言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

30年という時間―津島佑子『半減期を祝って』

今回は津島佑子半減期を祝って』という本について感想を書いていきたい。この本には表題作のほか「ニューヨーク、ニューヨーク」「オートバイ、あるいは夢の手触り」という短篇小説が収録されている(初出はいずれも『群像』)。

 

 

半減期を祝って

半減期を祝って

 

 

 

みなさま、おなじみのセシウム137は無事、半減期を迎えました。祝いましょう!

30年後のニホンの未来像を描き絶筆となった表題作のほか、強くしなやかに生きる女性たちの姿を追った「ニューヨーク、ニューヨーク」「オートバイ、あるいは夢の手触り」を収録。女性や弱者、辺境のものたちへの優しい眼差しと現状への異議――。

日本を越えて世界規模の視野を切り拓き続けた津島文学のエッセンスがここにある!

(本の帯文より)

 

表題作「半減期を祝って」には、セシウム137の半減期を迎えた30年後のニホンが描かれる。生活は確実に苦しくなっていて、自殺者数、死刑の執行数も増加しているのに「平和がなによりですね」というコメントが流れるテレビの街頭インタヴュー(ほとんど誰も見ていない)。戦後百年というキャンペーンでメディアはみんな大騒ぎ。そんな社会には14歳から18歳までの四年間、子どもたちが入ることになるASD愛国少年(少女)団なる組織がある。そのあと今度は男女問わず国防軍に入らなければならないという社会が設定されている。ちなみにこのASD出身者は国防軍では優先的に幹部候補として扱われることになるらしいが、ASDには厳しい人種規定があって、純粋なヤマト人種だけが入団を許されているというのだ。アイヌ人もオキナワ人もトウホク人も入団できないという。『狩りの時代』にヒトラーユーゲントが描かれていることをふと思い出した。何の罪もないはずの美しい者(子供たち)が政治的に利用されていくという悲しい姿がいつまでも心に黒い染みとなって残るようだ。

 

半減期」という言葉は、おそらく東日本大震災原発事故後しばらく経ってから一般に馴染みだした言葉だろう。「放射性元素が崩壊して、その原子の個数が半分に減少するまでの時間。放射線の強さが半分に減少するまでの時間」(URL)と説明されているが、一体なんのことやら……というのが私の生活の実感としての正直な感慨だ。「私の生活の実感」を他者に押し付けるのはあつかましいが、しかし多くの人にとって「半減期」はそういう感慨をもって眺められている言葉ではないだろうか。作中で「半減期を祝っている」人々も同じような感慨も持っているように思える。「半減期の厳密な定義なんてぶっちゃけよくわかんないけど、なんかヤバいやつの影響が30年経って半分になったってこと? それなら良かったじゃん!」という程度の認識。実際は半減期を迎えたというセシウム137の他にも(たとえばプルトニウムなんかも)原発事故によって私たちの暮らしの只中にばらまかれたのだけれど、人々はそんなことも忘れてしまっているかのようだ。忘れてしまっている、というか忘れさせられているというか。そもそも原発の抱える根本的な問題さえ認識しないまま、人々が営む日常は「大きな声」によってだいぶ歪められた社会に見える。

 

(アナウンスの声)

……みなさま、おなじみのセシウム137は無事、半減期を迎えました。正確にはすでに四年前、半減期を迎えていたのですが、今年は戦後百年という区切りの年です。すべてにおいてまだ原始的だった百年前の戦争で、どれだけ多くのひとたちが理不尽な苦しみのなかで死んでいったか、そのことを偲ぶための記念すべき年でもあるのです。戦争において、兵士が餓死するなど決してあってはならない事態です。しかも、一般市民の頭のうえに、原子爆弾がはじめてアメリカによって無慈悲にも落とされたのでした。

(前掲書、78-79頁)

 

踊らされてはいけない、大きなメディアの大きな声、この言葉いつだって上滑りだということを、私は東日本大震災をめぐる一連の報道の中で感じていた。こういう暴力も存在するのだ。

作者はこの暴力の存在を描きながらも、しかしそれだけのディストピア小説が書きたかったのだろうか? というのが読了後ずっと私の頭の中にあった。著者は単に近未来ディストピアを書きたかったわけではないだろうと思えてならないのだ。では何を書こうとしたのか? もちろん、原発を取り巻くあらゆるものへの「告発」であり「挑戦」なのだが、それよりもむしろ「30年という時間の感覚」を書きたかったのではないだろうか、と思った(これは本当にブログ管理人の単なる雑感ですが)。

身の回りにある昔より便利になったあらゆる物の存在を思えば、30年は充分に長い年月のように思え、しかし生活の実感としては本質的な変化があるようには感じられない。と同時に、原発事故で避難を余儀なくされた人々が避難先に定着するのに充分な時間でもある。

 

三十年後の世界を想像せよ、と言われると、それじゃ三十年前はどうたったのか、と反射的に考えたくなる。

(前掲書75頁より引用、この作品の冒頭)

 

三十年後にしても、三十年前にしても、人は自分の生活の実感でしかその距離を感じることはできないのかもしれない。同じ三十年に対して、あっという間だったと思うひとも、ひどく長かったと思うひとも当然いる。そういう思いの背景にはいつもそれぞれの生活の実感というものが横たわっているのだ。それを無視してひたすら「半減期を祝う」ということが、どれほど残酷なことであるのか、本書を読みながらひとり考えてしまった。

津島佑子は『狩りの時代』において、「差別」とは何か、はっきりと言葉にされていない「差別」を言葉の力で浮き彫りにして読者の目に「見える」ようにした。とすると、この作品にも空気のように漂う形の無い暴力を捕まえようとする意志があるのかもしれない。

 

