Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

忘れること、思い出すこと、ことばでつなぎ合わせること―古川真人「四時過ぎの船」

今回は、第48回新潮新人賞を受賞してデビューした古川真人の新人賞受賞第一作「四時過ぎの船」について書いていきたいと思う。

デビュー作である『縫わんばならん』は芥川賞候補になり、単行本も出版されている。『縫わんばならん』について、小説家の小山田浩子は「記憶し語りあい分かちあう営みが布地を複雑に織り上げ、自分と繋がる大きな流れを実感させる。そのことが人の心を暖める。力づける。」(「新潮」2017年3月号掲載、小山田浩子「記憶の布地」より引用)と書いた。先祖から子孫へ代々受け継がなければならないという命のバトンという言い回しを引き合いに出しながら、小山田浩子はそれとは違う人と人とのつながりにあたたかさを見出していたように思う。「親やきょうだいや義理の何やかにや、友達、知りあい、複雑に延びた糸が重なりあい織り上げられつつある布のごく一部、先端などなく、前にも後ろにも横にも斜めにも連綿と繋がっているものの一部だ。」(引用)

 

さて、今回ブログで取り上げる「四時過ぎの船」(160枚)ではどうか。

( 2017.8.9追記:単行本が出ています。↓)

四時過ぎの船

四時過ぎの船

 

 

新潮 2017年 06 月号 [雑誌]

新潮 2017年 06 月号 [雑誌]

 

 

小説のはじまりは、吉川佐恵子が机の上のノートを見つけるところからはじまる。そのノートには「今日ミノル、四時過ぎの船で着く」と書いてあった。ミノル(稔)は佐恵子の孫であり、その孫がどうもひとりで自分の住む島へ四時過ぎの船でやってくる。さて、船着き場まで迎えに行かなければ、と加齢によって痛む体をかばいながら佐恵子は家を出てひとり、船着き場へ向かって歩き出す。と、家を出る前の時点で佐恵子の思考はあちらこちらと逡巡する。どうして稔だけひとりで島に帰ってくるのだ? 家族で来るのではなかったか? やってくるのは稔の兄である浩でなかったか? 浩は魚介類を少しも食べられないというのは不憫なことだ……。様々に思い考えた末に佐恵子は浩の目の手術があるため、家族全員で島に帰ってくることができず、孫の稔だけがやってくることを「思い出す」。

 

「今日ミノル、四時過ぎの船で着く」

そう書かれたノートを祖母である佐恵子の死後、家の片づけのために一時「吉川の古か家」に戻っていた稔が発見する。そのノートは祖母がまだ生きていた頃、病によって書くことができなくなる少し前まで綴っていたらしい日記だ。全体に細いボールペンで書きつけられているほかのページとは異なり、最後のページだけ太いマジックで書かれている。それが先に書いた言葉「今日ミノル、四時過ぎの船で着く」である。文字は裏のページにまで薄く滲んでいた。この時、稔は婆ちゃんの日記の最後のページに、どうして自分の名前がでてくるのか全く「思い出せない」でいた。

この小説は「忘れる」ことと「思い出す」ことの断片から構成されている。それは佐恵子の認知症による思考の逡巡とも重なるが、なにも認知症に関わらず日常というものは忘却と記憶、そしてふとした拍子に浮かび上がる過去の想起から綴ることができるように思う。

作品内に描かれる時間の断片は、稔と兄浩の現在(死後2年ほど経過している亡き祖母の家の片づけ、幼馴染である山浦卓也との再会、小さな男の子ラシュワンの不意の登場)、成人式の頃とそれから4年後に病院へ祖母を見舞った稔の過去、認知症の症状を疑われはじめるも、まだかろうじてひとりで暮らしていた佐恵子が船着き場へ稔を迎えに行った過去、そこでさらに思い出される佐恵子の過去、浩の目の手術とひとりで婆ちゃんの待つ島へ行かなければいけなかった中学生の稔……。これら時間の断片が忘却と想起の繰り返しの中で縫い合わされ一連の記憶として稔の中で整理され、新しく彼の心の内で書き直される過程を描いた作品だと私は思う。そうしてその丹念な作業の中で稔は自身の心のうちにあった「やぜらしか思い」との折り合いをつけ、ようやくこれからどうやって生きていくのか考えることができる地点まで到達することができたのだ。

 

≪(…)婆ちゃんは、やぜらしかものをひとつずつ捨て去っていった。こぼしていって、自分自身も最後にこぼれ落としていった。こぼれ落ちていく、そのなかで、おれと浩のことをおぼえとって、じきに忘れていった。ばってん、なにしろ、おれと浩はまだ年取っていくんやもんな≫

(「新潮」2017年6月号掲載「四時過ぎの船」、57頁より引用)

 

九州の島が舞台と思われるこの小説中に出てくる「やぜらしい」という言葉は、その地方の方言であり、どうやら「わずらわしい」くらいの意味になるようだ。「やぜらしか思い」というものは生きている限り、どんどんどんどん付いてくる。その「やぜらしかもの」をひとつずつ捨て去ってそして死んでいった祖母、これから「やぜらしかもの」をひとつずつ抱えていかなければならない稔。この対比には死生観すら込められているように思う。病院で孫のことさえわからなくなってしまった佐恵子のこんな描写がある。

 

