Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

「再構築のために徹底的に破壊しろ。」――羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」(第153回芥川賞受賞作)

羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」(第153回芥川賞受賞作)について率直な感想を書いていこうと思う。

 

以下の引用頁番号はすべて『文芸春秋』2015年9月号に掲載されたものである。

 

 28才無職(求職中)の主人公健斗が、実家で母とともに祖父の介護に携わるという小説。表面上積極的に介護に手を貸しているように見える健斗だが、その実心中では祖父の尊厳死を願っている。そのために介護に手を貸しているというなんともまわりくどい感情を抱えた青年なのだ。彼の理論は介護職についている友人の大輔の助言によって明確になる。

 

「人間、骨折して身体を動かさなくなると、身体も頭もあっという間にダメになる。骨折させないまでも、過剰な足し算の介護動きを奪って、ぜんぶいっぺんに弱らせることだ。使わない機能は衰えるから。要介護三を五にする介護だよ。バリアフリーからバリア有りにする最近の流行とは逆行するけど」(414頁)


とにかく被介護者に何もさせないことで弱らせて穏やかにしなせよう、という皮肉。私の周りで起きた多くの老人の死を思い返してみた時、上記の大輔の台詞にリアリティを感じてしまう。かつて、うちで介護されていた祖父は、入院した途端に痴呆状態になり、退院して数日で元に戻った。また、転倒して大腿骨を骨折し、そのまま寝たきりになって死んでしまった老人も何人か知っている。何もできなくなったことが引き金となって死んでしまうのだ。
 このような皮肉を題材として扱っていることや、健斗が不快と感じるものに対して容赦のない判断を下す描写あったりするなど、かなり好戦的な作品である。

 

「とにかく肉体的疲労を嫌がり楽をしたがる彼女はこの先、太ったおばさん体型まっしぐらだ。実のところ健斗はぽっちゃり体型自体はイケる口だが、ぽっちゃりな身体を作ってしまう豚のようなメンタリティーは心底嫌いで、ここのところそれに拍車がかかっていた。」
(425頁)

 

 

「苦しみに耐え抜いた先に死しか待っていない人たちの切なる願いを健康な者たちは理解しようともせず、苦しくてもそれでも生き続けるほうがいいなどと、人生の先輩に対し紋切り型のセリフを言うしかな能がない。未来のない老人にそんなことを言うのはそれこそ思考停止だろうと、健斗は少し前までの自分をも軽蔑する。凝り固まったヒューマニズムの、多数派の意見から外れたくないとする保身の豚が、深く考えもせずそんなことを言うのだ。四六時中白い壁と天井を見るしかない人の気持ちが想像できないのか。苦しんでいる老人に対し“もっと生きて苦しめ”とうながすような体制派の言葉とは今まで以上に徹底的に闘おうと、酸素吸入の音を聞きながら健斗は固く誓った。」
(446頁)

 もちろん、これが正解とは言えない。同時にまた不正解とも言えない。人の数だけ考え方があってもいい。若さ故の暴力的ともとれる表現に乗せて、凝り固まらない考え方やそれを発信する自由というものを尊重する姿勢をこの小説から感じた。

 このような描写に加え、祖父を介護する健斗な母親の乱暴すぎるほど乱暴な口調が、より作品に好戦的な印象を与える。この書き方を許容できるかどうか、それがこの作品への読者側の評価さえ左右しそうである。

 

 介護という現代社会の問題としてよく論じられる事柄を、ありきたりの家族愛とか、お涙頂戴劇にせず、シニカルな笑いさえさそう作品に仕上げたところに作者の力量を感じる。特にシニカルな笑いをさそうところは、身体的に弱っていく老人と、突如筋トレに目覚める青年(健斗)の対置だ。健斗の考え方や行為に馬鹿らしさはあるのだが、その馬鹿らしい考えを大真面目に信じ、行動する姿がなんとも言えずシニカルなのだ。同時にそこはかとない悲しさを感じるのは私だけだろうか?

 

「鍛錬を休んだ末筋肉が痩せ衰え、失われ退化するいっぽうであるという、これが真の恐怖だ。〈中略〉常に破壊し、たんぱく質をあてがい全身改造を継続させなければ死んでしまう。」(443頁)
「再構築のため、徹底的に破壊しろ。」(425頁)

 

 常に課せられたタスクを消化しつづけないと落ち着かない、焦りを感じてしまうという現代人の病理すら感じさせる描写だ。筋トレからの筋肉痛は筋肉をさらに増強するための痛みであるから、その痛みにすら満足を覚えるのである。その自己満足のある痛みと祖父という老人が抱える「本人にしかわからない主観的な苦痛や不快感」(407頁)の対比が作品に厚みをもたせる。「若者」と「老人」という表面上の対置の奥に様々な要素が盛り込まれている。

 人と人、その両者の関係や差異、生と死という究極の対比、そういった対置によって成立した小説であることは、タイトルからも明確であろう。