併録されている「ニューヨーク、ニューヨーク」は、トヨ子という大柄な女性が男と離婚してから亡くなるまで辿った時間を、息子の薫が男に伝聞するという形式の物語。トヨ子はニューヨークにあこがれていたのではない、ニューヨークを自分の体に呑みこんでやりたかったのだ、ということに気がついた時には何もかもが遅く、すべては過ぎ去ってしまったあとなのだった。「オートバイ、あるいは夢の手触り」は、主人公の景子という人物が見聞きした「オートバイ」にまつわる思い出をあれこれ思い出していく物語。そしてそれらのオートバイの手触りを、景子はもう二度と感じることはないという寂寥がなんとも言えない余韻を残す(少し渋いな、と感じた)。「聞き慣れたオートバイの音は二度と、景子の人生の時間に戻ってはこなかった。」(72頁)

 

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言葉と沈黙―ル・クレジオ『悪魔祓い』

どうしてそんなことがあり得たのかよくわからないのだが、とにかくそういう具合なのだ。つまりわたしはインディオなのである。メキシコやパナマインディオたちに出会うまで、わたしがインディオであるとは知らなかった。今では、わたしはそれを知っている。

ル・クレジオ『悪魔祓い』冒頭、9ページより引用)

 

 

今回は、フランスの作家であるル・クレジオによる、こんな宣言からはじまる1冊を紹介しようと思う。ル・クレジオインディオの出会いは偶然のものだった、と解説にあった。1966年、当時のフランスにはまだ兵役制度があったのだが、兵役に服するかわりに二年間ばかりを教員、技術者などとして海外で勤務する「海外協力隊員(コオペラン)」という選択も可能であった。後者を選んだル・クレジオは1967年からメキシコシティーラテンアメリカ研究所に勤務することとなる。これがル・クレジオにとってインディオ文化との出会いだったそうだ。とくにエンベラ族とワウナナ族との出会いは印象的だったようである。

(以上の情報はすべて『悪魔祓い』の解説にあったものを簡単にまとめた。)

 

ル・クレジオ 著、高山鉄男 訳『悪魔祓い』(岩波文庫、2010年)

悪魔祓い (岩波文庫)

悪魔祓い (岩波文庫)

 

 

ちなみに、ル・クレジオはのインディオ文化に関する本で私がすでに読み終えた本に『メキシコの夢』と『マヤ神話―チラム・バラムの予言―』がある。

 

どうして、ル・クレジオは自分がインディオなのだという直感に満たされたのだろう。

はっきりとはわからないけれど、本書を読んでいくと著者は自分の物の見方や考え方をインディオのそれと重ねあわせていったことがうかがえる。初期の作品で明確な都市文明批判を繰り広げていた著者にとって、世界や自然との調和を保ったインディオ社会は理想的なものに見えたのかもしれない。

「調和」

二文字で済ませてしまえば簡単ではあるが、しかしこれは一体どういうことなのだろう?そのことを言葉で表現するのは難しい。それはたぶん、インディオ社会が「言葉」というものを忌避し、自己表現や芸術というものを拒否していることに関係がありそうだ。

 

この体験については、たとえば海について語るように語らねばなるまい。海はそこにあった。人々は、日々それと隣り合わせ、眺め、それについて考えていた。しかし海がなにを意味するかは知らなかった。しかし海のほうでは知っていた。都市をとり囲み、人間の思想を組織し、音楽と絵画と詩を律していたのは海だったので、その逆ではなかった。どうしてそんなことが想像できよう。人々が言葉を使用し、それを白い紙の上に並べたとき、人々はそのことに気づかなかったが、じつは紙の上に並べていたものは貝だった。そこである日のこと、ただ海のほとりの岩の上に坐っているだけで、人々が発見するのは、人間の体験は宇宙の体験のなかに含まれているということだ。おわかりいただけるだろうか? これはほんとうに恐ろしいことだ。と同時に悦ばしいことだ。というのは、そのとき、多くの言葉が現われ、多くの言葉が崩壊するからだ。つまり、言葉は人間の口によって変形された宇宙の表現であり、いわば翻訳された言葉であって、もとの言葉そのものは永遠に翻訳されないままなのである。

(前掲書、16頁-17頁より引用)

 

インディオにとっての「言葉」は暮らすということ、生きるということに直結していて、単なる伝達の道具ではない。「言葉」の持つ表徴の力の危険や「言葉」によって自分を暴露すること、危険にさらすことがどういうことであるのか、インディオは知っている。「言葉」は単なる記号ではなくて、呪術的なものだ。だからこそインディオは「言葉」のほかに「沈黙」を重んじる。「沈黙」は単に黙っていることでも、無活動の瞑想でもない。それはいくつもの言語を解し、いくつもの声を聞きわけるものだ。じっと暮らす、その沈黙から編み出される模様、それはインディオにとっての「絵画」に結びつく。西洋の絵画はキャンバスの上に固定されたもの、確定した形式の展示である。それに対してインディオの「絵画」は暮らしの中で生きているものである。芸術家でも天才でもない、不特定の人々の手によってくりかえし浮かび上がる模様だ。インディオはそういう絵を「展示」することはない。それはまた表徴するということの危険を知っているからだとル・クレジオは語る。

 

身体そのもの、「肌」。唯一の真の画布、なにも書いていない唯一の真の表面、失われることがなく、生命によってつくられ、生命《である》画布。インディオたちは、芸術を展示しない。自分たちの肌に描くことによって、自分たちの肉体を芸術作品とすることによって、彼らは、総合的意味作用の領域に達した。インディオは芸術のなかに生き、絵画と一体となっている。ようやく生命(いのち)を得た芸術、呪術。

(前掲書、131頁より引用)

 

この本の目次は大きく三部に分けられている。すなわち「タフ・サ―すべてを見る目―」「ベカ―歌の祭り―」「カクワハイ―悪魔を祓われた肉体―」

 

タフ・サ、ベカ、カクワハイ、インディオを病気と死から奪い返すためのこれら三つの段階は、あらゆる想像の小径の道しるべそのもの、すなわち、秘法伝授、歌、悪魔祓いなのであろう。芸術というものはなくて、あるのはただ《医術》だけだということを、いつの日か人々は悟るにちがいない。