それは丸められたティッシュであったのだが、そうして彼女(佐恵子)は、もはや目のまえに居て、どうしていいのか分からずにこわばった微笑を浮かべている男とこれ以上話す気はないといったように、いつ使ったのか分からないティッシュを、皺だらけの曲がった両手の指でいじりだした。もてあそばれたティッシュは徐々にほどけ、千切れてゆき、その小さな糸くずが窓から差し入る光のなかに舞い上がっていくのを、稔は黙って眺めている。

(前掲書、15頁より引用)

 

「やぜらしか思い」を捨て去ることと、ほどけ、千切れてゆく時間は人生の終わりを暗示しているのではないか。同時に、これからようやく「やぜらしか思い」と折り合いをつけて抱え生きていかなければならない稔は隣を歩く盲目の兄、浩と腕を絡ませている。

 

「今日ミノル、四時過ぎの船で着く」

この言葉が意味していたことを「思い出した」稔は、時を隔てて、あの頃船着き場まで迎えに来てくれていた祖母、佐恵子とようやくすれ違うことができた(「あの頃」は違う道を通ってしまったために行き違いになってしまっていたのだ)。笑い話として思い出されたことが、稔にとって心のわだかまりを受け入れる契機となる。

ノートに書かれた「ことば」によって縫い合わされた記憶。

作者は「ことば」について特別な思いを込めて書いたようにも思える。私にそう思わせるのは、冒頭のノートの裏のページにまで滲んだ文字の存在と、作中に出て来るラシュワンという名前の小さな男の子の存在だ。稔の幼馴染である卓也は認知症の父とまだことばを話すことのできない自分の子供についてこんなことを言っている。「まだしゃべれん赤ん坊と、だんだん意味の分からんごとなっていく親父……正直、どっちもわけ分からんけんね、おれは」(前掲書、49頁より引用)

このふたつの存在の中間にいるのが、「ことばという手段によって最初に世界に触れるよろこび」の中にいるラシュワンという子供ではないだろうか? ラシュワンの両親はインド人で、彼もこれからインドに帰るようだが、その子供が母語ではない「こんにちは!」ということばを繰り返すことでよろこびを感じている……。

「ことば」があるからこそ、「記憶し語りあい分かちあう」ことができる。そうして自分と他者との間や、自分を越えたたくさんの時間を大きな、一枚の布地として縫い合わせることができるのではないだろうか。作者の、ことばというものへの信頼が作品に温かみを添えているように思われてならない。

 

古川真人さんのデビュー作はこちら↓↓

縫わんばならん

縫わんばならん

 

 

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時間を引きずっている―エドワード・W・サイード『晩年のスタイル』

いつか自分も、自分の中にあるもので充足して同時に自分の作り上げた作品にも満足できる日というのが来るのだろうか、たとえば……晩年、とかに。でも、それがいつなのかということは主体が生きている間、明確に意識されることはきっとなくて、と、いうことはやはり一生足掻き続けることになるような気もする。巷で語られる「完成」した人生の嘘くささ。こういう「完成した人生の物語」のようなものはどうして作られるのだろうと考えた時、「あこがれ」ということが脳裏をよぎる。「完成」することに、「満たされる」ことに私はあこがれる。うっかり小説なんかを書くという人生を選んでしまったがために、引きずらなければならない思いを反芻するようにこの本を読んだ。

 

エドワード・W・サイード 著、大橋洋一 訳『晩年のスタイル』(岩波書店、2007年)

晩年のスタイル

晩年のスタイル

 

 

私にはどこかで書くというこの戦いを終わらせたいと、決着をつけたいと、そしてその先にある安穏とした時を過ごしたいという願いがある。この願いが「晩年」または老境の円熟という幻想を生み出すのかもしれない。しかし、本当に波風のたたないベタ凪の晩年なんかはどこにもなくて、きっと一生、いつ終わるのかわからない(けれども必ず終わりが来る)時に挑み続けなければならないのかもしれない。

 

エドワード・W・サイードという人はこの『晩年のスタイル』という本を完成させる前に亡くなってしまったそうだ。まえがきや序文によると、この書物は、死後残された論文やエッセイの原稿をまとめたものだとのことである。サイード存命中に完成をみなかった、ということ自体が何故と言われても明確な言葉にできないけれど、なんとも不思議な気がしてしまう。サイードもまた彼なりの「晩年性」を体現したのかもしれないなどと思うのはロマンチックに偏り過ぎだろうか。

本書の主題は晩年性(lateness)である。マイケル・ウッドによる序文によると「late」という語は微妙に推移する意味をもつという。それは約束を守れなかったという意味(「遅刻」)から自然環境の一時期という意味(「遅い」「後期」「晩期」)を経て、消滅した生命という意味(「亡き」「故」)まで多岐にわたる。

 

「lateなるものは、時間との単純な関係を名指しているのではない。それはいつも時間を引きずっている。それは時間を想起する方法である――時からずれていようが、時に適っていようが、過ぎ去っていようが。」

(本書、マイケル・ウッドによる序文、8頁より引用)

 

「晩年のスタイル」という用語はもともとアドルノによるようだが、本書に収められた著作の中でサイードは様々な芸術家の作品から「晩年性」を読みとっていく。「晩年性」とは表現の「円熟」ではない。サイードにとって「晩年性」とは「故国喪失(エグザイル)の形式」である。そしてその特権的な形式は「時代錯誤性(アナクロニズム)と変則性」である。現在のなかにありながらも、どこか奇妙に現在から浮いているもの。それ故に一般大衆に理解されないものもある。しかし、現在を越えて生き延びるものなのだ。

