・ホー号の船員から内緒話を聞く。この「秘密」をタシュテーゴは寝言でしゃべってしまったため、ピークオッド号の水夫に知れ渡ってしまう。その時に聞いた話を語り手のイシュメールが「白鯨」物語最後の頁よりも後の時間軸の、ペルーの首都リマで他者に語って聞かせる、というものだ。

この部分は章タイトルの後に「黄金亭(ゴールデン・イン)にて語られしままに」と付されている通り、その時のイシュメールの聞き手への語りをそのままに「記録」したように書かれている。訳者解説(下巻)によるとこれは「イシュメールの又聞きの又語り」であり、語られている場が時空共に「白鯨」本編とは全く違った地点にあるという意味で「物語内物語というより物語外物語」と言ってもいい。

 

さて、私は何故「白鯨」という小説の中にこのような時空ともに「異質な」章を紛れ込ませたのかについて考えてみたい。何故紛れ込ませたか、というより紛れ込ませることによってどういった効果があったのか? と言った方が正確かもしれない。

この「タウン・ホー号の物語」というタシュテーゴに伝えられた物語はタウン・ホー号の航海士ラドニーとスティールキルトという水夫のいざこざに始まり、人間関係のどす黒い感情を織り交ぜつつ、最後はラドニーが白鯨に命をとられる、というもの。エイハブが執拗に追求する「白鯨」が関係している話であるにも関わらず、エイハブやスターバックというピークオッド号の上級船員たちの耳には入らなかった話である。ピークオッド号の水夫たちの間に「白鯨」という存在がまことしやかに囁かれる、そういう噂話の一つなのである。

私はこの章もやはり「白鯨」というものの存在(実体)を読者から遠ざける効果があると考える。つまり、白鯨と読者の距離を遠ざけることで、白鯨がより神話的な存在として描かれているように見えてならないのだ。

 

「絶海の縹渺たる空間をさすらうあいだに白鯨の誇張されたうわさがますます誇大になり、白鯨にあらゆる種類の病的な幻想を付加し、白鯨を超自然的な存在の分身と見なす未熟な胎児のような観念まではらませ、ついにはモービィ・ディック(白鯨)をいまだかつてない恐怖の権化にしたてあげることになるのも不思議ではなかった。」

 (八木敏雄訳『白鯨』岩波文庫 上巻441頁-442頁より引用)

 

南洋捕鯨航海はあらゆる客観的視点を失った行為である。何せ数年間も上陸することなく、一隻の捕鯨船で絶海に漂うからだ。時々与えられる客観的視点としては他の捕鯨船との「出会い(ギャム)」であるが、その出会った捕鯨船も似たような長期航海の途上であり、やはり陸上からの情報からは締め出された存在なのである。そんな閉塞した空間において船乗りたちの間に広まる「うわさ話」がどれほど大きな影響力を持つか想像するのは容易なことだと思う。如何せん、その「うわさ話」くらいしか情報がないのである。「うわさ話」は簡単に信じられ、再生産され(話に尾ひれがつき)流布されるのだ。

『白鯨』という小説の長い航海の途上で、本当に実体としての白鯨を知っているのはエイハブ船長だけだ。なぜなら彼はかつて白鯨に片脚を奪われた経験があるからだ。そして彼はこのたびの全航海の中でじっと復讐の機会を待っているのである。ところがよく考えてみるとエイハブにとっての白鯨も「実体」とはかけ離れているのではないだろうか。どこか観念的というか自己投影的なものとして「白鯨」、このように小説を読むこともできるのだ。

 

白鯨とは一体何なのか……?

小説を最後まで読んだ我々はピークオッド号による白鯨の三日間の追跡を知っている(小説上実際に白鯨が出てくるのはこの部分だけ)。この部分があるから白鯨という存在を確かな実体として感じることもできるが、しかし物語の大部分を割いて作者は白鯨の存在をぼかして幻想的存在にしたてあげている。この幻想性の故に、我々は小説を最後まで読んだあと、もう一度最初に戻らねばならなくなる。果たしてエイハブが復讐を遂げたかった白鯨とはラストの「あの白鯨」だったのだろうか。白鯨という存在が乗組みたちにとって小説中のどの時点でどのように認識されていたのか。

 

私は「白鯨」という存在が漠然としていながらも強烈な存在感をもって広々とした作中の海を遊弋しているように思えてならない。なんてスケールの大きな小説なのだろう。ここまでブログを更新してきたが、それでも語りきれない、とらえきれないほどの大きな小説だった。実体にしても観念にしても白鯨という存在を捕獲することは不可能なのかもしれない。