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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

メルヴィル『白鯨』―つぎはぎの構成から考える鯨の幻想性

f:id:MihiroMer:20151002202718j:plain←写真は『白鯨』(岩波文庫)と「鯨の歯」(ストラップ)

 

メルヴィルの長編「白鯨」の特徴的な点として、まず誰もの目を引くのがこの作品の独特な構成であろう。この小説は1章から135章までと、「語源」「抜粋」「エピローグ」から成っている。1章から135章までの部分は

「物語」

「戯曲(作中人物の独白とト書だけで一章を構成している部分もある)」

「鯨学(鯨または捕鯨というものに対する具体的記述)」

から構成されている。

一筋縄で読めない印象があるのはこの統一感の無さ故かもしれない。我々は物語が一貫して書かれる小説にあまりに慣れているため、「白鯨」の第一印象は散漫なもの、奇異なものとなりがちなのだ。

このように多様な書き方がなされている「白鯨」の構成に対して、今回は特に「鯨学」というような鯨に関するマニア記述的部分に注目してブログ記事をまとめたい。

 

この本を開いて最初に目にする「語源」「抜粋」の奇怪さから、これは本当に小説なのだろか?と思ってしまった。「語源」の部分はタイトルのまま「鯨」の語を辞書的にならべたもので、ヘブライ語ギリシャ語、ラテン語アングロ・サクソン語……などの表記がならぶ。続く「抜粋」という章には「さる図書館司書の「補の補」の提供による」という副題が付けられており、とにかく「鯨」についての様々な文献からの引用がひたすら列記されている。聖書からは「創世記」「ヨブ記」「ヨナ書」など一般的な部分が引かれているが、中にはどういった書物なのか全くわけのわからないものまで引かれている。たとえばこんな感じ(以下)

 

「われわれはまた、おびただしい数の巨鯨を見た。この南の海には、わが国から北にある海にくらべて、百対一の割合で鯨がたくさんいると言ってもよいだろう」

――カウリー船長『地球周航(1683-1686)記』(ウィリアム・ハック編『航海記集成』所収 西暦1729年)

 

「まったく鯨そっくりで」

――シェイクスピアハムレット』(三・二・三八二)

 

訳者解説によるとこの「抜粋」のおもたる目的は「鯨および捕鯨叙事詩的な壮大と崇高のイメージをこの物語に付与することにあったと思われる」とされている。

しかし「鯨」というキーワードが共通するというだけで、集められた抜粋は雑多な印象を受ける。まるで学術論文を書く準備をしていた私の未整理のメモのようだ。と、そう思った時に「学術論文的記述」という考えから離れられなくなった。つまり「語源」「抜粋」というこの物語の始まりは敢えて学術論文的に記述されている。小説を読み進めていくと、物語と物語の間に突如として「鯨学」なる章が挿入されているところに行き当たる(しかもこのような「鯨学」的な記述は一か所にとどまらない、鯨の生物学的特徴や文化的な側面について延々と書かれている章が何か所かある)。

この「鯨学」の部分は物語の進行にほぼ影響を与えず、前半の「語源」「抜粋」と合わせるとある意味「完全な鯨マニア本」になる。

 

この鯨、または捕鯨について豊富な知見を披露している小説の「語り手」は誰か?という問題がある。1章から22章まではイシュメールという人物の一人称形式で語られるが、23章以降は三人称形式、あるいはイシュメール、イシュメールとは思えない「私」によって語られる。人称形式も不統一なので、ますますこの作品が散漫なものに思えてしまうかもしれない。ネット上で偶然「白鯨」についての感想を見かけたが、それによると、「鯨についての知見を披露している「私」はイシュメールで、捕鯨船の船乗りとしては下っ端であるイシュメールが「頭でっかち」(実質的な経験ではなく、知識偏重的)になって学術的な鯨について語っているのが面白い」というようなことが書かれていて(どこのサイトだったのか記録しておらず。申し訳ない)興味深かった。

ただし私は、この「鯨学」の部分を語っているのがイシュメールだとは最後まで思えなかった。どうしても作者が透けて見えてしまう。と、するとこの部分の意味合いはどう解釈すればいいのか? 

 

随分と考えたあげく、「学術論文」というもの自体が我々読者から遠く隔たった存在であることに思い至り、その「隔たり」が「白鯨」という存在をより遠い物に思わせる効果があるのではないか?と考えた。作中で本当に「白鯨」が出てくるのは最後の三章分だけで、あとはエイハブ船長の過去と他の捕鯨船による伝聞しかないのだ。実体として本当にいるのかわからない存在を、大海原を彷徨い探す……。この途方もなさ、徒労感さえ覚える無謀な船長の試みが、全く実益のないものに終わってしまうという結末すら構成の段階で用意されていたのだ。実際、この小説を読みながら「鯨学」の部分には半ばうんざりさせられていた(苦笑)しかも、その「鯨学」部分は物語の進行に特に影響がない……。白鯨という実存在が遥か遠くに思えたことは読みながら何度もあった。もしかしたら幻影なのではないか?とさえ疑ってしまったのだ。そういう効果を狙っているのだとしたら、この形式は面白い!そんな風に勝手に解釈して、小説というのは我々が思っているよりもはるかに自由だ、と感じる。