イードが読み取った「晩年性」の一例を簡単に列記しておこう。たとえばベートーヴェんの晩年の作品の難解さに見られる非和解性(一般に容認されたものからの自己追放)、ジャン・ジュネの押し付けられたアイデンティティへの抵抗、貴族であったジュゼッペ・とマージ・ディ・ランペドゥーサが、「死を宣告するところの古き秩序そのものの代表である」作品でもって大衆社会と複雑なつながりを持つジャンルに取り組んだこと、グレン・グールドがバッハの作品をインヴェンションし再構築することで、彼のピアノ演奏に劇的な新たな次元を付け加えていったことなどが書かれている(私の知識の浅さから読みきれたとは到底思えないので、間違えた理解をして読んでしまったところも多々あるかもしれない。特にオペラに関して言及している部分が多いのだけれど、オペラに馴染みがないためによく分からないまま流してしまった部分も多くある、ごめんなさい)。

 

時代遅れであったり、時に適っていたり、時代を先取りしすぎていたりするもの、それらを漠然と感知しながら我々は生きている。こうして時間を引きずりながら日常を営むわけだが、ある特定の物(芸術作品なり日常雑貨なり)をピックアップしてその物にどういう「時」が付随しているのかをじっと考えてみると、ひとつひとつの物事すべてが分厚い意味をもって生活を侵してくる。なんであれ、私は物事に意味を見出したいと思いながら書きつづける、しかしその意味が「確定」することはないのかもしれない。「確定」させてしまうことは、嘘くさいうすっぺらな「晩年の円熟」という幻想を志向するということだ。

……などと、自分が今までも今現在もこれからも置かれ続けるだろう不安定な心境を思うとぞっとしてしまう。「完成」や「円熟」や「満足」はない、けれどもこの記事は一応のところ、ここで終わらせなければならない。

 

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憑依? いつもと違う文体でお送りします、だって作者が否応なしにノリウツッテ来るんだもの。

気になっていた小説家の作品を、4月5月と縁がありようやく読む事ができた。

その小説家というのは笙野頼子という人で、名前くらいはうっすら聞いたことがあったが、実際にはなかなか読む事ができないでいた。で、どうして今年になって急に読み始めたかというと……? この国この社会? なんか最近様子がおかしくないですかね?

大きいメディアで報道されない何かが変な法律がある日突然「可決」されたりして「なになに? え? そんなの聞いてないんですけど?」みたいな謎の日々。そんな日々を送ってればそりゃあ文学で戦争を止めようとしている人がいるらしいと聞いたら、読んでみたくなるよね? 「戦争を止める?」いや、戦争まだ起きてないし起きるとも聞いてないんですけど? うーん、でも「戦争やりまーす」なんてテレビで宣言される頃にはもうけっこう人、死んでるんじゃない? もしかしたら今「戦前」なのかもしれない。いや、こんなことは全部杞憂だったならそれで良い。とにかく、笙野頼子という人は小説作品で戦争を止めようとしている。TPP反対の立場を作品内で明確に打ち出し、強烈な語りの技法を駆使して。文学に政治を持ち込むことについては、快く思う人とそうでない人がいるのは知っている。私もどちらかというと、文学と政治は切り離して暮らしていたい。だけれども、まあ、必要なこともある……という以前に、まず、笙野頼子という書き手の言葉選びのセンスが面白くて面白くて、ついつい読み進めてしまったのだ。たとえば、「政治の前に文学無効」なんていうことはよく言われる。文学なんて一体なんの役に立つのさ、という文脈で言われるこの言葉。こういう言葉を笙野頼子は作品の中で「豆腐の前に田楽無効」とか言いかえてみたりする(『植民人喰い条約 ひょうすべの国』収録の“姫と戦争と「庭の雀」”)。作品内で表明されている政治的な主義主張すべてに賛同するわけではないけれど(というか不勉強すぎて留保している事柄も多々あるのだけれど)、とにかく作者の言葉のセンスや語りのパワーに惹かれてしまうのだ。「語りのパワー」はもうハンパない。すごいマシンガントークだ。ずーっと力強い語り、三時間ぶっ通しで読んでいたら疲れ切ってへろへろになってしまう読者の私、これはこの作者にしか書けないものだと思った、あの衝撃。自由主義経済って市場原理って、思っていたより恐ろしい。「勝てるように頑張ればいいじゃん?」なんてかっこつけて言ってみてさ、勝てなくなったらどうするの? 喰われるね?「自己責任」で? おいおいおい。

 

さあ止まれ、今止まれ! 文学の前にこの戦前止まれ。そして「今こそ」文学は売国を報道する。だって新聞がろくに報道しないからね。それに今なら別に文学でなくっても例えば羊羹で止めたってなんとか止まるかもね。或いはフリーセルで止めようでも構わないけど。

笙野頼子「さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神」群像2017年4月号11頁より引用)

 

以下、私が読んだ二作品についてそれぞれ簡単に紹介しておきます。

 

笙野頼子『植民人喰い条約 ひょうすべの国』(河出書房新社、2016年)

ひょうすべの国――植民人喰い条約
 

 

この作品はTPP反対の立場で書かれたもので、書籍の帯をつけて書店に立てておくだけで「書店デモ」ができてしまうというシロモノ。ひとりの小説家ができる範囲のしかも最も効果の大きいデモ、たぶん最大規模のデモ(やはり小説家は小説で戦ってこそ、などと生意気にも思ってしまうのでした)。

しかしこの作品にはTPP反対という主張以上のことが盛り込まれている。

「ひょうすべの国」の「ひょうすべ」とは、「NPO法人ひょうげんがすべて」のこと。作品内では「表現の自由」を守るとか、なんだかそれっぽいことを言っている存在として設定されているけれど……? この「表現の自由」って何だろう? それは私達読者一般がなんとなく漠然と思い浮かべる表現の自由とは全く別物なのだ。このカギカッコがくせもので。作品内で守られる「表現の自由」とは、嘘つきの自由、搾取の自由、弱者虐待の自由、ヘイトスピーチの自由……etc. こんなものがまかり通るようになってしまったTPP批准後のニッホンという国の惨状とそこに生きるとある家族の悲惨を描いたディストピア小説。フィクションだからここまで書けた、だけれどフィクションだからって看過してしまっても良いのだろうか?

