Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

忘れること、思い出すこと、ことばでつなぎ合わせること―古川真人「四時過ぎの船」

今回は、第48回新潮新人賞を受賞してデビューした古川真人の新人賞受賞第一作「四時過ぎの船」について書いていきたいと思う。

デビュー作である『縫わんばならん』は芥川賞候補になり、単行本も出版されている。『縫わんばならん』について、小説家の小山田浩子は「記憶し語りあい分かちあう営みが布地を複雑に織り上げ、自分と繋がる大きな流れを実感させる。そのことが人の心を暖める。力づける。」(「新潮」2017年3月号掲載、小山田浩子「記憶の布地」より引用)と書いた。先祖から子孫へ代々受け継がなければならないという命のバトンという言い回しを引き合いに出しながら、小山田浩子はそれとは違う人と人とのつながりにあたたかさを見出していたように思う。「親やきょうだいや義理の何やかにや、友達、知りあい、複雑に延びた糸が重なりあい織り上げられつつある布のごく一部、先端などなく、前にも後ろにも横にも斜めにも連綿と繋がっているものの一部だ。」(引用)

 

さて、今回ブログで取り上げる「四時過ぎの船」(160枚)ではどうか。

( 2017.8.9追記:単行本が出ています。↓)

四時過ぎの船

四時過ぎの船

 

 

新潮 2017年 06 月号 [雑誌]

新潮 2017年 06 月号 [雑誌]

 

 

小説のはじまりは、吉川佐恵子が机の上のノートを見つけるところからはじまる。そのノートには「今日ミノル、四時過ぎの船で着く」と書いてあった。ミノル(稔)は佐恵子の孫であり、その孫がどうもひとりで自分の住む島へ四時過ぎの船でやってくる。さて、船着き場まで迎えに行かなければ、と加齢によって痛む体をかばいながら佐恵子は家を出てひとり、船着き場へ向かって歩き出す。と、家を出る前の時点で佐恵子の思考はあちらこちらと逡巡する。どうして稔だけひとりで島に帰ってくるのだ? 家族で来るのではなかったか? やってくるのは稔の兄である浩でなかったか? 浩は魚介類を少しも食べられないというのは不憫なことだ……。様々に思い考えた末に佐恵子は浩の目の手術があるため、家族全員で島に帰ってくることができず、孫の稔だけがやってくることを「思い出す」。

 

「今日ミノル、四時過ぎの船で着く」

そう書かれたノートを祖母である佐恵子の死後、家の片づけのために一時「吉川の古か家」に戻っていた稔が発見する。そのノートは祖母がまだ生きていた頃、病によって書くことができなくなる少し前まで綴っていたらしい日記だ。全体に細いボールペンで書きつけられているほかのページとは異なり、最後のページだけ太いマジックで書かれている。それが先に書いた言葉「今日ミノル、四時過ぎの船で着く」である。文字は裏のページにまで薄く滲んでいた。この時、稔は婆ちゃんの日記の最後のページに、どうして自分の名前がでてくるのか全く「思い出せない」でいた。

この小説は「忘れる」ことと「思い出す」ことの断片から構成されている。それは佐恵子の認知症による思考の逡巡とも重なるが、なにも認知症に関わらず日常というものは忘却と記憶、そしてふとした拍子に浮かび上がる過去の想起から綴ることができるように思う。

作品内に描かれる時間の断片は、稔と兄浩の現在(死後2年ほど経過している亡き祖母の家の片づけ、幼馴染である山浦卓也との再会、小さな男の子ラシュワンの不意の登場)、成人式の頃とそれから4年後に病院へ祖母を見舞った稔の過去、認知症の症状を疑われはじめるも、まだかろうじてひとりで暮らしていた佐恵子が船着き場へ稔を迎えに行った過去、そこでさらに思い出される佐恵子の過去、浩の目の手術とひとりで婆ちゃんの待つ島へ行かなければいけなかった中学生の稔……。これら時間の断片が忘却と想起の繰り返しの中で縫い合わされ一連の記憶として稔の中で整理され、新しく彼の心の内で書き直される過程を描いた作品だと私は思う。そうしてその丹念な作業の中で稔は自身の心のうちにあった「やぜらしか思い」との折り合いをつけ、ようやくこれからどうやって生きていくのか考えることができる地点まで到達することができたのだ。

 

≪(…)婆ちゃんは、やぜらしかものをひとつずつ捨て去っていった。こぼしていって、自分自身も最後にこぼれ落としていった。こぼれ落ちていく、そのなかで、おれと浩のことをおぼえとって、じきに忘れていった。ばってん、なにしろ、おれと浩はまだ年取っていくんやもんな≫

(「新潮」2017年6月号掲載「四時過ぎの船」、57頁より引用)

 

九州の島が舞台と思われるこの小説中に出てくる「やぜらしい」という言葉は、その地方の方言であり、どうやら「わずらわしい」くらいの意味になるようだ。「やぜらしか思い」というものは生きている限り、どんどんどんどん付いてくる。その「やぜらしかもの」をひとつずつ捨て去ってそして死んでいった祖母、これから「やぜらしかもの」をひとつずつ抱えていかなければならない稔。この対比には死生観すら込められているように思う。病院で孫のことさえわからなくなってしまった佐恵子のこんな描写がある。

 

それは丸められたティッシュであったのだが、そうして彼女(佐恵子)は、もはや目のまえに居て、どうしていいのか分からずにこわばった微笑を浮かべている男とこれ以上話す気はないといったように、いつ使ったのか分からないティッシュを、皺だらけの曲がった両手の指でいじりだした。もてあそばれたティッシュは徐々にほどけ、千切れてゆき、その小さな糸くずが窓から差し入る光のなかに舞い上がっていくのを、稔は黙って眺めている。

(前掲書、15頁より引用)

 

「やぜらしか思い」を捨て去ることと、ほどけ、千切れてゆく時間は人生の終わりを暗示しているのではないか。同時に、これからようやく「やぜらしか思い」と折り合いをつけて抱え生きていかなければならない稔は隣を歩く盲目の兄、浩と腕を絡ませている。

 

「今日ミノル、四時過ぎの船で着く」

この言葉が意味していたことを「思い出した」稔は、時を隔てて、あの頃船着き場まで迎えに来てくれていた祖母、佐恵子とようやくすれ違うことができた(「あの頃」は違う道を通ってしまったために行き違いになってしまっていたのだ)。笑い話として思い出されたことが、稔にとって心のわだかまりを受け入れる契機となる。

