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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

青春を遠くから眺める――又吉直樹「火花」を読んで

第153回芥川賞受賞作として巷で話題になっている又吉直樹「火花」をやっと読んだので書評らしきものを置いておこうと思います。単行本を持っていないので引用表記の頁番号が文芸春秋版ですがあしからず(汗)

 

火花

火花

 

 

 

 若手漫才師の「僕」(徳永)と神谷が熱海の花火大会で出会い、互いに影響を与え合いながら芸人としての道を問う姿は青春そのものだ。彼らの、いや、彼らだけではなく、創作に携わる人すべての道には、当然いろいろなものがある。たとえば自分たちの力ではどうすることもできない業界の構造、先輩や後輩といった人間関係、それに纏わりつく好悪さまざまな感情、若さ故の失態と恥じらい……。道の途中にある様々なものを全身で受け止め全身で感じていくような僕の感覚、そしてその様々なものによって「漫才師」にしてもらったという僕の感謝……とにかくそんな青春小説として私はこの作品を読んだ。

 忘れてしまいそうになる青春の感覚を思い出す縁にもなったと思う。というのは、やはりラストの熱海の花火大会のシーンだが、ラストで「僕」は漫才師の道を去ってしまっている。それにもかかわらず、「僕」は初めて神谷さんと出会った熱海に、神谷さんと一緒にいるのだ。「熱海お笑い大会」があるというエピソードが小説の舞台装置と相まって否応なしにノスタルジーを引きずり出す。冒頭では花火によって妨害された僕ら(スパークスという漫才コンビ)だが、ラストでは「僕」は花火を見る側になっている。この立ち位置の変化からもどことなく哀愁が感じられた。

 

 酷く「文学臭い」文章ではあるが、説得力がある。いくつか引用しておこう。

「神谷さんが相手にしているのは世間ではない。いつか世間を振り向かせるかもしれない何かだ。その世界は孤独かもしれないけれど、その寂寥は自分を鼓舞もしてくれるだろう。僕は結局、世間というものを剥がせなかった。本当の地獄というのは、孤独の中ではなく、世間の中にこそある。神谷さんは、それを知らないのだ。僕の眼に世間が映る限り、そこから逃げるわけにはいかない。自分の理想を崩さず、世間の観念とも闘う。」

(『文芸春秋』2015年9月号、382頁より、以下頁番号はすべて『文芸春秋』)

 

「商業的なことを一切放棄するという行為は自分の作品の本来の意味を変えることにもなりかねない。それは作品を守らないことに等しいのだ。」

(385頁)

 

「必要がないことを長い時間をかけてやり続けることは怖いだろう? 一度しかない人生において、結果が全く出ないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。無駄なことを排除するということは、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ。それがわかっただけでもよかった。この長い月日をかけた無謀な挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う。」

(390頁)

 

 特に最後の引用部分なんかグッとくるものがある。

 しかし私はこの文章を書きながら、やや冷めた視線で引用した文章を見ていることにも気が付いた。このグッとくるもの、ひらたくありていの言葉でいえば「感動」はこの小説の文体や言葉に由来していない。私は読みながら気になった部分に付箋を貼っていき、一読した後に見返したりするのだが、今回一読目に思わず付箋を貼った個所(たとえば先の引用部分)は、後から読んでも別段心を動かされることはなかったし、読んでいた時の感動も思い出せなかった。

 私は芸人としてのピース又吉を知らない。地方に住んでいて、普段テレビを見たりしなければそんなものだろう。芸人としての彼の活動は全く知らないが、やけに読書家の芸人がいるらしい、ということは噂程度に知っていた。たぶんこのあたりの情報が「予備知識」のような働きをして、ピース又吉という芸人の存在を小説の背後にちらつかせてしまうのだ。

 「芸人が書いた小説」という決めつけは面白くないし、単なる話題集めのために彼が芥川賞を取ったとも思いたくはない。なるべく先入観を排して作品に向き合うように努力をしたつもりではあるが、その結果、この小説の文体や言葉に魅力が感じられないということがわかった。どんなに芸人としての作者を忘れようとしても、まるで独白のように綴られる徳永(僕)の一人称の語り(創作論)が、芸人又吉の姿を透けさせてしまうのだ。

 

 ……とは言っても、作品自体が面白くないか?  と言われればそうとも言えない。部分を抜き出してどうこう言うと面白くないのだが、作品の背景(芸人としての作者の存在、価値観)も含めて全体として遠目に眺めれば面白い。実際、登場人物の徳永(僕)と作者をオーバーラップして読んでしまうという感想を多く目にした。この点で、この作品はエンターテイメントとして成功していると思うし、売り上げを伸ばす理由もわかる。確かに面白いのだ。

 なにより、人を面白がらせようと思って表現した作者によって提示された作品だ。面白がったほうが人生充実する気がする(とは言っても面白くないものを無理に面白いものとして受容することはできないが)。

 読者にこんなことを書かせる作品……この点では失敗しているかもしれない(読者をフィクションで包み切れていないというか、だまし切れていないのかもしれない。いや、批評的に読む自分が面白がりきれていないだけなのか!?)。しかし「笑い」というものを客観的に捉え表現できる作者にとってこの程度の読者のコメントは想定の範囲内なのかもしれない。

 次回作に期待したい。次は、「芸人」ではない世界を、又吉直樹の文学性で表現してほしい。