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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

「宗教」について考えてみる

先日、うちの実家が檀家として所属しているお寺さんから謎のCDをいただいた。

随分昔にテレビで放送されていた番組をビデオテープに録画していたもの、を、さらに音声だけテープに録音したもの、を、さらにCDに焼き直したものらしい。

(時代とメディアの変化には常々めまぐるしいものを感じる……)

そのCD(というかもとはテレビ番組)の内容はこんな感じ。

 ・「昭和43年(昭和50年代録音)星野元典氏、梅原猛氏らの対談」

 ・「得度収録TV解説 丹羽文雄 ……親鸞聖人の生涯について」

お寺さんがCDに付記した書き込みを参照して、それっぽくまとめると上記のような内容であった。(途中変な歌謡曲が鳴り出したのは……録画・録音事故だと思う・微笑)

 

さて、このCD(というか元TV番組)の話に特に印象に残ったものをまとめてみたいと思う。

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まずは星野元典氏の話。

 

 

星野氏によると、現代人の悩み=人間疎外、人間の非人間化 である。

ここから、ニヒリズムやペシミズムが起こってくる、それが現代の時代状況である。

でも、そういったニヒリズムやペシミズムが蔓延した社会から、「人間として自分を取り戻したいという気持ち」が湧き上がり、それこそが現代人の心の願い、そしてこの心の願いが宗教という営みに繋がっていくのだ。

だから、そもそも宗教は決して人間離れしたものではなく、人間が人間として幸せに生きるためのものである。あまりに禁欲的でありすぎ、人間の人間性を否定しているように見える宗教もあるが、親鸞はそうではない。親鸞は、どんな人間でも全部肯定してくれるのだ。

 

最後の「親鸞はどんな人間でも全部肯定してくれる」という部分にもう少し言及したのが次にまとめる梅原猛氏である。

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梅原猛氏の話

 

親鸞聖人という人は生きている限り、生きとし生けるものを犠牲にする、しなければならないという罪障感を通じて信仰に入った人である。親鸞は罪障感を否定しない。そうしていったん信仰に入ったら迷いなく信仰に対してまっしぐらに進んでいる、こういう姿に現代の我々は強く惹かれるのではないだろうか。

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昭和時代の対談であるはずなのに、今でもまったく色褪せた印象のない対談であった。やはり「人が人として生きる」というのは普遍的なテーマである。

人間の非人間化、生きていく上で生じる罪障感というものは、現代の我々も目を背けることなく引き継いで考えていかなければならない事柄であろう。

 

 

さて、対談は進み、いつしか話題は「プライベートな宗教」「わたくしのための宗教」という事柄に移っていった。どなたの意見かはわからなくなってしまったが(何せ元のテープあるいはビデオテープの劣化によるのか音質が悪いので聞き取りにくい)、

信仰は個人の内面的なものであるという意見、そうではなくて宗教は社会や世界といった「私」の外にまで関わっていくべきだ、という意見。真っ向から対立する意見が提示された。

そこで私は考えるのだ。

「わたくしのための宗教」といった場合、この「わたくし」の立ち位置によって「宗教」の意味合いは随分と変わるのではないだろうか?

つまり、「世界の中の私」「社会の一員としての私」というように共同体を前提として「私」をとらえた場合と、「孤独の中で一人神の前に立つ」といったキルケゴール的な私、「内面世界だけの私」として「私」というものをとらえた場合、やはり宗教というものへの向き合い方も変わってくると思うのだ。

 

私は人間一度は後者の「内面世界だけの私」というものを経験しておいてもよいのではないか? と思っている。最終的にはどこに自分を見出してもいいし、どのように宗教というものに向き合っても(あるいは向き合わなくても)いいと思う。

だけれど、人生のどこかで1人内面を見つめておく時期、みたいなものを経験しておかないと「人間の非人間化」というような社会状況に対抗できないのではないだろうか?

自分が人間であるということ、その人間らしさ(美しいものも、醜いものも、それこそ罪障も。)をよく見つめておくこと、これが人間疎外の波から人間としての自己を守るのに必要なことなのだ。

 

さて、とは言っても現代人はあまり宗教について考えない。考える機会もあまりないし、そもそも日本人に関して言えば本来宗教的なものからさえ、宗教色を抜いて捉えているようにみえる。

最後に私が大好きな内村鑑三の言葉を引いておこう。冒頭で話題にしたのが親鸞(浄土真宗)なのに引用する言葉がクリスチャンのもので、しかも引用文献の項目が日蓮であること……この混沌っぷりをお許しいただければ幸甚である。宗派がどうとかいうよりはもっと広い視点で宗教をとらえ、考えることの大切さが身に染みた。

 

「人間の宗教は、人生の人間自身による解釈であります。人生になんらかの解釈を与えることは、このたたかいの世に安心して生活するためには、ぜひとも必要なものなのです。」

内村鑑三『代表的日本人』日蓮の項、岩波文庫 141~142頁より引用)