 

 

笙野頼子「さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神」(「群像」2017年4月号掲載)

群像 2017年 04 月号 [雑誌]

群像 2017年 04 月号 [雑誌]

 

 

この作者は戦争を止めようとしている。しかも「身辺雑記」で。

TPP反対や原発、戦争法案……etc. そして何よりマスコミがこれらの問題を一切報じなくなっているという事態。こういうことを作者は日常(難病を抱えた自身の生活、やはり病を抱える猫との日々、家に祀られている神様が語る猫と人間のそんな暮らし、小説や私小説というものについてまたは文学について考えた事柄、台所のこと)に落とし込んで描いていく。

私は単に「戦争反対」を叫ぶより「日常」を守りたいということを書く方が戦争を止める力を持つのではないか? と思っている。たいていの「戦争反対」はもう使い古されたものとして簡単に受け流されてしまう世の中。だからこそ、この作品が私小説の形式をとった「身辺雑記」である意義は大きいと思う。

 

要は健康な人間なら仕事の合間にするようなただの整理整頓をこの慢性病患者は無上の幸福感で「無事」やっているわけだ。ともかくまず台所の模様替えを済ませたいのさ。台所に猫と快適に住めるようにしたいと。人喰いに怯えながらも良く生きるべし、と。つまり連中の目的は搾取、略奪だから。ならば幸福でいる事も威嚇で復讐だ。

(37頁より引用)

 

関連リンク↓↓

 

www.bookbang.jp

 

 

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あみ子の暗い穴―今村夏子『こちらあみ子』

この本には「こちらあみ子」「ピクニック」の二編の小説が収められているが、今回ブログの記事では「こちらあみ子」を取り上げたいと思う。

ふだんはあまりこういうことは気にしないのだけれど、たくさんの人がこの小説に関心をもって読んでいるらしいので、以下、「こちらあみ子」という物語のネタバレが含まれますよ、と一応言っておこうと思う(と言っても、良い小説にネタバレも何も関係ないと思ってしまうのが私なのだが)。

 

今村夏子『こちらあみ子』(筑摩書房、2011年、文庫2014年)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

 ※なお、ブログ記事内の頁番号は単行本に依拠しています。

 

この小説の主人公は「あみ子」という女の子。

あみ子が友達のさきちゃんのために、すみれの花を採ってくる場面から始まる。これが小説における「現在」で、さきちゃんは竹馬に乗ってあみ子をたずねてくるのだが、その動きがまるで一歩も前進していないかのようにのろい。

 

友達を大切にしなくてはという思いがある。休日の度に顔を見せにやってくるさきちゃんはきっと、あみ子のことが好きなのだ。あみ子も同じように、さきちゃんのことが好きだ。

(前掲書、11頁より引用)

 

そうであるにも関わらず、作品の「現在」において、あみ子とさきちゃんは出会えない。前進しているように見えない竹馬と、祖母に呼ばれて家の中へ入って行くあみ子。さきちゃんがすみれの花を持ったあみ子のところへたどりつく前に小説は終わりを迎えてしまう。ちょっと切ない。この出会えないということが、あみ子が抱えてきた世界との折り合いのつけ方のわからなさ(または難しさ)を彷彿とさせる。出会えないけれど、でもあみ子は深刻に悩んではいない。さきちゃんは「当分ここへは辿り着きそうもない」(115頁)、たぶんそれでいいのだと思う。

さきちゃんは「あみ子の暗い穴」が好きらしい。

 

さきちゃんに「イーしてください」と言われればイーしてあげる。イーッと、口を横に広げるとのぞく、あみ子の暗い穴がさきちゃんのお気に入りだ。あみ子には前歯が三本ない。正確には、あみ子から見て真ん中二本のうち左側が一本と、その左一本、更に左がもう一本。

(前掲書、11頁より引用)

 

この「あみ子の暗い穴」をのぞくように(あるいはこの穴の由来を探るようにして)あみ子の過去が語られるのだが、そこにはあみ子の家族や友人に降りかかる様々な痛みが描かれる。あみ子は一言で言ってしまえば「変な子」だ。でもこの子に誠実に向き合おうとすればするほど、どこがどう変なのか説明できなくなってしまう。「生きにくい子」の物語だという先入観を持って読めばあみ子の痛みが強調されるだろうが、この作品ではむしろあみ子が周囲にもたらす痛みが淡々と描かれているように思う。あみ子は自分でも自覚できない「破壊力」を持っている。自覚がないのだから当然制御できない。

 

「好きじゃ」

「殺す」と言ったのり君と、ほぼ同時だった。

「好きじゃ」

「殺す」のり君がもう一度言った。

「好きじゃ」

「殺す」

「のり君好きじゃ」

「殺す」は、全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、同じようにあみ子の言葉だけがあみ子をうった。好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。好きじゃ、好きじゃ、好きじゃすきじゃす、のり君が目玉を真赤に煮えたぎらせながら、こぶしで顔面を殴ってくれたとき、あみ子はようやく一息つく思いだった。