ノートに書かれた「ことば」によって縫い合わされた記憶。

作者は「ことば」について特別な思いを込めて書いたようにも思える。私にそう思わせるのは、冒頭のノートの裏のページにまで滲んだ文字の存在と、作中に出て来るラシュワンという名前の小さな男の子の存在だ。稔の幼馴染である卓也は認知症の父とまだことばを話すことのできない自分の子供についてこんなことを言っている。「まだしゃべれん赤ん坊と、だんだん意味の分からんごとなっていく親父……正直、どっちもわけ分からんけんね、おれは」(前掲書、49頁より引用)

このふたつの存在の中間にいるのが、「ことばという手段によって最初に世界に触れるよろこび」の中にいるラシュワンという子供ではないだろうか? ラシュワンの両親はインド人で、彼もこれからインドに帰るようだが、その子供が母語ではない「こんにちは!」ということばを繰り返すことでよろこびを感じている……。

「ことば」があるからこそ、「記憶し語りあい分かちあう」ことができる。そうして自分と他者との間や、自分を越えたたくさんの時間を大きな、一枚の布地として縫い合わせることができるのではないだろうか。作者の、ことばというものへの信頼が作品に温かみを添えているように思われてならない。

 

古川真人さんのデビュー作はこちら↓↓

縫わんばならん

縫わんばならん

 

 

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時間を引きずっている―エドワード・W・サイード『晩年のスタイル』

いつか自分も、自分の中にあるもので充足して同時に自分の作り上げた作品にも満足できる日というのが来るのだろうか、たとえば……晩年、とかに。でも、それがいつなのかということは主体が生きている間、明確に意識されることはきっとなくて、と、いうことはやはり一生足掻き続けることになるような気もする。巷で語られる「完成」した人生の嘘くささ。こういう「完成した人生の物語」のようなものはどうして作られるのだろうと考えた時、「あこがれ」ということが脳裏をよぎる。「完成」することに、「満たされる」ことに私はあこがれる。うっかり小説なんかを書くという人生を選んでしまったがために、引きずらなければならない思いを反芻するようにこの本を読んだ。

 

エドワード・W・サイード 著、大橋洋一 訳『晩年のスタイル』(岩波書店、2007年)

晩年のスタイル

晩年のスタイル

 

 

私にはどこかで書くというこの戦いを終わらせたいと、決着をつけたいと、そしてその先にある安穏とした時を過ごしたいという願いがある。この願いが「晩年」または老境の円熟という幻想を生み出すのかもしれない。しかし、本当に波風のたたないベタ凪の晩年なんかはどこにもなくて、きっと一生、いつ終わるのかわからない(けれども必ず終わりが来る)時に挑み続けなければならないのかもしれない。

 

エドワード・W・サイードという人はこの『晩年のスタイル』という本を完成させる前に亡くなってしまったそうだ。まえがきや序文によると、この書物は、死後残された論文やエッセイの原稿をまとめたものだとのことである。サイード存命中に完成をみなかった、ということ自体が何故と言われても明確な言葉にできないけれど、なんとも不思議な気がしてしまう。サイードもまた彼なりの「晩年性」を体現したのかもしれないなどと思うのはロマンチックに偏り過ぎだろうか。

本書の主題は晩年性(lateness)である。マイケル・ウッドによる序文によると「late」という語は微妙に推移する意味をもつという。それは約束を守れなかったという意味(「遅刻」)から自然環境の一時期という意味(「遅い」「後期」「晩期」)を経て、消滅した生命という意味(「亡き」「故」)まで多岐にわたる。

 

「lateなるものは、時間との単純な関係を名指しているのではない。それはいつも時間を引きずっている。それは時間を想起する方法である――時からずれていようが、時に適っていようが、過ぎ去っていようが。」

(本書、マイケル・ウッドによる序文、8頁より引用)

 

「晩年のスタイル」という用語はもともとアドルノによるようだが、本書に収められた著作の中でサイードは様々な芸術家の作品から「晩年性」を読みとっていく。「晩年性」とは表現の「円熟」ではない。サイードにとって「晩年性」とは「故国喪失(エグザイル)の形式」である。そしてその特権的な形式は「時代錯誤性(アナクロニズム)と変則性」である。現在のなかにありながらも、どこか奇妙に現在から浮いているもの。それ故に一般大衆に理解されないものもある。しかし、現在を越えて生き延びるものなのだ。

イードが読み取った「晩年性」の一例を簡単に列記しておこう。たとえばベートーヴェんの晩年の作品の難解さに見られる非和解性(一般に容認されたものからの自己追放)、ジャン・ジュネの押し付けられたアイデンティティへの抵抗、貴族であったジュゼッペ・とマージ・ディ・ランペドゥーサが、「死を宣告するところの古き秩序そのものの代表である」作品でもって大衆社会と複雑なつながりを持つジャンルに取り組んだこと、グレン・グールドがバッハの作品をインヴェンションし再構築することで、彼のピアノ演奏に劇的な新たな次元を付け加えていったことなどが書かれている(私の知識の浅さから読みきれたとは到底思えないので、間違えた理解をして読んでしまったところも多々あるかもしれない。特にオペラに関して言及している部分が多いのだけれど、オペラに馴染みがないためによく分からないまま流してしまった部分も多くある、ごめんなさい)。

 

時代遅れであったり、時に適っていたり、時代を先取りしすぎていたりするもの、それらを漠然と感知しながら我々は生きている。こうして時間を引きずりながら日常を営むわけだが、ある特定の物(芸術作品なり日常雑貨なり)をピックアップしてその物にどういう「時」が付随しているのかをじっと考えてみると、ひとつひとつの物事すべてが分厚い意味をもって生活を侵してくる。なんであれ、私は物事に意味を見出したいと思いながら書きつづける、しかしその意味が「確定」することはないのかもしれない。「確定」させてしまうことは、嘘くさいうすっぺらな「晩年の円熟」という幻想を志向するということだ。

……などと、自分が今までも今現在もこれからも置かれ続けるだろう不安定な心境を思うとぞっとしてしまう。「完成」や「円熟」や「満足」はない、けれどもこの記事は一応のところ、ここで終わらせなければならない。