(この本のカバーにあるル・クレジオの肉筆、訳文、本文10頁)

 

ル・クレジオはこの本が完成しかかった時に、この本が偶然にも(作者の知らぬうちに)タフ・サ、ベカ、カクワハイという呪術的治癒の儀式を追ってしまっていたことに気がつく。

タフ・サ、まずは示される。そうして示されたものを見ることで、すべてが名づけられる。ベカ、名前と形の祭り。インディオの沈黙と歌で形作られる世界観を読者はル・クレジオの文章によって感じとる、それは暮らし(生きること)と一体となっていて、気晴らしのための《芸術》など存在しない。カクワハイ、名づけたものの変容によって怪異なもの、理解不能なものがなにもなくなった状態、悪魔祓いの祭りの感性、インディオが自らの肌に絵を描くということがどういうことなのか、読者の前に示される時。

 

しかしだれかがある民族について語り、自分が属していない社会の情念や意図をおしはかってみたいなどと思うといつもそうなるのだが、その個人がかならずしも自分の知識を信用していない場合でも、大きな危険をおかすことになる。こういう次第で、人を近づけないこと、および沈黙することをもって偉大な徳としているような人々について書かれた以下の文章は、残念なことに、著者自身についてしか語り得ていない。

(前掲書、9頁-10頁より引用)

 

 

どんなに言葉を尽くしても、これはインディオを書いた書物ではない。そのことをル・クレジオは了承している。あくまでも、インディオ文化に触れた著者自身のことしか書かれていないし、読者はそのエクリチュールを通してしかインディオ文化に触れることができない。そのことは、言葉というものが作り出す溝の存在を浮き彫りにする。

 

 

本書のあちこちに写真が掲載されているのだが、巻末にその目録がついている。博物館のカタログではないこれらの写真の被写体は、生きているものであり、老いたり、滅びたりもする。大きくふたつに分類できる写真群の表題はそれぞれ〈インディオたち〉と〈わたしたち〉だ。ヨーロッパ文明とインディオ社会のヴィジョンの対立をストレートに描いた書物である。

 

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いろいろと予定を変更して急遽、ル・クレジオの『悪魔祓い』を再読した。とても良かった。自分が保つべき言葉と暮らしと社会の距離感みたいなものを再認識できたような気がする。さすがにおれはインディオではないけどね笑。(この本の冒頭でル・クレジオは自身をインディオであるとしたのが有名)

黒くぬらぬらしたものが―沼田真佑「影裏」

第122回文學界新人賞受賞作であり、同時に第157回(平成29年上半期)芥川賞受賞作の「影裏」について、ようやく何か書けそうな気がする。非常に技術力の高い描写で話題のこの作品、実は一読目には良さがよくわからなかった。「うまい」のはわかる。だけれど、何が面白いのかよくわからない。そう思いつつ、何も書かないでいたのだけれど先日出た芥川賞選考委員による選評を読んで思うところがあったので、今こうして書いている。

※このブログ記事に記載するページ番号はすべて、文學界2017年5月号掲載時のものである。

 

影裏 第157回芥川賞受賞

影裏 第157回芥川賞受賞

 
文學界2017年5月号

文學界2017年5月号

 

 

そもそもこの作品のタイトル「影裏」とは何なのか? 一読目は作品の後半に出てくる「電光影裏斬春風」という言葉の二文字だろうとわかった気になっていたのだが、なんだか違う気がする。この言葉自体、わかるような、わからないような禅語らしく、手持ちの辞書には載っていないから仕方なくインターネットで検索をするも、やっぱりよくわからない。

「人生は束の間であるが、人生を悟った者は永久に滅びることなく、存在するというたとえ」(電光影裏の意味 - 四字熟語一覧 - goo辞書

 

これが「影裏」という小説作品となんの関係があるのか?

いや、はっきり言って関係ないのである。作中、日浅という人物の実家に飾られていたこの言葉についてこんなふうに書かれている。「不意に蔑むように冷たい白目をこちらに向ける端正な楷書の七文字が、何か非常に狭量な、生臭いものに感じられた。」(前掲書、36頁)わかったようなわからないような禅語のたとえ「永久に滅びることなく存在する」という不動の価値観についての拒絶だろうか。しかし、それならば何故、わざわざタイトルに「影裏」の二文字を持ってきたのだろう?

この素朴な疑問になんらかの答えを求めて、馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、大真面目に漢和辞典を引いてみたりした。そうしたら「影」と「裏」の二文字から、どうも「外側から見えないもの」という意味が浮かび上がってきて、あるいは作者はこの二文字にこのようなものを仮託したのではないか、と思えてきた。

そして、この「外側から見えないもの」を見ようとして小説の中で表現した場合、それは「黒くぬらぬらしたもの」として立ち現われるのではないだろうか

たとえば、電光影裏斬春風という文字は「滴るような墨汁」(33頁)と書かれる。「さて、と立ちあがった氏の影が、それをつまんだわたしの指を冷たく浸した。」(37頁)、「黒々と濡らして消える波の弱音」(31頁)、「背からたっぷり黒漆をそそいだような」(16頁)という表現が見つかる。私はこれらの表現にどうしても「黒くぬらぬらしたもの」を感じてしまう、というか、そう言葉を与えてみたくなった。ぬらぬらしているかどうかを別にするなら「黒」のイメージは作中にいくらでも見つかる。だからこの作品を貫くカラーは間違いなく「黒」だ。その色が「影」と結びつきもして、「外側から見えないもの」この得体の知れないものは黒いような気がしてくる。