(前掲書、96頁-97頁より引用)

 

あみ子は無自覚に人を傷つけてしまう、その結果、失われていく物があったり壊れていく関係性があったりするのだが、今度はそれがあみ子のこころを砕いてしまう。あみ子は自らの持つ「破壊力」に気がつけないまま、周囲を壊しつつ自らをも壊す。壊れたトランシーバーに向かって「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子」(104頁)と語りかける姿の切実さを、私はまだ言葉にできないでいるのだが、あみ子は自分が直面する出来事に意味を与えたいのかもしれない。どうしてそうなってしまうのか、わからないことをわかりたいのかもしれない。そう考えるとこの呼びかけは狂おしいほどに切なくて、愛おしい。

もしも、「あみ子の暗い穴」がのり君によってあけられなかったら、あみ子のこころはずっと砕け続けるしかなくなってしまう。ある意味で、この穴に救われているように感じるのはあみ子の「現在」の友達であるさきちゃんが「あみ子の暗い穴」を好きでいてくれるからだ。

 

単に「生きにくい子」の「生きにくさ」を描いた小説だとは思えない。というか「生きにくい子」であるかもしれないあみ子に、診断書みたいな障害の名前をつけて納得しようとしたり、学校ではいじめられ、家庭では疎外されるあみ子を「かわいそうな子」だと断定したりすることを小説は避けているように思う。自分自身の感情にさえ気がつけないあみ子はいじめられても傷つかない。あみ子の感情はあみ子にさえ断定できない。たぶんのり君にあけられた「あみ子の暗い穴」を通じて、近所に住む小学生のさきちゃんだけがあみ子の世界を覗くことができるのかもしれない。

 

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又聞きの人生―滝口悠生「高架線」(『群像』2017年3月号掲載)

今回は『群像』2017年3月号に掲載されていた、滝口悠生「高架線」という小説の感想を書いていきたいと思う。地上より高いところを電車が走る「高架線」。そこから風景を眺める瞬間を彷彿とさせるような、きゅうに目の前にパーッと小説全体が開けて見える瞬間には本当に感激した。とは言っても、私の住んでいる地域は高架線はおろか、電車すら走っていないのだけれど、そういう事実にぶちあたるたびに、ああ小説って経験を超えるんだな、と思ってしまう。なんとなく、高架線からみた風景を知っているような気にさせられるのだ。

この小説家の書く作品はどれも「語り」がおもしろく、気がつくと夢中になって読んでしまっている。作品の語り手たちは一体誰に向かってこんな面白い話をしてくれているのか、本当にあきれるくらい長々としゃべりまくっているのに面白い。

 

 

群像 2017年 03 月号 [雑誌]

群像 2017年 03 月号 [雑誌]

 

 

2017年9月30日追記:単行本が発売されました!

 

高架線

高架線

 

 

たいていの「長い話」はつまらない、途中で飽きてしまうものだ。たとえば自分の来し方なんか語るともう語り始めた時点で聞き手を飽きさせてしまう。

自分の人生を語ってみようと思って話し始めてみると不思議なことに誰の人生も似たり寄ったり、おかしい、自分の人生上の苦労や喜びはもっと個別的で具体的なもののはずなのに、どうして他の人が語る他人の話と似てしまうのだろう? ……というような経験はないだろうか? 自分の個別的で具体的なはずの人生がまるでテンプレートにはめられたような「よくある話」になってしまうということ。どうしてこんなことになってしまうのかと言えば「自分の人生を語る」という自分語りにはある一定の形式があるからではないだろうか? 自分の人生を語ってみよう、そう思った途端よほど慣れている人を除いて多くの人の頭の中には何年何月何日に、○○町に生まれて××という学校を卒業し、それからその後就職したり退職したりという職歴を語るか、または無職歴なんかを語ってみる、そこにどうしてそういう経歴になったのかという自分なりの理由づけを加えて……みたいなテンプレートが浮かんでくるからだ。しかし、こんなテンプレートに当てはめる意味はきっとない。こんな話型で語る人生なんて、みんな硬直してしまっている。

今回紹介する滝口悠生「高架線」という小説はこういう硬直というか、語ってしまうことで決定されてしまうような一般化を、面白く回避している。どのようにしてか? それはやっぱり「語る」ことで回避しているのだけれど、「語る」人間はいつの間にか他者の人生について語っているのだ。その語られた他者の人生がなんとなく繋がっていくとストーリーみたいなものが浮かび上がってくる。だけれど、語られた人物は読者の前に直接姿を見せることはほとんどない、これがこの小説の面白いところだと思う。私はそういう人物たちの語られた人生を「又聞きの人生」となんとなく呼んでいる。小説上とても大切なエピソードなのに、そこで語られる人物は読者の前にはいない。あくまで別の人物が見聞きし整理した「語り」を通して読者にもたらされる人生。だからどこまで「本当」なのかも実はよくわからない。

小説には冒頭に登場する新井田千一に始まり、七人の語り手が登場する。それぞれの立場からいろいろな人生の出来事を語り継いでいくという構成をとっている。もちろん前提として、語り手が自身の立場や来歴を語る部分はあるのだが、いつの間にか話がずれていき、別の人間について(あるいは突然映画のストーリーについて)語ってしまっているのである。語り手たちを繋ぐものは「かたばみ荘」という木造二階建ての古いアパートで、語り手たちのおしゃべりや語られる人生はここに凝集されていく。そういうことが可能なのは「かたばみ荘」に独特なシステムがあるからだ。「かたばみ荘」は仲介業者(アパートの管理会社)を通さないため家賃が3万円と安いのだが、仲介業者を通さないがために自分が退去をするときには次に入居する人物を大家(万田夫妻)に紹介しなければならない。