 

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フィクションという菌糸が結ぶ人菌関係―『FUNGI 菌類小説選集 第Ⅰコロニー』

ある日、ニコニコして家に帰ってきた彼女が鞄からおもむろに取り出したものがそれだった。一体どこで採って来たのやら、妙な構造をしたキノコらしきものが描かれた本だ。彼女はそれをテーブルに置くと「そこらへんの本屋に普通に生えていたの」と言った。それから数日、天気が悪く曇天と雨でじっとりした日々が続いたがその間体調のすぐれなかった彼女は布団にもぐってばかりいた。彼女の体で盛り上がって丸くなった羽毛布団がちいさくふるえている。私はテーブルの上から例の本が無くなっていることに気がついた。

……。

 

と、なんだか無駄に小説風に始めてみたくなるような変わった本に巡り会ってしまった。小説風に書いたけれど、上に書いたことはほぼ実話で、この本は家族が突然買ってきたものだった。「そこらへんの本屋に普通に生えていた」のではなく単に売られていたのだろうけれど。とにかく、はじめてこの本を見た時、なんて奇妙な本なのだろうと思った。ビニールのカバーがかけられたこのハンドブック的な手軽さは……昔キノコ初心者だった時に自分が使っていた山歩き(キノコ狩り)の実際的入門書に似ている笑。しかしこの謎の本を野外でキノコを前に開いてみても……面白いだけだ。目の前に生えているキノコがなんなのか、わかるはずもない。

 

オリン・グレイ、シルヴィア・モレーノ=ガルシア編、野村芳夫 訳、飯沢耕太郎 解説

『FUNGI 菌類小説選集 第Ⅰコロニー』(Pヴァイン、2017年)

FUNGI-菌類小説選集 第Iコロニー(ele-king books)

FUNGI-菌類小説選集 第Iコロニー(ele-king books)

 

 

【ようこそ、真菌の地へ。】

なんだかよくわからないが、歓迎されたようである。

「かつて誰も編纂しなかったから」という理由で編者が世に出してしまった菌類小説選集。11作のキノコを題材にした短篇(掌篇)がおさめられており、読者はホラーからダーク・ファンタジーまであらゆる種類の物語を味わうことができる。「つまり、本書はキノコ潜水艦、菌類の侵略、精神を変容させるキノコ、エイリアンの菌類――そしてもちろん、キノコの怪物を含むアンソロジーとなった。」(序文より引用)

本書をめくると、新英和大辞典第六版(研究社)から引いた【Fungi】という言葉の意味が掲載されている。それによるとこの言葉は「菌類、菌類界」のことであり、狭義では粘菌・カビ類・酵母菌類・キノコ類など真菌類のことを言うらしい。

なんだかこれから到来する梅雨シーズンにじっとり楽しみたい本だ。

以下、本書におさめられた11作品の中から、私が特に気に入った5作品について感想を書いておきたいと思う。

 

■ジョン・ラガン「菌糸」

 

傷んだ建物、錠前にはもう合わなくなってしまっているかもしれない鍵、轍のひどい道を通ってジェイムズはかつて一家で暮らしていた家に父を訪ねた。今、この家には父がひとりで暮らしている……はずだ。実はもう長いことこの家を訪ねていなかったらしい。

わけもなく開錠できてしまった玄関のドアを押し開けると、たちこめていた悪臭がどっと溢れ出す。そのにおいは「匂いの強いチーズが日なたに放置されたあげくの、腐った牛乳成分とカビの刺激臭」(12頁)と表現されている。

荒れ果てた家のどこにも父はいない。ジェイムズは刺激臭を堪えながら家の中を探索すると、かつて父の隠れ家だった地下室からさらに深く、トンネルが掘られているのを見つける……。どうやらこのトンネルは父が掘ったものらしく、地下へ地下へと目指していく様は菌糸が深く深く入り込んで寄生していく様に似ている。廃屋の地下できのこ化していく父親の描写、定番のホラーであるが、細部の描き方が凝っていて一読後ちらっとふりかえってみると、あちらこちら、ディテールからじわじわと恐怖が滲む。

 

■ラヴィ・ティドハー「白い手」

 

あるワードと、それに対する説明の記述の断片から成る不思議な小説。百科事典の一部を眺めるようにして読んでいくと、「海洋帝国オンド―」の歴史が垣間見える。菌紀元945年の人類-菌類協定以前には未開の地であったアンズタケ島にはクリトキュベ・リヴローサ(バカジョウゴ)と呼ばれるキノコが繁茂していた。このキノコは菌紀元1015-1230年の人域拡張期には発見されており、最初の茸筏(たけいかだ)が作られて進水したのは菌紀元の1354年らしい。1351年の初頭にアンズタケ島のお気にあるパドストゥールという小島へゴバラク・イグマクは旅立った。彼が浮き茸を多数結び合わせることにより海の乗り物がたやすく作れることを発見したことがきっかけとなり、数年のうちに島国オンド―は世界初の茸筏の歓待を建造、400年少し続いた人菌協定が終結することになる。

帝国以前のオンド―には、不義の子あり、暗殺あり……とさながらドロドロの歴史ドラマ満載。菌紀元1600年までに最盛期に達した海洋帝国オンド―も、しかしやがて終わりを迎える。タマゴテングダケの登場によって没落するのだ(このことは第二オンド―帝国期における人類の二流歴史家であるグルジヴァによって書かれているらしい)。結局のところ、タマゴテングダケ文明もまた別の勢力によって滅ぼされるし、滅ぼした勢力さえも菌紀元2113年クラト島の海没と同時に消滅する。すべて、去りゆく歴史……。

 

白い手を見なよ

浜辺からきみに手を振る。

 

さよなら、さよならとね

もう、二度と会えないんだから。

(33頁より引用、歴史家のグルジヴァが録音したアンズタケ島の童唄)

 

■カミール・アレクサ「甘きトリュフの娘」

 

深海に沈み、航行不能になった潜水艇の中で男は愛しい彼女の銀板写真(ダゲレオタイプ)を見つめていた。この探検航海自体、彼女の為に企てたものだった、彼女と結婚するために。

 

父親の屋敷の芝生でテニスをするときに動き回る彼女の白い手足、生まれたばかりのホイペットの仔犬と一緒に納屋ではしゃぎまわる彼女の白い、白い帽子(かさ)に付着した藁くずが、日射しにきらめくさまを思い出すのが好きだ。

