言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

宗教人としてのロビンソン・クルーソー

さて、しばらくの間『ロビンソン・クルーソー』を話題にしていますが、今日も続きを書いて行こうと思います。前回はざっくり、岩波文庫版『ロビンソン・クルーソー』の感想でしたが、今回はその中でも特に「宗教人」としてのロビンソン・クルーソーについて書いていこうと思う。

 

ロビンソン・クルーソーという人間は、当初たいした宗教心を持っているような人間ではなかった。そのことは本文にばっちり書いてある。

ざっと引用してみよう。

 

「こんなことをいっても信じない人もあるかもしれないが……(中略)たとえば、これまで私にふりかかってきたさまざまな悲境を通じて、それが神の御手の働きであるとか、父に反抗したり、今もなお不逞な罪を犯していることをもふくめての、自分の罪にたいする正しい刑罰であるとか、自分の悪どい生き方そのものに対する報いであるとか、いうふうにはかつて一度も思ったことがないということをいえば、私がどれほどひどい人間であったか、おわかりになろう。

≪中略≫

私にとっては神とか摂理とかいうものはまったく問題にならなかった。そしてただ自然の理にしたがい、常識の命ずるがままに一個の動物として行動したにすぎなかった。それさえも、はたして常識といえるものであったかどうか怪しいものであった。」(『ロビンソン・クルーソー』(上)岩波文庫 160-161頁より引用)

 

本当に偶然漂流し、偶然助かった、そこにはなんの意味もない。と、いうような調子でいるのが前半部分である。無人島で生き残る術を見つけて行ってもラッキーだとは思ったが、それ以上のことは思わない。ましてそこに「神の摂理」というれっきとした意味があるなんて想像だにしなかったのである。

それが聖書を(この聖書も座礁した船から偶然運んできていたものだった)読んだ時に無人島に漂着したことにさえ神に感謝したい、という我々からはちょっと理解に苦しむような心境に達するのである。その時の彼の心境を引用しておこう。

 

「この瞬間(聖書を読んだ時)から私がかたく心のなかでいだくようになった信念は、もし自分がこの世間でなにかほかの境遇にあればたぶん幸福になれたかもしれないが、この世間から見捨てられた孤独の生涯にあってもなおそれ以上に幸福になれる可能性がある、といことであった。こう考えて、私は自分をこの島に導きたもうた神に感謝したいと思った。」(前掲204頁より引用)

 

この時ロビンソン・クルーソーが読んだのは、新約聖書ヘブライ人への手紙13章5節であった。手元にある新共同訳聖でその部分を引くとこうだ。

【金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。】

 

ロビンソン・クルーソーが旅に出たのは自身の「放浪癖」のためであって、そこに神の意図などなかった(少なくとも彼は感じてはいなかった)のだが、極限状態の生活の中で聖書を読み、自身の孤独の中で神の言葉と対話した結果「すべては神の摂理によって取り計られている」という結論に達するのだ。

 

ロビンソン・クルーソー」には何度も自身の放浪癖と父への不敬を悔いている描写がある。

 

「私は自分自身を破滅に陥れるために生まれてきたような人間であった。私はかつて父の親切な忠告にもかかわらず、漂白の誘惑にうちかつことのできなかった男であった。」(前掲78頁より引用)

 

これが何を意味するのか? ということは、下巻に収録されている訳者解説を読んで納得した。解説によると「神―人間」「父―ロビンソン」という垂直の関係が背後にある、というのだ。

「父の忠告にそむいたことが、いわば、私の『原罪』だ」(前掲340頁)

というロビンソンの言葉がある。「原罪」ということについて、我々日本人にはピンとこないものがあるが、「原罪」についてはとにかく「アダムが神との約束を破った人類最初の罪」「人間が皆アダムの子孫として生まれながらにしてもつ罪」としておこう。

「神から食べてはならないと言われた園の樹から果実をとって食べたアダム」と「父から航海にでてはならないと言われたのに出て行ってしまったロビンソン・クルーソー」が重なるというわけだ。

それで、「神―人間(アダムとその子孫、つまり全人類)」「父―ロビンソン」という図式が並列することになるのだ。

解説の一部を引用すると、

 

「われわれから見れば、父の忠告を無視し反抗して出奔した子は単に平面的な人間関係を破棄しただけであって、果してそれが「罪」といえるかどうかも問題となろう。しかし17世紀から18世紀初期にかけての、イギリスにおける清教徒の心情においては、垂直的な、神と人間の関係が背後に存在していたのである。そのことの理解が、なぜロビンソンが繰り返し繰り返し父の忠告にそむいたことをあれほど苦にして悶えるかということの理解へ、われわれを導いてくれよう。」(岩波文庫版『ロビンソン・クルーソー』(下)537-538頁、訳者解説部分より引用)

 

ちなみに「悔い改め」ということの重要性が特に第二部(岩波文庫版下巻)で説かれるので、「始めから父の忠告に従って航海に出なかったロビンソン・クルーソー」では物語が生まれないどころか、良きキリスト教徒としてのロビンソンすら誕生しえないのである。人間の駄目さを徹底的に書き込むことで、その後の悔い改め=キリスト教徒としての目覚めが鮮やかに描かれていると言っていいと思う。

放浪癖すら神の摂理なのである。

 

「原罪」からは逃れえない人間が、いつどうやってそのことに気が付くのか、また気がついた後でどのようにそれと向き合うのか……。そういったキリスト教を信仰する上で避けては通れない問題について、18世紀の清教徒の目線で向き合った作品、それが「ロビンソン・クルーソー」なのではないか、と私は考えている。

 

参考までに一言付言しておくと、トゥルニエの「フライデーあるいは太平洋の冥界」ではそういうキリスト教的な葛藤を跳び越えているように見える。