言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

獣と人―河﨑秋子『ともぐい』

河﨑秋子さんの本は、私の空白を満たしてくれる存在だ。北海道という土地のことを知りたくて、編纂された歴史書をどんなに読んでもわからなかったこと、寡黙な親、祖父母が決して語らなかった「あの時」「あの場所」とも言うべき、かつて確かに人が生きてい…

どこにもなくて、遍くある―絲山秋子『神と黒蟹県』

〈蟹という字が書けるだろうか。〉 黒蟹営業所への異動が決まって、北森県から黒蟹県紫苑市へ赴任することになった三ヶ日凡。彼女が最初に思ったこんなことからこの小説は始まる。書き慣れない文字のある住所に移り住むこの感覚は転勤族の家庭で育った私には…

気配と手触り―小山田浩子『パイプの中のかえる』『かえるはかえる パイプの中のかえる2』

久しぶりに小山田浩子さんの短篇小説「広い庭」(『庭』新潮社、2018年所収)を読み返した。やっぱりいいな~この作品好きだな~と思った。文芸誌に掲載されたときに初めて読んで、その時もなんだかひとりで盛り上がって「これはちょっとすごいんでないか」…

B面に行きたかった!―『LOCKET』06 SKI ISSUE 地図の銀白部

子供の頃、ウォークマンはカセットだった。今から思えば、よくあんなに大きなものを、しかもたいしてたくさん音楽が録音できるわけでもない装置を持ち歩いていたなぁと思うのだけど、あの頃はあの装置だけが私を「音楽」の世界に連れ出してくれたのだった。…

道路の発見―サン=テグジュペリ『人間の土地』

最近、自分のすぐ近くで理不尽な死に遭遇してしまって、随分考え込んでしまった。生きていて、こうしてブログに何を書こうかと悩んでいられるということ、この絶妙なバランスの上に日常が成り立っているという感じ。 ウクライナや中東の戦争に関するニュース…

蝉の声に触る―平沢逸「点滅するものの革命」

「普通」小説は存在しているものを書くか、書くことで何かを存在させようとするものだと思う。見えないもの、聞こえないもの、触れないもの、そういうものの感触を言葉にすることで存在させることができるのが小説だ。しかし、この作品はそもそも存在しない…

眠り舟―古川真人「港たち」

この「にぎやかな一家」に久しぶりに会えた。なんだかとても嬉しかった。彼らは本の登場人物たちなのだから、うちにあるこの著者の本を開けばいつでも会えるのだろうけれど、何故だか新作が出ると彼らの「近況」の便りを受け取ったような気持ちになる。そう…

傷口にあてがう―ハン・ガン『すべての、白いものたちの』

「白いものについて書こうと決めた」と、始まる本書に最初に表れる白いもののリストはひとりの人間が生まれてから死ぬまでの時間に含まれ得るものだと思った。「おくるみ、うぶぎ」から「壽衣(註:埋葬の際に着せる衣裳)」までの時間。けれど読み進めてい…

水の中、雲の上の空という場所で―三品輝起『雑貨の終わり』

私の机の上は雑貨でいっぱいだ。赤い手回し式の鉛筆削り、小さなサファイアのついた片方しかないピアス、オロナイン軟膏、腕時計、メモ用紙、木彫りの熊やひょうたんおやじ(シゲチャンランドにて)のミニチュア、単三電池、MOZの赤いぬいぐるみ、いくらか前…

透明な孤独の輪郭線―絲山秋子『海の仙人 雉始雊』

水晶浜ってどんなところ? とAIに訊いたら、福井県美浜町にある海水浴場で、その名前の由来は「白く透き通っていて光に透けているような砂が水晶のように見えることから付いた」のだと応えた。AIがいうことだから嘘か本当かはわからない、と思いかけて、いや…

おれたちの再審はすなわちおまえの審判だ!―大江健三郎『万延元年のフットボール』

死ぬことは、とても大変なことなのだと思う。そのくせ、自分が死ぬ時には魂がぽろっと崖から転げ落ちるようにあっけなく死ぬんじゃないかと思っている。楽をしたい。それはたぶん自分の中にある本当の地獄に向き合うのが恐ろしくて耐え難いからだ。死に至る…

生命観を描ける言葉―水沢なお『うみみたい』

ふえるって美しい、のだろうか? どうして生き物はふえたいのだろう? 太古の昔の海の中からずっとそうだったから? その「ずっと」を根拠に、私たちはふえつづけるんだろうか? 生命観、ということについて考えもした。ふえる(生殖する)ことへの意思、う…

遅れてくる痛み―『ウクライナ戦争日記』

この本を読んでいた数日間、真夜中の中途覚醒や酷い動悸、過呼吸の発作などに襲われていて、「あれ最近忙しかったっけ? 疲れてるのかな……」と、はじめはどうして調子が悪くなったのかわからなかったのだけれど、しだいにこの本の内容に相当打ちのめされてい…

何ぞかくとゞまるや―大江健三郎『懐かしい年への手紙』

大切な本の一節を、くりかえし読み返し続けている時に感じられる「永遠」というものが確かにある、と感じられる。今回紹介する『懐かしい年への手紙』という作品の中に、私はそういう「永遠」を見る思いがした。 ギー兄さんがダンテの『神曲』のある部分を説…

繭のような感想――大江健三郎『燃えあがる緑の木』

とにかく「意味」を求めたり与えたりしたくなる、というのは人間の習性なんだろうか? だれが、だれに、どうして、なんのために? 「意味」を与える(求める)ということについての問いは、その「意味」を巡って堂々巡りすることになる。答えはきっと空っぽ…