(38頁より引用)

 

男を取り巻く状況は絶望的だった。飢えと浸水の危機、潜水艇に最も詳しいはずの博士はすでに亡くなってしまった……。

という、深刻なストーリであるにも関わらず何故か笑えるのは登場するのがすべてキノコだからである(紹介する時に敢えて隠したが、冒頭いきなり全部キノコであることがわかる)。「その青白く完璧な肢体から天使の広げた翼のような鐘形にふくらんだ白いドレスを着た彼女、美しいアマニタ・ヴィローサ」(41頁)、男が見つめる銀板写真に写る愛しい彼女はテングタケ。ちなみに男はアミガサタケ。潜水艇に最も詳しいクリミニ博士、計画の出資者はなんとシイタケ氏であった。さらに驚くべきことに彼らの潜水艇はオニフスベという大きめのキノコだ。その構造の描写がとても楽しい、おそらく表紙絵の構造物はこの潜水艇だろう。キノコを船にするという発想は先に紹介した「白い手」にも共通しているが、こちらの船は潜水すらできるように改造されているのだ……笑。

 

■クリストファー・ライス「パルテンの巡礼者」

 

小説の語り手「ぼく」ことオースティンと、その彼女メーシー。「ぼく」はチェロキー・ブラフ分譲住宅会社が倒産の憂き目をみてから定職に就いていなかった。メーシーはグラフィック・デザインの仕事に就きたいとあちらこちらに履歴書を送るという就職活動の真っただ中。ある日ほんの気晴らしのつもりで「ぼく」はメーシーに「パルテン」をすすめた。これは小説世界で話題になっている幻覚誘発性のキノコで使用者は都市の夢をみるという。なんとこの危険なキノコはチェロキー・ブラフの住宅街の廃墟に生えているのだ。不法に侵入した廃墟の壁から「パルテン」を剥ぐ描写はなんだか中毒に陥りそうなほど。「パルテン」を食べた「ぼく」とメーシー。はっと気がつくと「ぼく」は干上がった海のほとりの砂地に横たわっていた。

 

砂丘のあいだをうねるようにずっとアーチが続いていて、真珠光沢を放つドーム都市へとつながっていた。この死んだように静かな土地にあって、それは壮麗にして痛ましい光景だった。まるで巡礼者のように人々はそちらを目差して歩いている。彼らはみな裸であったが、その姿は無垢で美しいものだった。

(79頁より引用)

 

ふたりは「パルテン」の見せる幻覚世界にはまりこんでいく。引用した風景ははじめは単に「パルテン」のみせる幻覚にしか過ぎなかったはずなのだが、やがてこの風景の方がリアリティを帯びて現実世界に滲みこんでくる。ふたりが「パルテン」の虜になっている時にはもうこの幻覚性のキノコは社会問題になっている。現実の世界で「パルテン」についてのウェブサイトが「雨後のタケノコのように出現」してくる。人々の暮らしの中にこうしてパルテンという都市やパルテン人が入り込んでくる。ウェブサイトの記述という形を持って侵入してくる。「ぼく」とメーシーは何度も「パルテン」へ赴く。「ぼく」はメーシーの助け(彼女の観察力と素晴らしいスケッチ)とウェブサイトの記述をもとに少しずつパルテンを理解していく。

パルテンの危険性がいくら報道されても、「ぼく」とメーシー、そしてその他大勢の中毒者には届かない。むしろ、「どれほど彼らが力説しても、パルテンは想像の存在ではなかった。そして、もはや巡礼者は夢見続けるのをやめた。ぼくたちは目覚めつつあった。ぼくたちはかつての開拓者(パイオニア)と同じ気がした。」(85頁)

パルテン人の正体、そして人類の側にどれほど彼らが入り込んでいたのか、ぞっとする閉塞が物語の最後に待っている。

 

■ジェーン・ヘルテンシュタイン「野生のキノコ」

 

野生のキノコを採る文化、採らない文化。そんなことをふと考えてしまう小説。それはきっとこの小説に登場する語り手の両親がキノコを採るチェコスロバキアからアメリカにやってきた移民だということによるのだと思う。アメリカにやって来ても父と母はキノコを採り、そしてその営みに付き合わされている子供。親の人生経験を把握しきれずに家族の間に生じてしまった溝が描かれる。キノコに対する姿勢の違い、そういう文化や習慣の違いによって分かたれてしまう世界観の存在が少し悲しい。言葉の壁よりも習慣の壁だろうか。わかり合うこともあれば、どうしてもわからないままになってしまう事柄もある。ただ和解することだけが唯一素晴らしいことなのではなく、そういう違いを抱えて営んでいく生活もあるのだ、とこの作品を読んでしみじみ思った。

 

うちの父は頭のなかをほのめかすように、こめかみを叩いた。「茸採りには茸採りの秘密があるのさ」彼は謎めいた笑みを浮かべて言った。

(165頁より引用)

 

木の間から射しこむ灰色がかった陽光のなかに立った父の足もとに、オニフスベが、異星の球体人のように佇む光景は、いまだ瞼に残っている。彼が人の手のおよばない、なにか大きなものと相対していたとは気づかなかった。

(167頁より引用)

 

本書の最後に置かれたこの作品には菌糸のホラーやキノコの怪物は出てこない。ただ静かに、しかし一点の奇跡のように父の遺骨の傍らにアミガサタケが生えているのは印象的だった。

 

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この本を読んでからキノコについてずいぶんと考えさせられた。

キノコの魅力、それは色や形、匂い、味だけでなく、それのもつ毒性や幻覚作用、ある日突然どこからやってきたのかわからないままにぷっくりプランターの隅に生えていたりする不思議。寄生的側面からはホラーまで構想できてしまうキノコ。人類はこうして数多のフィクションにキノコを用いてきた、そしてキノコの方でもこうして人類の文明にしっかりとその菌糸を伸ばしているのだ。

さて、私の彼女。羽毛布団の下で丸くなってふるえていた(たぶん笑っていたのだ、この本を読みながら)彼女はその後、人の姿をして元気に起きだしてきたのだと断言しておいたほうがいいだろうか、それともこれは創作かもしれない日常として、キノコ人間にでも書き換えてしまったほうがいいだろうか。

憑依? いつもと違う文体でお送りします、だって作者が否応なしにノリウツッテ来るんだもの。

気になっていた小説家の作品を、4月5月と縁がありようやく読む事ができた。

その小説家というのは笙野頼子という人で、名前くらいはうっすら聞いたことがあったが、実際にはなかなか読む事ができないでいた。で、どうして今年になって急に読み始めたかというと……? この国この社会? なんか最近様子がおかしくないですかね?