「何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた」(11~12頁)日浅、「ある巨大なものの崩壊に陶酔しがちな傾向」(12頁)をもつ日浅という登場人物の目には見えない内側(心の中)を支えるものは、得体の知れない黒くぬらぬらしたものではないだろうか。この人物に対して主人公の「わたし」や読者が抱いたイメージは後半になって少しずつ崩れていく(その崩壊が震災と結びついているのでちょっと都合よく出来過ぎているような気がしてはいるのだが)。たとえば日浅の生活の頽廃ぶりであったり、学歴詐称が判明してしまうと、それ以前には泰然としていた日浅の印象も変わってしまう。とにかく、日浅のイメージの崩壊のあとで、それまで外側から見えないものであった「黒くぬらぬらしたもの」が浮かび上がってきて、読者はそれに直面しなければいけなくなる。面白いのは、そういう秘匿されていたものが露わになったあとも「わたし」は日浅に対して「頼もしく感じた」(37頁)という前向きな感慨を持っているところだ。「わたし」にとって、たぶん日浅は崩壊しておらず相変わらず不動のものとしてイメージされ続ける。それは後半に出てくる「逃げまどうバッタ」と「動じない縞蛇の子供」の描写からも明らかだ。そんな「不動」が「電光影裏斬春風」から導かれる永久の存在と通じるならば、やっぱり少し胡散臭くもある。

崩壊したことで見えてきた黒いぬらぬらした得体の知れなさ、みたいなものは単に崩壊以前は外側から見えなかっただけで、始めから存在していたものではないだろうか。ここで高樹のぶ子氏の選評を思い出す、引用しておこう。

 

言葉を掴んでくる視力とセンスの良さに感服し、引きこまれて読むうち、この美しい岩手の地中深くに内包された、不気味な振動が徐々に表面化してくる。それは釣り仲間の友人の異変として顕れる。何かをきっかけに表層の覆いが剝ぎ取られて邪悪な内面が剥き出しになるのは、大自然も人間も同じで、東北大震災はこのように、人間内部の崩壊と呼応させて書かれる運命にあった。」

文藝春秋掲載の、第157回芥川賞高樹のぶ子氏の選評より抜粋)

 

また吉田修一氏の選評にはこうある。

 

作者の筆は核心から離れよう離れようとするごとく、岩手の美しい自然を描写していく。そして自然を精緻に描写すればするほど、離れたはずの核心がなぜか近づいてくる。遠景としての核心が近景に、近景としての自然が遠景となるような混乱が起こる。では、その核心とはなんなんだ? というのが選考会での議論になった。

文藝春秋掲載の、第157回芥川賞吉田修一氏の選評より抜粋

 

この小説の核心がなんであるのか、私にはいまだわからないが、それに近いものとして黒いぬらぬらとしたものが存在しているように私には思えた。

また「影裏」というタイトルが気になったから自然と目がいってしまうのだが、作中に二度出てくる結婚式場のパンフレットに一度ずつ「影」と「裏」の文字があらわれている。これは単なる偶然なのか、それとも描写のうちにさりげなくイメージを挿入してくる作者が仕込んだものなのか。パンフレットの新郎新婦の姿は「過剰に覆い焼きを施した写真」であり、その不自然に影をなくした写真はみるものの手が作り出す影に暗む。

意識の宛先―滝口悠生『茄子の輝き』

こんなちっぽけなブログを、ひとりでちまちまと書いている自分を、いつか別の自分が思い出すかもしれない。そのいつかの自分のために、こうして「意識の宛先」みたいなものを残しておいてやろうと思うのも、この小説のたのしみかたのひとつかもしれない。いや、待てよ。そもそもこの本を巡る記憶だったり、それを「素敵!」と思ったりした自分のことは、いつどこからどんなふうに思い出されるのだろうか? そもそも思い出されるのだろうか? みんな忘れてしまっているんじゃないだろうか? と思ったらたとえば何気なしにスーパーで手に取った茄子が蛍光灯の光を全力で反射しているのを見て思い出してしまうかもしれない。「忘れる」とは「思い出す」とはいったいどういうことなんだろうか? 今回紹介する本は、「覚えていることと忘れてしまったことをめぐる6篇の連作に、ある秋の休日の街と人々を鮮やかに切りとる「文化」を併録した素敵な一冊だ。

 

滝口悠生『茄子の輝き』(新潮社、2017年)

茄子の輝き

茄子の輝き

 

 

悲しみに暮れた日々も、思い出せない笑顔も、記憶も中で輝きを放ち続ける。
かけがえのない時間をめぐる連作短篇集。
(書籍の帯より引用)

 

妻、伊知子と離婚した2008年正月、3月の地震、カルタ企画という会社に入社して千絵ちゃんという存在が風景の中心にあった日々、2011年8月にカルタ企画を退社、それからカルタ企画の倒産。ひとりの男がかつて自分が書いた「日記」や「写真」を経由して過去のいろいろなことを思いだそうとしたり、思い出す過程で歪む空間など明瞭さとは反対のカオスを漂ってしまうような小説だ。妻と結婚前2006年2月に会津若松に行ったことと、会津若松が千絵ちゃんの実家の所在地であることが時を越えてオーバーラップする感覚も楽しい。主人公の風景の中心にいたはずの千絵ちゃんもやがて彼氏と出雲に行ってしまう、そんなことどもを思い出している「私」の記憶の時間や空間もどんどん不思議な広がり方をしていく。

 

これから婚姻届を出す、あるいは今出してきた彼らにとって、今日は人生のなかの特別な日であり、今まさにその特別さの只中にいて、今日の日付が来年以降も、ロビーの真ん中で立ち止まってさっき住民票と一緒にもらった領収証をポケットから取り出して日付を確認している冴えない私も、特別な日の背景となる。彼らのもとには、たしかに今とその先に続く幸福がある。私にとって今日は、このまま予定通り行けば、記載上、十五年ほどの運転歴がきれいさっぱりなくなったまっさらな免許の取得日になる。
(前掲書収録「今日の記念」168頁より引用)

 