時間のゆくえ、星雲に浮かぶ小鳥の羽根の永遠―小川洋子『約束された移動』

――死者はとても耳がいいから、小さな声で充分なのだ。 という言葉を「巨人の接待」という作品の中に見つけて、なんだか安心した。というのも、私事で大変恐縮だが、先日同居のモルモットのこもるさんが亡くなったのだった。10月25日の深夜0時26分。飼い主の…

網の目の自立―森田真生『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』

私は子供の頃、一生大人になれないと思っていた、ような気がする。その当時実際にどう思っていたのかなんて今となってはある程度想像するしかないことなのだけれど、ひとつ確かに言えるのは、子供の私にとって世界が「圧倒的なもの」に見えていたことだ。目…

孤独とおなかの中の獣―ハン・ガン『菜食主義者』

自分の心臓の音がきこえるほどの孤独、という言葉を思い浮かべた。長い間ひとりぼっちで静かな場所にいて沈黙を守っていると、自分の鼓動ばかりが耳につくようになってくる。耳を澄ませば、次第に大きくなっていく鼓動は、自分の生命活動による現象であると…

座ったまま―『LOCKET』5号

机の上に、とん、と尻をつき前脚を揃えて座る木彫りの熊がいる。子熊だ。そう思うのは、座り方のせいだと思う。ふつう熊はこんな座り方をしないんじゃないか。この座り方はまるで子犬だ。それで私のなかでは、この木彫り熊は子熊ということになっている。銘…

逃げると生きるは背中合わせ―絲山秋子『逃亡くそたわけ』

亜麻布二十エレは上衣一着に値する。 意味はわからない。だけどこれが本の文字の中に見えると、なんだか不安になってくるのだ。 亜麻布二十エレは上衣一着に値する。そしてこれは、この本の中に何回も出てくる。語り手である花ちゃんこと「あたし」にきこえ…

遭難、比喩にて―プルースト『失われた時を求めて』

ねむれない夜に、ベッドの上で『失われた時を求めて』についてとりとめなく考えていると、いつもひとりの旅人の姿が思い浮かぶ。ひとりの旅人が、道の真ん中にぽつねんと立っている。この長い小説に、私はこんな印象を抱いているのだ。 それはまるで、本書の…

シュワシュワと、じーん―川上弘美『水声』

小説の中にあるものは、たぶん文字にして書かれただけでは存在できなくて、そうとは知れずとも少しずつうごいて変化していくもの、そのゆらぎの中にのみあるのかもしれないと思った。ひとつひとつの動作と、それに作用された物の変化がよどみなく書かれた小…

木目のお化け―ブルーノ・ムナーリ『ファンタジア』

小さな子供だった頃、真夜中のトイレで〈木目のお化け〉に遭遇した。 やつは大きな平べったい形をしていて、ねむたい私の目にゆらゆら揺れながら近づいたり遠ざかったりした。ムンクの叫びのような、細長い顔をいくつも持っていた。夏だったと思う。開けたま…

痛みを踏む―ル・クレジオ『隔離の島』

もしも自分のこの足の裏が死んでいった人々の灰を、あるいは毀された多くの物を踏んで歩いているとしたら、そのことに私は耐えることができるだろうか。この本が私にとって本当に大事なのは、痛みで「土地」と繋がることを教えてくれるからだ。 J.M.G・ル・…

ここもそこも―高原英理『日々のきのこ』

「やあ、かぜよくて幸い」という挨拶に「これもそれも」と応える世界があった。なんでも森や山の中で出会う相手にはとにかく言葉をかけ合うのが決まりらしい。でも「綴じ者」はそうしたやりとりはしない。おっと、「綴じ者」という言い方は差別的で望ましく…

きみはいまだにそのことを知らないでいるし―岡田利規「ブロッコリー・レボリューション」

こんな私にだって経験がある、旅先で感じるあの解放感の正体は「当たり前」に絡めとられていない感触だ。うっかり旅先の土地を好きになってしまって、たとえば移住してしまったら、今度はそこの空気が「当たり前」になってしまって結局は絡めとられてしまう…

お節介な愛情のある風景―加藤多一『馬を洗って…』

今回はこの絵本について書きたい。 加藤多一・文、池田良二・版画『馬を洗って…』(童心社、1995年) 馬を洗って… (若い人の絵本) 作者:加藤 多一 童心社 Amazon 清冽な文と重厚な版画で描く〈若い人の絵本〉 遠いあの日、迫りくる戦争の影 馬を洗うたった一…

書けない日々の声たち―ルイーズ・グリュック『野生のアイリス』

これまでブログに詩集の感想を書いたことがなかったから、今回ははじめての試み。そもそも普段あまり詩を読まないし、読めないし、詩集の感想を書こうとしているくせに「詩のことば」をちゃんと理解しているのかと問われたらちょっときびしい。それでも書い…

消えた海の底―ガルシア=マルケス『族長の秋』

今回は、ガルシア=マルケス『族長の秋』の感想を書く。 ガルシア=マルケス著、鼓直 訳『族長の秋』(綜合社編ラテンアメリカ文学13、集英社、1983年) 族長の秋 (ラテンアメリカの文学 13) 作者:ガルシア=マルケス 発売日: 1983/06/08 メディア: 単行本 主…

命の続く限り―ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』

40歳になったら死のうと思っていた。だがそれが数年先に迫って来たとたんに、老いというものを肯定したくなってきた都合のいい人間が私である。まったくもって自分勝手に生きてきたわけだが、そろそろまともな人間になろうと思った矢先に発生したのがコロナ…