大きいメディアで報道されない何かが変な法律がある日突然「可決」されたりして「なになに? え? そんなの聞いてないんですけど?」みたいな謎の日々。そんな日々を送ってればそりゃあ文学で戦争を止めようとしている人がいるらしいと聞いたら、読んでみたくなるよね? 「戦争を止める?」いや、戦争まだ起きてないし起きるとも聞いてないんですけど? うーん、でも「戦争やりまーす」なんてテレビで宣言される頃にはもうけっこう人、死んでるんじゃない? もしかしたら今「戦前」なのかもしれない。いや、こんなことは全部杞憂だったならそれで良い。とにかく、笙野頼子という人は小説作品で戦争を止めようとしている。TPP反対の立場を作品内で明確に打ち出し、強烈な語りの技法を駆使して。文学に政治を持ち込むことについては、快く思う人とそうでない人がいるのは知っている。私もどちらかというと、文学と政治は切り離して暮らしていたい。だけれども、まあ、必要なこともある……という以前に、まず、笙野頼子という書き手の言葉選びのセンスが面白くて面白くて、ついつい読み進めてしまったのだ。たとえば、「政治の前に文学無効」なんていうことはよく言われる。文学なんて一体なんの役に立つのさ、という文脈で言われるこの言葉。こういう言葉を笙野頼子は作品の中で「豆腐の前に田楽無効」とか言いかえてみたりする(『植民人喰い条約 ひょうすべの国』収録の“姫と戦争と「庭の雀」”)。作品内で表明されている政治的な主義主張すべてに賛同するわけではないけれど(というか不勉強すぎて留保している事柄も多々あるのだけれど)、とにかく作者の言葉のセンスや語りのパワーに惹かれてしまうのだ。「語りのパワー」はもうハンパない。すごいマシンガントークだ。ずーっと力強い語り、三時間ぶっ通しで読んでいたら疲れ切ってへろへろになってしまう読者の私、これはこの作者にしか書けないものだと思った、あの衝撃。自由主義経済って市場原理って、思っていたより恐ろしい。「勝てるように頑張ればいいじゃん?」なんてかっこつけて言ってみてさ、勝てなくなったらどうするの? 喰われるね?「自己責任」で? おいおいおい。

 

さあ止まれ、今止まれ! 文学の前にこの戦前止まれ。そして「今こそ」文学は売国を報道する。だって新聞がろくに報道しないからね。それに今なら別に文学でなくっても例えば羊羹で止めたってなんとか止まるかもね。或いはフリーセルで止めようでも構わないけど。

笙野頼子「さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神」群像2017年4月号11頁より引用)

 

以下、私が読んだ二作品についてそれぞれ簡単に紹介しておきます。

 

笙野頼子『植民人喰い条約 ひょうすべの国』(河出書房新社、2016年)

ひょうすべの国――植民人喰い条約
 

 

この作品はTPP反対の立場で書かれたもので、書籍の帯をつけて書店に立てておくだけで「書店デモ」ができてしまうというシロモノ。ひとりの小説家ができる範囲のしかも最も効果の大きいデモ、たぶん最大規模のデモ(やはり小説家は小説で戦ってこそ、などと生意気にも思ってしまうのでした)。

しかしこの作品にはTPP反対という主張以上のことが盛り込まれている。

「ひょうすべの国」の「ひょうすべ」とは、「NPO法人ひょうげんがすべて」のこと。作品内では「表現の自由」を守るとか、なんだかそれっぽいことを言っている存在として設定されているけれど……? この「表現の自由」って何だろう? それは私達読者一般がなんとなく漠然と思い浮かべる表現の自由とは全く別物なのだ。このカギカッコがくせもので。作品内で守られる「表現の自由」とは、嘘つきの自由、搾取の自由、弱者虐待の自由、ヘイトスピーチの自由……etc. こんなものがまかり通るようになってしまったTPP批准後のニッホンという国の惨状とそこに生きるとある家族の悲惨を描いたディストピア小説。フィクションだからここまで書けた、だけれどフィクションだからって看過してしまっても良いのだろうか?

 

 

笙野頼子「さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神」(「群像」2017年4月号掲載)

群像 2017年 04 月号 [雑誌]

群像 2017年 04 月号 [雑誌]

 

 

この作者は戦争を止めようとしている。しかも「身辺雑記」で。

TPP反対や原発、戦争法案……etc. そして何よりマスコミがこれらの問題を一切報じなくなっているという事態。こういうことを作者は日常(難病を抱えた自身の生活、やはり病を抱える猫との日々、家に祀られている神様が語る猫と人間のそんな暮らし、小説や私小説というものについてまたは文学について考えた事柄、台所のこと)に落とし込んで描いていく。

私は単に「戦争反対」を叫ぶより「日常」を守りたいということを書く方が戦争を止める力を持つのではないか? と思っている。たいていの「戦争反対」はもう使い古されたものとして簡単に受け流されてしまう世の中。だからこそ、この作品が私小説の形式をとった「身辺雑記」である意義は大きいと思う。

 

要は健康な人間なら仕事の合間にするようなただの整理整頓をこの慢性病患者は無上の幸福感で「無事」やっているわけだ。ともかくまず台所の模様替えを済ませたいのさ。台所に猫と快適に住めるようにしたいと。人喰いに怯えながらも良く生きるべし、と。つまり連中の目的は搾取、略奪だから。ならば幸福でいる事も威嚇で復讐だ。

(37頁より引用)

 

関連リンク↓↓

 

www.bookbang.jp

 

 

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砂が書く、うつろい / たゆたい ―坂口恭平『現実宿り』