長い人生の途中にいくつか「記念日」と呼べるようなものができあがっていくことがある。なんとなくそういう「日記」に書いてしまえそうなことを中心に、わたしたちの「思い出す」「忘れる」は繰り広げられているのではないだろうか。というか、「記念日」があるからこそ、そこを中心にして「思い出す」ことや「忘れる」ということが営まれていると言えるのではないだろうか。しかしその「記念日」は単なる中心ではなくて、その周辺にあったちょっとしたことを思い出すことで、どうとでもぶれてしまうようなものなのだ。固定されたものではないから、その時の前にも後ろにも影響されて変質してしまう。だからどんな些細なことがらであっても、それが記憶の営みに参与してしまえば、ふいにかけがえのない輝きを発してしまうかもしれないのだ。そうしたらそれは途端に「忘れたくないもの」になりもする。

 

そう言われて思い出す、橋のたもとで欄干にしがみついて何事か駄々をこねる自分の姿や、黄色いアロハの千絵ちゃんが笑顔で手を振って駅の方へ歩いて去っていく様子が、自分の記憶なのか、小麦谷の話からつくりあげた映像なのかわからない。天ぷらだの、茄子だの、餃子だのを、本当に食べたのかもわからない。しかし小麦谷の話では、私は欄干の隙間から川を見下ろして、大きな茄子が流れているぞ!と何度も言っていたというから、茄子を食べたのはたぶん間違いないし、あの茄子の輝きや、茄子を食べていた千絵ちゃんも幻ではなく私のたしかな記憶だと思う。
(前掲書収録「茄子の輝き」122頁より引用)

 

思い出される過去の馬鹿馬鹿しさ、その瞬間のひとつひとつ、そんな些細な日常のすべてをこの本は、いとおしいものとしていつくしんでくれるような気がする。写真や文字という記録も、記憶も、そのあてにならなさというか、いい加減さというか、心許なさも含めて全部がいとおしいのだ。なんて優しい語り方をする作品なんだろう、と読みながら思った日々の感慨を、私はまたいつか別の自分として思い出してしまうのだろう。

『MONKEY』という文芸誌のこと―将来を明るく見据える支援?

「月刊」ということにこだわらなければ、面白そうな文芸誌っていっぱいある。

今回ご紹介するのは『MONKEY』という文芸誌。

 柴田元幸責任編集 MONKEY

 

 

「翻訳家の柴田元幸が責任編集を務めるMONKEYは、今私たちが住む世界の魅力を伝えるための文芸誌です。いい文学とは何か、人の心に残る言葉とは何か、その先の生き方を探していきます。未来への羅針盤となるために。」

『MONKEY』vol.12巻末、ホームページより引用

 

 

年3回(2月、6月、10月)の発行で一年間、または二年間の定期購読も可能だ。

詳しくはHP参照。ちなみにvol.12の最後の方、編集後記的な位置にある「猿の仕事」という文章には定期購読の宣伝としてこんな文言がある。魅力的だったのでそのまま引用(うまいな~と笑)。

 

「性格的になかなか将来を明るく見据えられない人間が将来を明るく見据える支援にもなります。次号から、ぜひ。」

(『MONKEY』vol.12 「猿の仕事」187頁より引用)

 

MONKEY vol.12 翻訳は嫌い?

MONKEY vol.12 翻訳は嫌い?

 

 

 

私がこの文芸誌を手にしたのは12号がはじめてだった。たまたま好きな小説家である小山田浩子さんが新作掌篇小説「世話」を寄稿しているということで気になっていたのだ。よほどネットで注文しようかと思ったが、本屋で偶然見つけたのでそのまま買って帰った。

翻訳家が責任編集を務める「翻訳」特集の文芸誌(vol.12特集「翻訳は嫌い?」)。

これは面白そうな予感……。

パラパラめくるだけで豊富なイラストレーションにわくわくしてくる。コンテンツは公式サイトを参照していただくとして、特に私の印象に残ったのは石川美南×ケヴィン・ブロックマイヤーのコラボによって生まれた短篇小説「大陸漂流」と、リディア・デイヴィスノルウェー語を学ぶ」。

 

前者は2013年春にニューヨークで開かれた英語文芸誌「Monkey Business」第三号刊行記念イベントが発端。これに参加した石川美南、ケヴィン・ブロックマイヤーの両氏が意気投合。石川作「物語集」をブロックマイヤーが読み、そこに掲載されている短歌のいずれかを「翻訳」したい、との意思を表明。それで、2016年に書かれたのがブロックマイヤーの短篇小説「大陸漂流」なのだ。この企画にはいくつもの「翻訳」が含まれている。まず双方がやりとりする時の「日本語⇔英語」という言語の翻訳、それからもうひとつ、「短歌→小説」という形式間の翻訳。さらにブロックマイヤーが英語で書いたものを『MONKEY』vol.12掲載にあたり柴田元幸さんが日本語に「翻訳」。

この短篇小説がとても気に入った。もとになった石川美南さんの短歌はこれだ。

 

「陸と陸しづかに離れそののちは同じ文明を抱かざる話」

『MONKEY』vol.12 26頁より引用

 

「大地がふたつに割れた夜、マヤとルーカスはそれぞれの家のあいだにはさまった丘の斜面に横たわり、手をつなぐともなくつないでいた。」(27頁)とはじまる小説は、時の流れと恋の断絶と、ふいの再会というものが、大陸の動き(地割れと合体)というダイナミックなものを背景に、静かに描かれている。とっても魅力的だ。

 

 

リディア・デイヴィスノルウェー語を学ぶ」は、アメリカの作家であるリディア・デイヴィスが、ノルウェーの作家ダーグ・ソールスターの「テレマルク小説」を辞書なしで読んだ、という読みの冒険の記録。ソールスターのこの小説はとても長い本で、「全面的に事実に即していて、物語の大半は1691年から1896年のテレマルクにおけるソールスターの祖先の誕生、結婚、死亡、資産取引をめぐる詳細な記述から成っており、事件のようなものはほとんどなく、迫真のドラマはほぼ皆無、作者による推測はたっぷりあり、そこここで記憶に残る人物が登場する」(103頁)。これが本当に「小説」なのかどうかは、ノルウェーでも物議を醸した(そうだ)。出版に対する体力をなくしつつある日本でも絶対に翻訳されないだろう、出版体力の回復が待たれる(笑)し、そもそもそのために読書家たちはわざわざ自分の読書時間を削ってまでこうやって発信しているのではなかったか?

