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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

エイハブとフェダラー「実体」と「影」―メルヴィル『白鯨』

エイハブについては、ひとつ前の記事でとりあげたので、ここでは専らフェダラーという登場人物について語ろうと思う。この人物が特に描かれるのは小説の後半であるが、実は前半のイシュメールに一人称語りの部分に初登場している(そのことに気が付くのは中巻)。

 

「わたしについてなら、だまってはいたけれども、あの早暁のナンターケットでピークオッド号にしのびこむふしぎな影を見たことや、奇怪なエライジャの謎めいた預言のことを思い出さないわけにはいかなかった。」

(『白鯨』八木敏雄訳 中巻 88頁より引用)

 

ちなみに中巻のこの部分でイシュメールが思い出す「あの早暁のナンターケット」とは上巻の第21章「上船」のことだ。そろそろ出航するぞという捕鯨船ピークオッド号にイシュメールが向かっていると、前方に船乗りが何人か走っていくように見えた。空はまだ明けておらず、灰色の霧にかすんでいたため視界は悪く、イシュメールもその人影について錯覚かもしれない、と思った。しかし実はこれが不気味なフェダラー一味(フェダラーと東洋人たち。エイハブの捕鯨ボートを漕ぎ手になる)なのだ。

 

 フェダラーという存在は常に謎と不吉さを纏った人物で、上巻でイシュメールが謎の人影として目撃した時にはすでに読者はフェダラーに「不吉な」印象を見ている。それには謎めいた預言者的存在であるエライジャなる人物が大きく関わっている(この人物は上船以後登場しない)。エライジャは遠まわしにピークオッド号に乗るのはやめたほうがいいという忠告をするのだ。その時にピークオッド号の方へ走っていく影についても言及している。たいていの読者は「白鯨」の破滅的な終焉を知っているため、この章の不吉さが強烈な印象をもって記憶に刻まれるのかもしれない。だからこそ、後でフェダラーが登場した時にイシュメールが「思い出した」このナンターケットの早暁の不吉な印象がフェダラーの印象に重なるのだ。

 

「あの自前の髪をターバンにしているフェダラーだけは例外で、最後まで謎につつまれたままだった。フェダラーがどこからこのお上品な文明世界にやってきたのか、いかなるふしぎな因縁によってエイハブの数奇な運命とむすびつくことになったのか、いや、どういう理由でエイハブのうえに支配力に類した一種の影響力をふるうまでになったのか、これはだれにもわからないことだった。」

(中巻111頁より引用)

 

この謎と不吉さに覆われた存在(フェダラー)が下巻でエイハブについて予言する。「(エイハブは)麻縄以外では死なん、と」。一般的に「麻縄で死ぬ」というのは絞首刑に処せられて死ぬということになるから、エイハブは当然自分の不死の予言としてその言葉を受け取った(捕鯨航海で洋上にいる限り、絞首刑になるはずがない。ところが、エイハブは鯨綱という麻縄によって死ぬのである)。

エイハブとフェダラーのやり取りを見ていると、エイハブがフェダラーの雰囲気に飲みこまれていくように思える箇所が何か所かある。フェダラーの雰囲気、つまり不吉な影である。

 

「エイハブの目が乗組みたちをおびえさせているのと同様に、謎めいた拝火教徒の目がエイハブをおびえさせていることが――すくなくとも時おり、ある微妙な仕方でエイハブの目つきに影響をあたえていることが――見てとれたことであろう。痩身のフェダラーは何やら奇妙な不気味さを身にまといはじめ、そのうえ、たえず小刻みに身震いするようになったため、乗組みたちは、フェダラーがほんとうに生身の人間なのか、それとも何か目に見えない存在が甲板上に投げかける影がふるえているだけのことなのか、半信半疑のまなざしでこの男をながめた。」

(下巻 316頁)

 

「ときには何時間にもわたって、ひと言もことばを交わすことなく、このふたりが星明りのもと、エイハブは昇降口に、拝火教徒(フェダラーのこと)は主檣のそばに、遠くはなれて陣取りながら、相手をじっと見つめていることがあった。それはあたかもエイハブが拝火教徒のなかに自分の影の投影をみとめ、拝火教徒がエイハブのなかに自分の放棄した実体をみとめているかのようであった。」

(下巻 318頁)

 

上記の引用ではっきりわかることは、エイハブとフェダラーは実体と影の存在、つまり反対の性質を持ちながらも離れることのできない存在だということだ。実体には影ができるし、影がそれだけ単独で存在するはずはない。互いの性質をそういうものだと感じあっているらしい。

エイハブはフェダラーに己の影を見る。と同時に鯨に自己投影しているようにも見える(ブログ前記事)。こうなると、エイハブは実体のない幻のような存在によって破滅へと曳かれていったのではないかと考えてしまう。

 

結局のところフェダラーが何者かは読者にはわからない。知っているのは、己の影をみているエイハブだけで、そのことは物語の語り手にも伝えられないまま海の底に沈んでしまったのかもしれない。