砂漠には行ったことがないけれど、よく海辺に行ってはどこから打ち上げられてきたのかさっぱりわからない倒木や、海藻やゴミの絡まり合ってできた山、それに人間が作った波除ブロックなんかに登って砂浜を眺めることがある。海辺の砂は、風に飛ばされていくというよりは波に洗われて沖へ引きずられていったり、また戻ってきたりを繰り返しているのかもしれない。そんなふうに決して一定のものとして固定されることのない浜辺の風景を見に行くことが私にとっての「現実宿り」なのだろうと思う。時に、本来はただそこにある風景としてあるだけの砂の模様に意味を与えてみたりもする。何故か、海や砂浜が私を呼んでいるような気がしたりもする。漂着物のひとつひとつに染みついた誰かの生活を恋しいとも思う。

今回ご紹介する本は、坂口恭平『現実宿り』(河出書房新社、2016年)。

 

現実宿り

現実宿り

 

 

こちらに詳しく掲載されているのですが、著者は単に雨を避ける避難所という意味にとどまらない日本語の「雨宿り」という言葉を不思議に思っていて、雨宿りをする時の軒先のような空間があれば現実に対する目も変化するのではないか? ということからこういうタイトルの作品が出来上がったそうだ。決してリアリズムの作品ではない。現実から横滑りしたような風景が本書には広がっている、本書の外側にも広がっている(ような余韻さえある)。

明確なストーリーのないこの作品はきっと読む人や読んだ時間、空間の違いによって見え方が大きく変わってくると思う。だから何度でも読みたいし、是非蔵書に加えたい一冊なのだ。私に見えたこの作品の風景を簡単に書いておこうと思う、たぶん数年後に読んだらまた印象も変わっているかもしれない。

 

「わたしたち」と、砂は語る。砂は人間のいなくなった砂漠にいる。忘れるということを忘れるくらいに、ごく自然に当たり前に存在している。ある時、砂は図書館を見つけて本を読むようになった。それから「書く」ということを知り、「忘れたくない」こともどうやらでてくる。だから書いている。「わたしたち」は書いているのだが、時々「わたし」としか言えない者が見た景色や歩いた町、経験した感情も書く。ある日突然、謎の手紙を受け取った人物がそれを見ている、玄関を出ると、訪ねてきた見知らぬ者に車に乗せられどこかへ連れされていく。ある日突然、弟だと名乗る(そしてその男は明らかに弟ではなく、日本人ですらない)人物から電話がかかってきてやっぱりどこか見知らぬ場所へ連れて行かれる。蜘蛛だった「おれ」は鳥に食べられる。そしてたぶん消化されながら千々にわかれていった「おれ」は「鳥の内臓」であったり、「鳥の目」であったりもする。鳥の目の「おれ」は蜘蛛だった頃の「おれ」を見ることもある。

 

おれは気持ちを鎮めるために目をつむった。いろんな風景が次々と通り過ぎ、ある景色で突然止まった。おれは蜘蛛だった頃にみていた鳥だった。おれを狙っていた。不思議なことにおれが狙われていると感じていたあの視線はおれのものだったんだ。

(前掲書、115頁より引用)

 

砂は風に飛ばされていく。しかし風に飛ばされてしまったものの視界も、自分の経験として感じている。だから、なんとなく読みながらこの作品に出てくる「わたしたち」(砂)以外の描写もみんな、砂の話に見えてくる。男も女も蜘蛛も鳥も鳥の目も、不思議なことにみんな砂に思えてくる、そして「わたしたち」は飛ばされていって色々なものになった砂の見る風景を書きつづける。「彼」が皿に触れ、その皿が割れて粉々になる。見るとただの砂が絨毯の上に散らばっている。その砂に触れながら「彼」はかつてそこで暮らしていたような気持ちになる。彼はそこへ向かおうとする、そして家族に黙ったまま家を出て生まれた場所へと帰っていった。森の夢へ向かうために何人かの人間が死んだ。そして死んだ人間たちはそのまま「わたしたち」に成り代わった。

砂は「森の夢」をみた。森はあったかもしれないし、なかったのかもしれない。ただ砂漠だけがそこにあった。そして砂、「わたしたち」はその全景であるのかもしれない、と同時に一粒一粒の存在であるのかもしれないし、風に飛ばされて何か別の生き物になっていくのかもしれない。そしてまた戻ってくるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 

作品全体がほとんど、砂の上に描かれたものであるかのように心もとなくうつろい、そのうつろいが風景になる。そういう風景をそのまま書こうとするときっとこういう作品になる。透明な文章、というのがこの作品を読み始めた時の最初の印象だった。あるものがそこに存在する理由(意味)というものを書かずに、あるものがそこに存在する風景がただ連綿と書かれた作品だと思う。

 

誰も漕いではいない。風は静かだ。しかし、波紋はまだ揺れていた。波紋にのって、わたしたちはどこかへ流されていった。水面にとどまるものもいた。わたしたちは森へ向かっていた。夢の中ではなかった。光がわたしたちに届いているのだから。わたしはまぶしさを感じた。光が頭蓋骨の中に届いた。その透明な世界を見ながら、わたしたちは今、自分たちが森へ向かっていることを目撃した。わたしたちは借り物でもなんでもなかった。仮の姿でもない。わたしたちは砂だった。ここは砂漠だ。どれもこれも砂だった。生き物は、ねっとりとした息を吐き出すと、魚のように水中へ逃げ去っていった。

(前掲書、195頁より引用)

 

ちなみに表紙や、一枚めくった先(画像参照)に書いてある文章にとても惹かれる。特に黒地の部分は、まるで砂の文字みたいだ。少し長くなるが引用して終わりにしたい。本当にこの本は読んだ時や場所、それを読んだ人によって随分印象が変わると思う。意味を求めるということとは違った読書というのは、ほとんどその文章の上をたゆたうようなことで、それがとても心地良い。

 

わたしたちが書いたことは、実は文字になっていない。どんどん消えていってしまっている。あなたに伝えたいことではなく、わたしたちはあなたと一緒に見ている風景をそのまま書こうとしている。一緒に見えたものだけを書こうとしている。あなたのおかげで、わたしたちは書いている。わたしたちはあなたがいないかぎり、書くことはない。わたしたちは息をしていない。だが、死ぬこともない。わたしたちは変わり続けている。わたしたちは砂である。わたしたちは砂であることを知っている。あなたに砂の言葉を伝えたいわけではない。あなたと同じ風景を見ていることを伝えたいのである。あなたがこの文字を読むとき、わたしたちは目の前に現れる。いま、わたしたちは書いている。しかし、今わたしたちはそこにいない。わたしたちはあなたがこの文字を読む時だけ、書いたものとしてここに現れる。

