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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

捕鯨船ピークオッド号の話―メルヴィル『白鯨』

さて、メルヴィルの『白鯨』についての更新再開です(この記事込みであと4記事くらいは『白鯨』に埋もれます・苦笑)。

 

今回は『白鯨』のおもたる舞台である捕鯨船の「ピークオッド号」に焦点を絞って書いていきたいと思う。

まずは「ピークオッド」という語。これは訳注によると1637年にピューリタンたちに襲われてほぼ全滅したインディアンの部族名のようだ。

以下訳注を引用↓↓

 

「この絶滅させられたインディアンの名をもつ捕鯨船のピークオッド号が、白人船長の指揮のもとにアメリカ合衆国そのもののような多様な人種からなる乗員をのせて、白人の心性の象徴そのもののような「白く巨大な鯨」を追跡して、かえってその「白い鯨」の反撃をうけてほとんど完璧に絶滅させられるというこの『白鯨』という小説の錯綜した寓意は、そう簡単には解明できそうにない。」(八木敏雄『白鯨』上巻、訳注63より引用)

 

小説を読んでいくと、どうもピークオッド号の乗員は30名ほどだということがわかる。また第40章「深夜の前甲板」という戯曲的な章に登場する水夫の出身地をみればその「多国籍さ」がわかる。ちなみに船長や3人の航海士たち「上級船員」はアメリカ人である。それに対して前線で鯨に直接攻撃を加える「銛打ち」たちはインディアン、アフリカ人など非キリスト教圏出身である。

以下に第40章に脚本のように書かれた水夫たちを列挙してみよう。

・ナンターケットの水夫  ・オランダの水夫 ・フランスの水夫

アイスランドの水夫   ・マルタ島の水夫 ・シシリー島の水夫

・ロング・アイランドの水夫 ・アゾレスの水夫  ・シナの水夫

マン島の老水夫 ・東インドの水夫 ・タヒチ島の水夫

ポルトガルの水夫 ・デンマークの水夫 ・イギリスの水夫

・スペインの水夫  ・サンチャゴ島の水夫 ・ベルファストの水夫

これに加えて、フェダラーという不気味な存在がひそかにピークオッド号に乗り込んでいたことが判明するのだが、彼はたぶん東洋人だろう。

 

 書き出してみると捕鯨拠点たるアメリカの「ナンターケット」には本当に多様な場所から船乗りが集結していたように見える。彼らは同じ捕鯨船に乗り込み、3~4年という長期にわたる捕鯨航海に出るのである。

参考までにピークオッド号の航跡を簡単に書いておくと、ナンターケットを出航後、アゾレス諸島、カナリー諸島を経て赤道を南下、南米に一旦近づきつつ、そこから大西洋をセント・ヘレナ島、喜望峰(アフリカ南端)を回って一気にインド洋に抜ける。インド洋上を北上しながら赤道付近の東南アジアの島々の間を抜け、日本沖漁場へ、そして再び赤道へむけて南下する。

この南洋捕鯨船はよほどのことが無い限り、補給などで陸に上がることはないので、海の上にぽつねんと浮かんだまさに国家のようなものである。乗組みにとって船のこの集団こそが人類の全存在と言っても過言ではないほどの長期航海である。

ピークオッド号はまさにアメリカの縮図だ。宗教的にも人種的にも、あらゆる種類の人間がひとつの共同体にまとめ上げられている。まとめ上げられているというよりは、押し込められている。運命に縛られている。

世界史的に19世紀のアメリカにおける人種的偏見が、どの程度存在したのかは勉強不足のためわからない。しかし、主人公イシュメールが銛打ちの「偶像崇拝者」に対して友愛の情を抱いていることから、メルヴィルのこの小説においては、かなり人種的偏見から自由だ。南洋捕鯨船という特異な空間の中では人種という壁はほとんど意味を成さないのかもしれない。

『白鯨』全編を通して読むとものすごい皮肉に見える文章が本文にある。

 

「今日のアメリカ捕鯨業界においては、上級船員のほとんどはアメリカ生まれだが、何千という平水夫のうちでは二人に一人はアメリカ生まれではない。この点については、アメリカ捕鯨業界とほぼ同じことが、アメリカ陸軍、海軍、商船、および運河や鉄道建設に従事する土木業についても言える。そう言えるのは、これらすべてのばあいにおいて、アメリカ生まれは頭脳を存分に提供し、残余の世界に属する者は筋肉を惜しみなく提供する仕組みになっているからである。」

(『白鯨』上巻 311頁より引用)

 

この「頭脳」は敗北するのである。

 

訳者の解説に面白いことが書いてあった。

『白鯨』という小説を単なる海洋冒険小説ではなく、全人類、全世界、いや全宇宙にもかかわり、さらにアメリカそのものにかかわる物語である読むと、現代のわれわれが読んでも身近なものに感じられるのではないか?というのである。

 

「アメリカはアフガンに侵入し、イラクにも多数の兵と武器をおくってなおも戦っているではないか。ブッシュをエイハブに、オサマ・ビンラディンを白鯨に、ピークオッド号を「アメリカ合衆国」そのものとするいくらかキッチュな寓話として『白鯨』をよむ読み方もひらけてくる。」(訳者解説より引用、ちなみにこの岩波文庫版が出たのは2004年である。)

 

なるほど、こういう読み方もあるのか……と思いつつ、私は白鯨という存在をエイハブの自己投影として読んだので、訳者とはやや違う読み方をしたのだと思う。そのあたりについてはいずれまたブログにまとめたい。

とにかく人種的ごった煮状態の捕鯨船が、鯨雑学ごった煮状態の小説に登場するというのは面白いのではないだろうか。また捕鯨船ピークオッド号はアメリカ大陸という土地そのもので、その上で多種多様な人々がひとつの運命(白鯨による破滅)に翻弄されていく、という読み方もできそうだ。

 

「また、あたらしい読みだ。本文(テキスト)はひとつだというのに。いいか、人間はみんな自分自身の世界に住んでいるのだ。」

(『白鯨』岩波文庫版 95頁。第99章「ダブロン金貨」で金貨の模様の意味を解読する人々を見ながら(また自身も解読を試みながら)の二等航海士スタッブの言葉)