そもそもリディア・デイヴィスがこのノルウェー語で書かれた本を読もうと思った理由も、結局「翻訳」を期待できないから、というのが大きかったようだ。ごく基本的なことしかわからない言語(ノルウェー語)を前にしたリディア・デイヴィスの読みの試行錯誤は、誤りも含めて、読む書くことに対する愛情に満ち溢れている。

 

小山田浩子さんの新作掌篇「世話」は、2017年5月にアメリカで行われた講演で披露されたものらしく、ブライアン・エヴンソンらとの対談で「ひどい悪夢」として披露されていた。小山田浩子さんがみたという悪夢をもとにした「世話」は、三歳の娘を抱いて実家の前庭に出た「私」がどこからともなく現われる(というか始めからそこに置いてあった?ふいに意識にのぼる)「トマト」と「油蝉の鳴き声」に包囲されていく作品だった。

他にも「菩薩は人を殺せるだろうか?」という問いでしめられる古川日出男さんの「宮沢賢治リミックス グスコーブドリの伝記 魔の一千枚(兄妹論)」、ポール・オースターがインタビューで語った米国の某大統領への素晴らしい批判「とにかく一貫性がないし、何を言い出すかわからないし、平気で嘘もつく。Xと言ったら次の瞬間にはYと言う。霧をまいて何も見えなくしている、なんて比喩じゃ足りなくて、霧ばかりか屁をこきまくってすさまじい悪臭に我々は何も嗅げなくなっているという感じだ。」(155頁)など、面白いコンテンツでいっぱいだった。

 

ちなみに次号は、食べることをテーマとした新作を並べるそうだが、よくあるグルメ特集などとは北極と南極ほどもかけ離れたものになりそう……とのこと(次号特集「猿の一ダース 食篇」(2017年10月15日発売)。

その視線から「永久に」逸れてしまうもの―ル・クレジオ『ロンド その他の三面記事』

今回はル・クレジオの短編小説集『ロンド その他の三面記事』を紹介したいと思う。

 

ロンドその他の三面記事

ロンドその他の三面記事

 

 

収録作品は、
「ロンド」「モロク」「脱走者」「アリアーヌ」「オロール荘」「アンヌの遊び」「気ままな生活」「越境手引人」「泥棒よ、泥棒よ、お前の生活(くらし)はどんなもの?」「オルラモンド」「ダヴィド」の11篇。


私が読んだことのある他の短編集に『海をみたことがなかった少年 モンドほか子供たちの物語』という本がある。こちらの短編集が書かれたのは1978年、今回紹介する『ロンド』は1982年。どちらの作品もル・クレジオにとって「自然」ではなく、意識的に作られ、獲得された極度に平明・単純な文体をしており、著者の初期作品を読みなれているひとの中には、この変貌ぶりに驚くひともいるのだと思う。本書の巻末についている訳者 豊崎光一の解説も「ル・クレジオ変貌?ーー子供、女、外人」と題されている。ル・クレジオの関心は「どう書くか」ということから「何を書くか」という方へ比重を移していったのではないか、という印象を私は単なる一読者として持っている。

好みの問題はあるけれど、私はル・クレジオが意識的に作り出してきたという「平明、単純」な文体が好きだ。光の描写ひとつとっても、様々な表情を持ち、時に貧しく悲惨な状況さえ神話のような輝きがみちあふれる。
『ロンド その他の三面記事』には『海を見たことがなかった少年』と似たモチーフが登場する。たとえば「オロール荘」に登場する神殿のように理想化された美しさは「モンド」で描かれるティ・シンの「金色の光の家」や、また「リュラビー」という作品で描かれる「カリスマ」という文字の書いてある六本柱のあるきれいなギリシャ風の家を思い起こさせる。それから「本来いるべき場所にいない」(たとえば決められた通りに学校に行かない)ことや、きつい生活のさなかに生きつつも、「ふらりとどこかへ行ってしまう」(実際の行動が伴うことも空想によるつかの間の逃避であることもある)ことやそれを予感させるというモチーフも似ている。しかし『ロンド その他の三面記事』と『海を見たことがなかった少年』は対照的な作品だ。後者においてはおそらく意図的に消されていた現実的な問題とそれに付随する悲劇が前者では際立っている。キーワードとして反復されるのは「空虚」や「静寂」であり、「永久に」いなくなってしまうこと(不法移民、子供っぽい失踪の果ての疲弊、死)、失われてしまうこと(例えば子供の頃の美しい記憶の喪失)が繰り返し描かれる。

これらのことは人の視線の届かないところへ消え去ってしまうことだと私は思う。なつかしむことや、先を見据えること、そういったまなざしはどれも自由なのだけれど、消え去ってしまうことは、取り返しのつかないことでどうやってもあらがうことのできない悲しみや苦しみがあるのだと思う。『ロンド その他の三面記事』に描かれる光は、あわい美しさというよりも、鋭さが強調されていて、厳然と存在する悲惨な現実を照らしているようだ。厳しい光が描かれていなけれが「灰色」だ。それは都市の場合もあれば、日の照りつける前の色でもある。冷え冷えとして、あたかもだれもいないよう。
さて、この本に描かれている「三面記事的な」エピソードをいくつか紹介したいと思う。今回取り上げたいのは「オロール荘」「脱走者」の二作品。

 

 

■「オロール荘」

 


本書に収められる作品のなかでこの作品だけが一人称形式で描かれ、そのモノローグ調のタッチが、失われてしまう事柄(場と記憶)の痛ましい残響を感じさせる作品である。
「雲の色をした大きな白亜のパレス」オロール荘と、かつての美しい庭の描写。ここを訪れてた頃の幼い「私」ことジュラール・エステーヴは、「オロール荘」という名も、そこに住んでいる人の名も知らないでいた。オロール荘に行くことを「野良猫の庭に行く」とか「壁の穴をくぐって行く」と表現していた。住んでいるひとのことは「オロール荘の奥方」と呼んでいて、その名のない記憶が神秘的に表現される。