 

部屋には元住人の、そして代々の住人の暮らしの跡、傷だの、匂いだの、汚れだのが、至るところに残っていた。けれどそれらを残した住人たちも、辿っていけば、知り合いの知り合いの知り合い、ということになり、自分だけの部屋というよりは、自分たちの部屋、私たちの部屋と言いたかった。

(前掲書、10頁より引用)

 

互いに深い知り合いではないが、同じ部屋に住んだことがあるという、または住んだことがある人物の関係者であるといったゆるやかな連帯意識。

かたばみ荘の住人は、小説の中でこんなふうに移り変わる。

新井田千一→片山三郎→七見歩(三郎が失踪していた期間の家賃を肩代わりしていた。)→峠茶太郎。そしてどうも新井田よりずっと以前、1974年頃にかたばみ荘の住人であったという日暮純一。「かたばみ荘」というアパートの一室に流れた時間と、その上に乗っかっていた暮らしの変化。そういうものを見せていながら、住人がそのまま「語り手」ではなかったりする。上にあげた「かたばみ荘」の住人の中で読者の印象に強く残る片山三郎という人物は、小説の語り手として設定されていない。終始「語られている存在」である。失踪事件を起こして小説から姿を消し、電車の上り線と下り線でクロスするように描かれた後、気がつくとメインが下り線に乗っていった片山三郎となり、いつの間にやら秩父でうどんを打っている。そのうどん屋がなくなってしまってからはインドに行っていたりと、とにかく読者の前に直接現れない。

こんな具合に作品の「いま」「この」空間に決して現れない人物がけっこうたくさんいることに驚いた。片山三郎の他に、新井田の若い頃の文通相手で25歳の看護婦である成瀬文香、田村光雄、小夏、佐々木柚子子、松林千波……。彼(彼女)らが読者の前に出てきて自らの来歴を直接語ることはない(成瀬文香に関してはそもそも読者に印象づけられたイメージとして存在してさえいない)。だれもが別の人間の口から語られた存在として描かれている。だから読者が「又聞き」みたいにして知った彼らの人生が、まぎれもなく彼らの人生そのものかどうかはわからないし、そもそも問題ではない。大切なことは、こういう語りの構造によって表現された広がりだ。「かたばみ荘」のシステムが生み出したゆるい連帯と重なり合いながら、語りはどこまでも広がっていく。

小説の「語り」にとても意識的な作品だからこそ、「書かれなかった事柄」までぼんやりと浮かび上がらせることができる。この書かれなかった事柄、というのが読者の前に語り手として登場しない者たちの人生で私が「又聞きの人生」とでも呼びたくなった、確かな話ではないけれど、確かに存在しているらしい誰かの生きてきた時間と空間なのだ。

 

七見奈緒子です。三朗が失踪の顛末を話している間、私がうどんをすする音、ついでに鼻をすする音、熱くて汗をかいて、はーはーいっている音なども、ずっとしていた。

だいたいそのような成り行きだったのだけれど、もちろんこれは私が覚えている限りの話であって、三郎がその時話していた話とはきっと齟齬もある。話というのはそういうもので、人が違えば内容も変わる。立場が変われば言い分も変わる。

(前掲書、67頁)

 

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以下、読みながら私がTwitterに呟いていた雑感(メモ程度に)。↓↓

 

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人物の秘匿性 / 可能性の選択と抹消―カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』

二段組みで1000頁もある大長編小説『テラ・ノストラ』。この作品にはものすごく膨大な時間が流れている。時系列(直線的な時間理解)で整理して読めば、アステカ文明イエス・キリストが活動していた頃のローマ帝国、15~16世紀のスペインの「新大陸」発見という黄金期、それから、19世紀のメキシコ皇帝マクシミリアンに、20世紀に入ってから起きた様々な闘争(アメリカによるベラクルス占領)、スペイン内戦により犠牲になった者たちのための記念碑、そして1999年12月31日までの時間が詰め込まれていることがわかる。「トラテロルコの三文化広場」という場には3つの悲劇的な記念碑があり、それが現在のメキシコという場にかつて流れた時間を刻み付けている。

ただ単純に作品自体が「長い」というだけで、これだけの時間を描くことはできなかっただろう。これほど多くの時を作品内に収めるための方法として「人物の秘匿性」と「可能性の選択と抹消」ということについて考えてみたい。

 

三つの時間、過去、現在、未来の収斂。すべてが完結し、すべてが始まる。

(前掲書、736頁より引用)

 

■人物の秘匿性

 

この小説内で「セニョール」と書かれればたいていフェリペ二世のことをさし、「先代のセニョール」などと書かれていればフェリペ美王をさすことになっているのだが、小説のはじめのほう(第Ⅰ部 旧世界、「セニョールの足元」)の訳注にはこうある。

 

この小説でセニョールと称される人物はフェリペ二世をイメージしているが、歴史的人物としてではなく、ハプスブルク家の歴代の王を統合したような複合的な存在である

(前掲書、49頁訳注より引用)

 

「歴代の王を統合」?

