Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

私の「この」休日、「この」平和

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大学生の時からの趣味というか習慣でもって、中学生の時の愛読書を読んだ。
こんな日が来るとは思わなかった。思わなかった、が来てみると実際何もないという平和な心境が昼下がりの七月を覆うのだった。
大学生の時からの趣味(習慣)というのは、単に外で読書をするというだけのことである。
わざわざ文庫本を一冊持って近所の公園に行き、ベンチに座して一人本を読むというだけのことである。
大学生のころは専ら大学の中庭で同様のことをしていたが、そんな他愛のない日々の穏やかな心持と、中学生のころの孤独がオーバーラップして目の前の風景と混ざり合う、
今日はそんなひと時を味わった。「ナニモナイ」という一日の有難味を久しぶりに思い出した。

さて、中学生のころの愛読書とは梶井基次郎の『檸檬』(新潮文庫版)である。
最近は昔読んだ本の再読ばかりしており、その流れでふと手に取った懐かしの文庫本だ。
梶井基次郎、1901年生、わずか31歳の若さで亡くなった小説家だ。代表作の「檸檬」は文学マニアでなくとも知っているだろう。
こういうものを中学生とかいう多感な時期に読むと、こんなめんどくさい大人モドキになってしまうらしい。だがやはり出会ったのは必然だったと思う。
「この檸檬」「この倦怠」「この孤独」「この寂寥」
小品的な作品のどれもが「この」と表現できるような、個別の人間の個別の心境を描いている。それも詩的に。
それ故か、描かれる感情に明確な名称を与えにくく、退廃的なようなそうでもないような……不健康な、健康な……、生きているような死んでいるような。
広い視野でとらえれば耽美派かもしれない(文学史は全く不案内につき、ほぼ自分の感覚と言葉でしか書けないからあてにならないが)。
私小説的な作品が多く、物を書く私にとって近い感覚が描かれているのを見つけるたびにうれしくなる。

「帰途、書かないではいられないと、自分は何故か深く思った。それが、滑ったことを書かねばいられないという気持ちか、小説を書くことによってこの自己を語らないではいられないという気持ちか、自分には判然(はっきり)しなかった。おそらくはその両方を思っていたのだった。」
梶井基次郎「路上」より引用)


自己が分裂していく。身の危険を感じた著者がそれでもその危険から積極的に逃れようとしなかったことを思い出し、筆を執りながらそういう自己とそれを思い出す自己とを並べてみる著者の姿が浮かぶようだ。
こんな文章もある。

「影と『ドッペルゲンゲル』。私はこの二つに、月夜になれば憑かれるんですよ。この世のものでないというような、そんなものを見たときの感じ。――その感じになじんでいると、現実の世界が全く身に合わなく思われて来るのです。だから昼間は阿片喫煙者のように倦怠です」
梶井基次郎「Kの昇天」より引用)

 

これは梶井作品の中で私が最も好きな短編の、Kという人の台詞である。
海辺で月明かりによってできた自分の影を見ている男、その男が海辺で遺体となって発見されたということを聞き知った語り手(私)による手紙文形式の作品で、
Kという人物の死の真相は客観的には不明のまま終わるのだけど(一応溺死ではあるが自殺なのやら事故死なのやら)、語り手の「私」とある晩であったKの会話から「私」が詩的にK君の死因を語るのである。
「K君はとうとう月世界へ行った」と。

月明かりによってできる影というものに魅せられる著者の感覚(別の作品でも影については執拗に言及される)。
「えたいの知れない不吉な塊」に絶えず感性を晒し続けた梶井が憧れを描くと健康的な美しさが文章に現れ、逆に現実を描くと退廃的な闇に支配された時間が文章に現る。
そういう二面性に引き裂かれながら、それでも一つの作品として成立しているところに、私はあやうい美観を感じてしまうのだ。


と、なにやら偉そうに語ってしまったが、実は写真のジンジャーエール、飲みきれなくてあけてから3日目なんだよね。
もう炭酸なんて抜けきってしまって、甘ったるいだけの液体になってしまっていた。
近くを虫かごを持った坊やが通りかかっていくし、先刻の正午を告げる「エーデルワイス」の間延びしたメロディーといい……
なんというか、とにかく穏やかに平和に弛緩した休日なのだった。