 

 

だが私(ジュラール・エステーヴ)が彼女について持っている記憶は不正確で、とりとめがなく、辛うじて知覚できるようなものであり、彼女を現実に見たことがあると完全には確信が持てず、ときおり、むしろ空想で考え出した存在ではないのかといぶかられるほどだった。
(前掲書96頁ー97頁)

 

オロール荘の庭にある一種円環状の神殿に書かれていた言葉「Ουρανός」、「私」は長いあいだこの言葉を意味もわからず眺めていた。
「私」がオロール荘をオロール荘として、つまりその名をはっきりと認識する時にはもうそこへ行くことはなくなっていたし、そのころにはこの魔術的な言葉も消え失せていた。そのうちに開発は進み、思い出の奥底にあったオロール荘の姿は失われつつあった。

 

私は今しも理解したのだ、遠ざかることによって、私の世界から眼を離さずにいるのをやめることによって、その世界を裏切り、それをこうした変異に委ねてしまったのは私であると。私は他処を眺めていた、他処にいた、そしてそのあいだに、物事はすっかり変わってしまい得たのだ。

(前掲書105頁より引用)

 

「私」が再びオロール荘を訪ねた時、オロール荘の奥方の名前がマリー・ドゥーセであることを知るし、彼女に会うことにもなるのだけれど、そうしたことで「私」はもう何もかも失われていくことを悟るにいたる。「何ものも、今やここに領している傷痕、苦痛、不安を隠すことはできなかったから。」(118頁)
あとに残されるものは沈黙、もうオロール荘には誰も訪ねてこないだろうという大きな沈黙、それから都市によって暴力的に破壊されていくことを予感させる「野蛮な叫び」で物語は閉じられる。
物事には、はっきりしないが故にその存在が担保されるという側面もあるだろう。白黒はっきりさせてしまうと、ぼやけて消えるものの存在だ。この作品ではそういうものが回想の形式を用いて巧みに表現されている。「オロール荘」「マリー・ドゥーセ」とその名が明かされ、さらに実際にその場へ踏み込み、その眼でみることによってかえって失われてしまうものがある。ここで私は神話のリアリティということを考えてしまう。つまりそれは証明され得ないからこそ、確固たるものとして存在している(たとえその存在が人々の意識の中に限られたものだとしても)。なんでもかんでも証明して明示しようとすることが(こういう姿勢が科学の姿勢で、これはこれでとても重要なことなのだけれど)「近代化」であうとしたら、そういうことによって失われてしまったものなんていくらでもあるのだろうと思う。神話的輝きにあふれていたオロール荘や、幼少期のあわい記憶がそういう種類のものなのだろう。

 


■「脱走者」

 

 

何をしでかしたのかは知れないが、どこかの牢屋から「脱走」してきたタヤールが過去をなつかしみ、そこへの回帰を目指しているかのように山の中をさまよう。

 

兄といっしょにいて、二人で羊の群れの番をしていたとき、ここを歩いた、まさにここを。彼はそれをよく覚えている。
(前掲書51頁より引用)

 

山の中で眠るための「避難場所」を探すタヤール。過去の記憶を回想しつつ、追体験しているような書き方はまさに「避難」的であるが、空腹と渇きと疲労という現実の苦痛は容赦なくタヤールにおそいかかる。
そしてやがて「回想」すら悲劇的な様相を呈する。昔シェリア山の斜面でひとり兵士から隠れていたこと。ティムガードの遺跡(アルジェリア北東部)を通り抜けてランベサまで行き、食べ物と金と自分に残されている伝言を知ろうと行ってしまったライスおじさんは戻らない(おそらく死んでしまっただろう)。
そんな中、タヤールの前にひとりの小さな少年が現れる。「タヤールは彼をよく知っている、彼だとわかる。その子は彼に似ていて、まったく彼自身の影のようだ。」(69頁)
たしかに、この少年によってタヤールは一瞬救われた。しかし「彼自身の影」のような存在(過去の回想に登場するような小さかった頃の彼に似た存在)では、もはや現状を打破することはできはい。というより、むしろこの小さな男の子は兵士たちを案内し、タヤールの方へむかってくることを暗示させて作品は閉じられている。まるで過去や記憶にまで裏切られてしまったかのように。

 

今度は、あなたがゲームをする番だ―ル・クレジオ『愛する大地』

 

図書館で借りた古い文学全集にたまたまとりあげられていたために、巡りあう種類の小説がある。もしかしたら「あなた」にとって今回紹介するこの小説がそういうものになるかもしれないし、ならないかもしれない。「わたし」にとって、そうならなかったのは図書館の蔵書検索で著者の名前を事前に検索して作品の情報を仕入れていたからだ。なんて事務的な出会い方をしてしまったのだろう、もっと詩的な出会い方をしてみたかった。

 

ル・クレジオ 著、豊崎光一 訳「愛する大地」(『集英社版 世界の文学26 ソレルス / ル・クレジオ』所収、1976年) ※原題「TERRA AMATA」

 

この本には「たまたま」出会いたかった、本当は、とても。

「あなたは本のこのページをひらいた。」とはじまるこの本には。

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この小説は一種のゲームである。偶然性のゲームによってつくられている。