(前掲書、111頁より引用)

 

関連リンク↓↓

 

www.kawade.co.jp

www.bookbang.jp

 

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あみ子の暗い穴―今村夏子『こちらあみ子』

この本には「こちらあみ子」「ピクニック」の二編の小説が収められているが、今回ブログの記事では「こちらあみ子」を取り上げたいと思う。

ふだんはあまりこういうことは気にしないのだけれど、たくさんの人がこの小説に関心をもって読んでいるらしいので、以下、「こちらあみ子」という物語のネタバレが含まれますよ、と一応言っておこうと思う(と言っても、良い小説にネタバレも何も関係ないと思ってしまうのが私なのだが)。

 

今村夏子『こちらあみ子』(筑摩書房、2011年、文庫2014年)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

 ※なお、ブログ記事内の頁番号は単行本に依拠しています。

 

この小説の主人公は「あみ子」という女の子。

あみ子が友達のさきちゃんのために、すみれの花を採ってくる場面から始まる。これが小説における「現在」で、さきちゃんは竹馬に乗ってあみ子をたずねてくるのだが、その動きがまるで一歩も前進していないかのようにのろい。

 

友達を大切にしなくてはという思いがある。休日の度に顔を見せにやってくるさきちゃんはきっと、あみ子のことが好きなのだ。あみ子も同じように、さきちゃんのことが好きだ。

(前掲書、11頁より引用)

 

そうであるにも関わらず、作品の「現在」において、あみ子とさきちゃんは出会えない。前進しているように見えない竹馬と、祖母に呼ばれて家の中へ入って行くあみ子。さきちゃんがすみれの花を持ったあみ子のところへたどりつく前に小説は終わりを迎えてしまう。ちょっと切ない。この出会えないということが、あみ子が抱えてきた世界との折り合いのつけ方のわからなさ(または難しさ)を彷彿とさせる。出会えないけれど、でもあみ子は深刻に悩んではいない。さきちゃんは「当分ここへは辿り着きそうもない」(115頁)、たぶんそれでいいのだと思う。

さきちゃんは「あみ子の暗い穴」が好きらしい。

 

さきちゃんに「イーしてください」と言われればイーしてあげる。イーッと、口を横に広げるとのぞく、あみ子の暗い穴がさきちゃんのお気に入りだ。あみ子には前歯が三本ない。正確には、あみ子から見て真ん中二本のうち左側が一本と、その左一本、更に左がもう一本。

(前掲書、11頁より引用)

 

この「あみ子の暗い穴」をのぞくように(あるいはこの穴の由来を探るようにして)あみ子の過去が語られるのだが、そこにはあみ子の家族や友人に降りかかる様々な痛みが描かれる。あみ子は一言で言ってしまえば「変な子」だ。でもこの子に誠実に向き合おうとすればするほど、どこがどう変なのか説明できなくなってしまう。「生きにくい子」の物語だという先入観を持って読めばあみ子の痛みが強調されるだろうが、この作品ではむしろあみ子が周囲にもたらす痛みが淡々と描かれているように思う。あみ子は自分でも自覚できない「破壊力」を持っている。自覚がないのだから当然制御できない。

 

「好きじゃ」

「殺す」と言ったのり君と、ほぼ同時だった。

「好きじゃ」

「殺す」のり君がもう一度言った。

「好きじゃ」

「殺す」

「のり君好きじゃ」

「殺す」は、全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、同じようにあみ子の言葉だけがあみ子をうった。好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。好きじゃ、好きじゃ、好きじゃすきじゃす、のり君が目玉を真赤に煮えたぎらせながら、こぶしで顔面を殴ってくれたとき、あみ子はようやく一息つく思いだった。

(前掲書、96頁-97頁より引用)

 

あみ子は無自覚に人を傷つけてしまう、その結果、失われていく物があったり壊れていく関係性があったりするのだが、今度はそれがあみ子のこころを砕いてしまう。あみ子は自らの持つ「破壊力」に気がつけないまま、周囲を壊しつつ自らをも壊す。壊れたトランシーバーに向かって「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子」(104頁)と語りかける姿の切実さを、私はまだ言葉にできないでいるのだが、あみ子は自分が直面する出来事に意味を与えたいのかもしれない。どうしてそうなってしまうのか、わからないことをわかりたいのかもしれない。そう考えるとこの呼びかけは狂おしいほどに切なくて、愛おしい。

もしも、「あみ子の暗い穴」がのり君によってあけられなかったら、あみ子のこころはずっと砕け続けるしかなくなってしまう。ある意味で、この穴に救われているように感じるのはあみ子の「現在」の友達であるさきちゃんが「あみ子の暗い穴」を好きでいてくれるからだ。

 

単に「生きにくい子」の「生きにくさ」を描いた小説だとは思えない。というか「生きにくい子」であるかもしれないあみ子に、診断書みたいな障害の名前をつけて納得しようとしたり、学校ではいじめられ、家庭では疎外されるあみ子を「かわいそうな子」だと断定したりすることを小説は避けているように思う。自分自身の感情にさえ気がつけないあみ子はいじめられても傷つかない。あみ子の感情はあみ子にさえ断定できない。たぶんのり君にあけられた「あみ子の暗い穴」を通じて、近所に住む小学生のさきちゃんだけがあみ子の世界を覗くことができるのかもしれない。

 

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又聞きの人生―滝口悠生「高架線」(『群像』2017年3月号掲載)

今回は『群像』2017年3月号に掲載されていた、滝口悠生「高架線」という小説の感想を書いていきたいと思う。地上より高いところを電車が走る「高架線」。そこから風景を眺める瞬間を彷彿とさせるような、きゅうに目の前にパーッと小説全体が開けて見える瞬間には本当に感激した。とは言っても、私の住んでいる地域は高架線はおろか、電車すら走っていないのだけれど、そういう事実にぶちあたるたびに、ああ小説って経験を超えるんだな、と思ってしまう。なんとなく、高架線からみた風景を知っているような気にさせられるのだ。

この小説家の書く作品はどれも「語り」がおもしろく、気がつくと夢中になって読んでしまっている。作品の語り手たちは一体誰に向かってこんな面白い話をしてくれているのか、本当にあきれるくらい長々としゃべりまくっているのに面白い。

