読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

メルヴィル『白鯨』に寄せてー序

 

 ようやく、メルヴィルの『白鯨』を読む機会に恵まれた。長編小説というのは中々手を出しにくいもので、何かのきっかけがない限り読まないでいることが多いものだ。

 この小説は、1851年10月ロンドンのベントリー社から、同年11月中旬、ニューヨークのハーパー・アンド・ブラザーズ社から出版された。日本では『白鯨』の名称で通っているが、正式名称はアメリカ版の『モービィー・ディック、または、鯨(Moby-Dick, or, Whale)』らしい。

ちなみに私が読んだのは、八木敏雄訳の岩波文庫版で、(上)(中)(下)の三巻からなっているものだった。解説によると日本語では11番目の翻訳版とのこと。長く読み継がれているのがわかる。

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)

 
白鯨 中 (岩波文庫)

白鯨 中 (岩波文庫)

 
 
白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

 

 

 作者メルヴィルの略年譜(下巻末に掲載されている)によると、1841年、22歳の彼自身、アメリカの捕鯨船アクーシュネット号に乗ってホーン岬をまわり太平洋への航海に乗り出している。この小説「白鯨」は19世紀の捕鯨に関する資料と位置付けてもいいほど具体的な情報に溢れているのだが、おそらく作者の経験が活きた作品だったのだろう。

 

「白鯨」の物語だけざっと書いてみると、「白鯨と呼ばれるマッコウ鯨にかつて片足を食いちぎられたエイハブ船長が復讐を遂げるべく、捕鯨船ピークオッド号で出航するも、結局小説の語り手である「私」(イシュメール)を除いて全員が白鯨の犠牲になる」といった感じになる。これだけみるとまったく面白くなさそうだが、小説の面白さというのはストーリーだけにあるのではない、ということをはっきり証明した作品だったと思う(そしてその面白さを第三者に伝えるのはとても難しいことだ……)。

 

 今回私は当ブログで「白鯨」という作品の面白さを少しでも伝えるべく、何回かに分けて「白鯨」の書評らしきものを書いてみようと思う。以下に今の所考えている記事の内容を箇条書きにしておく(ここが面白い!と思ったものなのだ)。

  1. つぎはぎの構成
  2. アメリカの縮図のような捕鯨船ピークオッド号
  3. エイハブと鯨―自己像との戦い
  4. フェダラーとエイハブ―影と実体
  5. タウン・ホー号の物語の位置づけ

 こんなに更新できるのかは謎だが、ひとまず取り組んでみたい内容はざっとこんな感じだ。

 

 最後に私事で恐縮だが、今回この作品を手にとるきっかけになったものが二つある。一つは、ル・クレジオ『パワナ』という小説、もう一つは小笠原諸島土産でもらった「鯨の歯のストラップ」である。これらの物に導かれ、また「反捕鯨」について考える縁とするために手に取った「白鯨」は当初思っていたよりもずっと変な小説で、面白い小説だった。いや、小説って本当に「自由」で何でもアリなんだなぁ、という驚きがあった。

 

パワナ―くじらの失楽園

パワナ―くじらの失楽園

 

 

 参考までにコーヒーチェーン店「スターバックス」の名前はこの「白鯨」に登場する一等航海士スターバックさんに因んでいる(コーヒー好きのスターバックさんに因んで、などと紹介されているが、「白鯨」において一等航海士スターバックがコーヒー好きである、という描写は一度もない。コーヒーに関しては以下引用にあるやりとりのみである。)

 

「やつが手にしているのは何だ?」スターバックは、ドイツ人が何やら手にもって振っているのを指して言った。「こりゃたまげた!――ランプの油差しじゃないか!」

「ちがいますよ」スタッブは言った。「いや、いや、ちがいますよ、スターバックさん、あれはコーヒー・ポッドです。われわれにコーヒーをいれてくれようっていうんですよ、あのドイツ人は。そばに大きなブリキ缶が置いてあるのが見えませんか?――あれに熱いお湯がはいっている。いやはら、感心なものですね、ドイツ人ってのは」

「いいかげんにしたらどうですか」とフラスク。「あれは油差しと油缶ですよ。油がきれたんで、物乞いにくるんです。」

メルヴィル作、八木敏雄訳『白鯨』(中)岩波文庫2004 「第81章 ピークオッド号、処女号にあう」367-368頁より引用)