作品に書かれる「あなた」(読者)、「ぼく」(語り手、作者)、それから主要な登場人物であるシャンスラードという少年、これらの存在はいずれも交換可能性を有している。つまり、だれがどの立場に立っていてもおかしくはない、たまたま今、読者は「あなた」だった、それだけ。シャンスラードという少年の日常の断片が、時に微細なほどクローズアップして書かれ、また時に視点をずっと空高くに設定して見おろすように書かれる。シャンスラードという少年が見ていた風景を一読者として読んでいると思ったら、小説内の視線はいつのまにかシャンスラードさえ見下ろすような、シャンスラードの存在している風景全体に切り替わっていたりする。この感覚がとても不思議な読書体験になった。こういう語り方だからこそ、シャンスラードの遊戯の光景(レプティノタルサという虫(?)を見下ろし、鉄の格子を使って支配する)は、金属やコンクリートに囲まれた都市の中でうごめく人間のいる風景と重なって見える。虫たちを見下ろすシャンスラードは、都市の中に存在するたくさんいる人間のひとりでしかない。「シャンスラード」にフォーカスしなければ、格子の中で蠢く虫の群と変わらなくなってしまう。

 

それはどれもみなそこにあった。大地震や戦争は。レプティノタルサの破裂した躰の中、外に出たはらわたの中、格子の鋭い棒にはねかかった濃厚で赤い液体の中に。

雪崩は、音もなく落ちかかり、その何トンもの白い粉末の下に小さな躰の数々を埋めたのだ。静かな夜、なんでもないことで堤防は破れ、泥と水とでべたつく波が村に襲いかかって、家々をばらばらにし、木々を根こぎにし、男たち、女たち、眠っていた子供たちの口や鼻の奥深く入りこんだのだった。

あるいはまた、戦争が囚われの都市に猛威をふるったのだ。巨大な稲妻があり、眩い光の波が、一秒にして何千人もの人を気化させてしまったのだ。そして今、この地上には、あの傷口、あるいは下疳のようなものがあって、その永遠の傷痕を残そうとしていた。沸きたつ融岩でいっぱいな火口のまわりには、いくつかの物体がまだ立ったままでいた、千年も昔の城壁、半ば黒焦げになった電柱、古い屑鉄、蒸発した男の影が焼き付いているレンガ塀など。

こういったことすべてが同時に、今ここで起ったのだった、このアスファルトの歩道の上で、あの階段、あの男の子、あの格子、あのレプティノタルサたちとともに。またもう一つの罪、ただそれだけのことだった。そしてもうそれは忘れられていた。

(前掲書、150頁より引用)

 

ここで訳者解説を少し引用しておきたい。これは「遊戯小説」の実現なのだという。

 

この作品は、それまで以上に意図的に日常の平凡な細部を、本質的に反復されてやまないゲーム(jeu)として、反復を本質とするゲームの時間の中に提出しているところに特徴があるだろう。『調書』の書簡体序文が予告していた「遊戯小説」Roman-Jeuの実現である。ヒーローの名シャンスラードは、アダムやベソンと同じく曰くありげな名で、よろめく(シャンスレ)という動詞からの造語である。

(前掲書、340頁より引用)

 

この小説に時間の流れを感じるとすれば、それは目次のためだ。ずらりと並べてみるとこんな感じになる(最初と最後にプロローグとエピローグがあるが、以下には書かない)。

 

たまたま地上に / ぼくは生れた / 生ける人間として / ぼくは大きくなった / 画の中に閉じこもって / 日々が過ぎた / 夜々が過ぎた / ぼくはああした遊びをみなやってみた / 愛された / 幸せだった / ぼくはこうした言葉をみな話してみた / 身ぶりを入れ / わけのわからぬ語を口にして / それとも無遠慮な質問をして / 地獄にそっくりな地帯で / ぼくは大地に生み殖やした / 沈黙にうち克つために / 真実のすべてを言いつくつために / ぼくは涯しない意識のうちに生きた / ぼくは逃げた / そしてぼくは老いた / ぼくは死んで / 埋葬された

ル・クレジオ「愛する大地」の目次)

 

目次がひとまとまりの文章になっていて、ひとりの人間の(たとえばたまたまこの小説ではシャンスラードと仮定された人物の)一生の時間を直線的にあらわしている。読者はふつう、愛する大地の上で繰り広げられるシャンスラードの行動に寄り添って小説を読み進める。すると、突然こんな箇所に行き当たって驚く。

 

何が起ろうと、今や、このあまりに長い物語の結末が何であろうと、あなたはそれがあなたではなかったかのように振舞うことはできないのだ。あなたの眼を離すことはできず、ページを飛ばし、本を閉じて、小さなポケットやすりで爪を磨くことはできないのだ。そんなことはうまくいかない。他の人たちは、あなたが忘れてしまったのだと思うことだってあるかも知れない、だがあなたは違う。あなたはあなたから離れることはできないのだ。生きねばならぬ。生き続けねばならぬ。あなたの物語を語る絵入りアルバムを、こうやって最後まで読み続けねばならぬ。

この物語が面白いのは、それがあなたの物語だからだ。それはあなたの身の上に起こる唯一の面白い物語ですらある。あなたは身を横たえているベッドから、あるいは坐っている椅子から立ち上る。あなたは部屋を縦横に歩きまわり、通りとか庭で何が起こっているか、窓のところへ見にゆく。それからあなたは部屋の中央のほうへ戻ってきて、マッチで、あるいはライターでたばこをつける仕種をする。ある誰かが、例えばあなたの妻が、部屋の中にいるなら、あなたはこう言う。

「何時?」

「え?」

「今何時、って言ってるんだ。」

「五時十分よ。」

(前掲書、152頁より引用)

 

 

「あなた」は今、たまたまこのブログの記事を読んだ。いつもの習慣で検索でもして? それともブログ管理人のTwitterにのっていたURLから? それとも、だれかのブックマークや、どこかに落ちていた星(はてなスター)を拾うように辿ってきたのかしら?

「あなた」がもしこの小説を読んだなら、日常の中で反復し続ける「ゲーム」からおりることはできないということを知っているだろう。これがそう、「たまたま」出会いたかった本についての感想だ。そしてこれを書き終えれば「わたし」は本をぱったりと閉じて、図書館のカウンターの奥に、あの静まりの中へ返してしまう。

 

「今度は、あなたがゲームをする番だ。」

(325頁、この小説の最後の文)

 

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