 

 

群像 2017年 03 月号 [雑誌]

群像 2017年 03 月号 [雑誌]

 

 

たいていの「長い話」はつまらない、途中で飽きてしまうものだ。たとえば自分の来し方なんか語るともう語り始めた時点で聞き手を飽きさせてしまう。

自分の人生を語ってみようと思って話し始めてみると不思議なことに誰の人生も似たり寄ったり、おかしい、自分の人生上の苦労や喜びはもっと個別的で具体的なもののはずなのに、どうして他の人が語る他人の話と似てしまうのだろう? ……というような経験はないだろうか? 自分の個別的で具体的なはずの人生がまるでテンプレートにはめられたような「よくある話」になってしまうということ。どうしてこんなことになってしまうのかと言えば「自分の人生を語る」という自分語りにはある一定の形式があるからではないだろうか? 自分の人生を語ってみよう、そう思った途端よほど慣れている人を除いて多くの人の頭の中には何年何月何日に、○○町に生まれて××という学校を卒業し、それからその後就職したり退職したりという職歴を語るか、または無職歴なんかを語ってみる、そこにどうしてそういう経歴になったのかという自分なりの理由づけを加えて……みたいなテンプレートが浮かんでくるからだ。しかし、こんなテンプレートに当てはめる意味はきっとない。こんな話型で語る人生なんて、みんな硬直してしまっている。

今回紹介する滝口悠生「高架線」という小説はこういう硬直というか、語ってしまうことで決定されてしまうような一般化を、面白く回避している。どのようにしてか? それはやっぱり「語る」ことで回避しているのだけれど、「語る」人間はいつの間にか他者の人生について語っているのだ。その語られた他者の人生がなんとなく繋がっていくとストーリーみたいなものが浮かび上がってくる。だけれど、語られた人物は読者の前に直接姿を見せることはほとんどない、これがこの小説の面白いところだと思う。私はそういう人物たちの語られた人生を「又聞きの人生」となんとなく呼んでいる。小説上とても大切なエピソードなのに、そこで語られる人物は読者の前にはいない。あくまで別の人物が見聞きし整理した「語り」を通して読者にもたらされる人生。だからどこまで「本当」なのかも実はよくわからない。

小説には冒頭に登場する新井田千一に始まり、七人の語り手が登場する。それぞれの立場からいろいろな人生の出来事を語り継いでいくという構成をとっている。もちろん前提として、語り手が自身の立場や来歴を語る部分はあるのだが、いつの間にか話がずれていき、別の人間について(あるいは突然映画のストーリーについて)語ってしまっているのである。語り手たちを繋ぐものは「かたばみ荘」という木造二階建ての古いアパートで、語り手たちのおしゃべりや語られる人生はここに凝集されていく。そういうことが可能なのは「かたばみ荘」に独特なシステムがあるからだ。「かたばみ荘」は仲介業者(アパートの管理会社)を通さないため家賃が3万円と安いのだが、仲介業者を通さないがために自分が退去をするときには次に入居する人物を大家(万田夫妻)に紹介しなければならない。

 

部屋には元住人の、そして代々の住人の暮らしの跡、傷だの、匂いだの、汚れだのが、至るところに残っていた。けれどそれらを残した住人たちも、辿っていけば、知り合いの知り合いの知り合い、ということになり、自分だけの部屋というよりは、自分たちの部屋、私たちの部屋と言いたかった。

(前掲書、10頁より引用)

 

互いに深い知り合いではないが、同じ部屋に住んだことがあるという、または住んだことがある人物の関係者であるといったゆるやかな連帯意識。

かたばみ荘の住人は、小説の中でこんなふうに移り変わる。

新井田千一→片山三郎→七見歩(三郎が失踪していた期間の家賃を肩代わりしていた。)→峠茶太郎。そしてどうも新井田よりずっと以前、1974年頃にかたばみ荘の住人であったという日暮純一。「かたばみ荘」というアパートの一室に流れた時間と、その上に乗っかっていた暮らしの変化。そういうものを見せていながら、住人がそのまま「語り手」ではなかったりする。上にあげた「かたばみ荘」の住人の中で読者の印象に強く残る片山三郎という人物は、小説の語り手として設定されていない。終始「語られている存在」である。失踪事件を起こして小説から姿を消し、電車の上り線と下り線でクロスするように描かれた後、気がつくとメインが下り線に乗っていった片山三郎となり、いつの間にやら秩父でうどんを打っている。そのうどん屋がなくなってしまってからはインドに行っていたりと、とにかく読者の前に直接現れない。

こんな具合に作品の「いま」「この」空間に決して現れない人物がけっこうたくさんいることに驚いた。片山三郎の他に、新井田の若い頃の文通相手で25歳の看護婦である成瀬文香、田村光雄、小夏、佐々木柚子子、松林千波……。彼(彼女)らが読者の前に出てきて自らの来歴を直接語ることはない(成瀬文香に関してはそもそも読者に印象づけられたイメージとして存在してさえいない)。だれもが別の人間の口から語られた存在として描かれている。だから読者が「又聞き」みたいにして知った彼らの人生が、まぎれもなく彼らの人生そのものかどうかはわからないし、そもそも問題ではない。大切なことは、こういう語りの構造によって表現された広がりだ。「かたばみ荘」のシステムが生み出したゆるい連帯と重なり合いながら、語りはどこまでも広がっていく。

小説の「語り」にとても意識的な作品だからこそ、「書かれなかった事柄」までぼんやりと浮かび上がらせることができる。この書かれなかった事柄、というのが読者の前に語り手として登場しない者たちの人生で私が「又聞きの人生」とでも呼びたくなった、確かな話ではないけれど、確かに存在しているらしい誰かの生きてきた時間と空間なのだ。

 

七見奈緒子です。三朗が失踪の顛末を話している間、私がうどんをすする音、ついでに鼻をすする音、熱くて汗をかいて、はーはーいっている音なども、ずっとしていた。

だいたいそのような成り行きだったのだけれど、もちろんこれは私が覚えている限りの話であって、三郎がその時話していた話とはきっと齟齬もある。話というのはそういうもので、人が違えば内容も変わる。立場が変われば言い分も変わる。

(前掲書、67頁)

 

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