読み始めた時にはなんのことかさっぱりわからなかったが、少しずつわかってくることは近親婚を繰り返したこの王家の血の濃さだ。それ故に王家には特徴的な顔の形質があり、何度か描かれているし、特に王の肖像画を描くことについて書かれているところでは強調されている。それに加えてフェリペ二世は様々な身体的な「欠陥」も受け継いでしまっているのだが、そういう「欠陥」だけでなくもっと大きな存在として王家的なものを受け継ぎ濃縮した存在なのである。そんなフェリペ二世は「セニョール」とハプスブルク王家の集合的存在として表記されている。

どの登場人物もそうであるが、この作品には人物の「個性」が強く描かれてはいないと思う。ある人物を書いても、それは何かもっと大きなものの表象であり、個別的具体的な役割を演じることはない(例えば勢子頭グスマンはコルテスの表象のような存在である)。この書き方のことを私は「人物の秘匿性」と言いたいのだけれど、例えばフェリペ二世は青年、中年、老年の三つの時代が描かれているのだが、「セニョール」と書かれているだけで本当にフェリペ二世の過去や現在が描かれているのか不安になってくる部分が多い。「セニョール」ではあるけれど、それが本当にフェリペ二世という一貫した個人史なのかどうか判然としない。敢えて直線的に描かないことで、この作品の特徴である「円環的時間」を描き得たのではないか、と思った。

王家の人々の肖像を描いたコインの描写も「人物の秘匿性」という点において印象深い。

1999年12月のポーロ・フェーボのエピソードに古いコインが登場する。

 

そなたがコルドバ革の長いケースを開けてみると、そこには白いシルクの下敷きの上に、古銭が収納されていた。そなたはそれを丹念に撫でまわしたせいで、すり減って見づらくなった、忘れ去られた王や王妃たちの肖像を一層すり減らしてしまった。

(前掲書、1059頁より引用)

 

そなたはいま一度、小銭箱を開けた。コインに刻印された、すり減って消えかかった横顔を見た。狂女王フアナ、フェリペ美王、慎重王と呼ばれたフェリペ二世、エリザベス一世、カルロス二世痴呆王、マリアーナ・デ・アウストリア(カルロス二世の母)、カルロス四世、メキシコのマクシミリアンとカルロータ、フランシスコ・フランコといった過去の亡霊たち。

(前掲書、1064頁より引用)

 

狂女王フアナが、まるで王家の過去未来を縦横に生き続けているような夢想的な描写、そして上記のような肖像のすり減ったコインのことを考えると、登場する人物たちは「転生」という明確な言葉で表現できるかは別として、なんとなく個別性を消された集合体として存続していくようなイメージが浮かんでくる。「遭難者」として登場する3人の青年たちが繰り返す、「一体自分は何者なのだろう?」という疑問によってさらにゆらぐ個別性が、人物たちの単なる個人史を超える範囲にまでイメージを膨張させている。「遭難者」のひとりが、先代のセニョールと重ね合わされたり。

 

 

■可能性の選択と抹消

 

狂女王フアナが、宮廷画家であるフリアン修道士に肖像画を書くように命じるこんな場面がある。少し長くなるが引用しよう。

 

――フリアン修道士、他の誰とも似ないように、世継ぎの王の像だとはっきり分かるように、描いておくれ。特にこの宮殿の寝所にこっそり忍び込むような、不届き者と似せてはなりませぬ。

 (中略)

――志操の強さですか、奥様? それを表現するにはさまざまな異なったかたちがあります。貴女様はどちらがお望みで? 青年のかつてのお姿か、今あるお姿か、あるいは将来のお姿でしょうか? また生まれた場所か、運命を決した場所か、それとも今ある場所でよろしいでしょうか? 奥様、どういった場所と時間において描きましょうか? 私の芸術はたいしたものではありませんが、貴女様がお望みの変化や組み合わせを取り入れることくらいは可能です。

(前掲書、326頁-327頁より引用)

 

肖像画」というものは、ある特定の個人そのものを描いたものではない。特に「王家の」ということになれば、そこには多くの選択があり、絵画に取り入れられるものと切り捨てられるものがかなり意図的に存在するはずだ。

「他の誰とも似ないように」という注文に対して、フリアン修道士の答えは「時間」と「空間」を変えるということだった。個別性の消された王家の肖像において、「他とは違う」ことを的確に表現するにはそうするしかないのだろう。「肖像画」はイメージであり、権力保持のため一貫した血筋というものを強調しようとすればするほど、どの肖像も似たものになっていく。

 

――理詰めでものを考えるべきだぞ、グスマン、何ゆえにわれわれは一連の事実のみを真実として受け入れたかじゃ、なぜならば、かかる事実が決して特異なものではなく、平凡でありふれたこと、飽きるほど繰り返される一連の筋立てのなかで、際限なく何度でも起きうることだ、ということをわれわれはわきまえているからじゃ。まさに際限なく何世紀にもわたって、かかる事実が数珠繋ぎとなって出てくるのを、わが鏡のなかに見てみるがいい、よく見るのじゃ。何ゆえにわれわれは幾多のイエス、幾多のユダ、幾多のピラトの中から、唯一、三人を選び出して、聖なるわれらの進行の物語としたのかということじゃ。

(前掲書、277頁より引用)

 

可能性の存在としては何人でも同じ人物がいる。だけれど我々の時間感覚においては、同一の瞬間にある特定の存在は「唯一」、たったひとりしかいない。だけれど本当は何人も何人もいる可能性としての存在の中から、ひとりひとり選び出して固定することで我々によく馴染のある時間感覚による一連の筋立てが完成する(この一連の筋立てとその理解の仕方が「物語」と呼ばれるものなのだろうと思う)。そして人々はこの筋立てで物事を理解したいと願う。

王家の肖像、何人も何人もいる歴々の王たちの時間の中で、自分がたったひとりの「自分」であるという信念があるとすれば、そこには確かな手ごたえとして可能性の選択と抹消の過程がある。何かを自分の物とし、別の何かを排除してこそ強固な「自分」が作られる。それが権力の誇示だとすれば、「セニョール」というハプスブルク家の集合の中で「フェリペ二世」という「自分」の存在はとても危ういものになるだろう。肖像画のところで述べた通り、時間と空間の組み合わせでしか、他と違う自分を作り上げることができないのだから。

「可能性」の存在(ありえたかもしれないもの)、選ばれなかった未来もあるということ、そういう「余白」みたいなものがあるからこそ、この作品は豊かなイメージを含んだ時間を広げていけるんじゃないか? と考えている。

 

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二重の円 / 唯一と多様―カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』

 

 

前回に引き続き、今回もカルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』を読んだ感想を書いていきたいと思う。

カルロス・フエンテス 著、本田誠二 訳『テラ・ノストラ』(水声社、2016年)

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■二重の円構造

 

 

この作品の構造が「円環」になっているということは、同じイメージが何度も反復されることや、「回帰」への志向を感じさせる記述があることから、小説を読み始めてかなり早い段階でわかってしまう。この「円環」構造についてはいろいろな人がいろいろなところで言及しているので割愛するけれど、今回私は作品を形作る円が「二重」になっているように思われてならないのでそのことを以下にまとめておく。

ふたつの円を仮定する。「大きな円」と「小さな円」。

この二重の円の上を作品内の時間は回っている。一つ目の「大きな円」とは例えば、ローマ帝国の時代から現在まで受け継がれている「呪い」(背中に十字、両足の指にはそれぞれ六本の指)の歴史、そしてそれが1999年12月31日で閉じられる世界であるようなこと。適切かどうかはわからないが、「繰り返される歴史」としての円環を考えることができると思う。世界史全体の反復だ。加えて、この作品で最も多く語られている新大陸発見前後の時間に人類は世界認識において、とても大きな発見をした。それは地球がまるい、ということだ。それ以前の人々は、船出をして大海原をどこまでも真っ直ぐに突き進んでもあるのは、海の終端であると信じていた。海面が滝のようになり、深い所へ落ち込んでいる、それが世界の終端だった。地理的にもはじまりがあり、終わりのある世界認識の中で人々は暮らしていたのだ。ところが、大航海時代になると、どうやら地球は平面ではなく、球体であり真っ直ぐに航海していっても世界の終わりには辿り着かない、いやもしかしたら一周して出発した地点へ戻って来るのではないか? という世界認識に切り替わっていった。これらが私の考える「大きな円」である。それに対して「小さな円」とは何か? というと、それはもっと個別的な物の円環で、言ってしまえば「大きな円」という世界の前提によって囲まれた世界の内部で生起する様々な反復だ。世界に存在する多くの個が描く輪のようなものとでも言おうか。たとえば、ハプスブルク王家の存続。

 

――(……)フェリペ、よく聞くのよ、私たちの王家が消滅することはありません。そなたのお父様はそなたの後を継ぐだろうし、お爺様はお父様を、曾爺様はお爺様を、という具合に、初代に至って誰もいなくなるまで継いでいくからよ、(……)そなたのもとにある以外をよく面倒をみるのよ、誰にも盗まれないようにしなさい、彼らこそそなたの子孫となるのだから。

(前掲書、310頁より引用)

 

私達が普通する世代の認識とは異なり、完全に逆行していて気味が悪いのだが、これも円環のなせる業だろう。一見すれば世継ぎのいないフェリペ二世はハプスブルク王家の終端になってしまいそうだが、狂女王フアナ(フェリペ二世の母親)によればそうならない。終端まで辿り着いたら今度は発端まで戻ればいい。そうして発端まで戻ったらまた終端まで進めばいい。始まりと終わりを繋ぐことで「永遠」を担保するという考え方はひとつの円を描いているように見える(終端→発端、この場合円を逆回りにめぐっていることになるが。こういう円環の逆回りは三十三階段にも見られる。昇って行けば「死」へ、地下墳墓へ下って行けば「生」へと向かうことになっている)。狂女王フアナと思われる語り手が別の時代(マクシミリアン一世)を語っていることから、何度も転生し、過去と現在と未来をめぐり続けているように感じられる部分もある。

他に「小さな円」として思いつくのは、フェリペ二世やセレスティーナ、ルドビーコといった主要な登場人物たちの「転生」とも言うべき個人的な反復だろう。セレスティーナに関してはその存在がはっきり「分岐」している。二人のセレスティーナが同じ時空間にそろって、それぞれの時の生へ分岐していくようにも読めるし、未来のセレスティーナ(魔女セレスティーナ)が過去のセレスティーナ(処女セレスティーナ)へ回帰していくようにも見える。不思議な場面だ。

 

少女は血塗られた石の上で転倒した。父親が少女を起こそうと走り寄った。その前にセレスティーナが駆け寄って少女の頭を撫で、手を差し出した。少女は涙をいっぱいためてセレスティーナの手に口づけした。少女が顔を上げると、子供っぽい唇にはセレスティーナの傷がくっついてしまった。セレスティーナは自分の手を見た。それはたしかに自分の手に違いなかった。穀物倉庫で行われた婚礼での、嬉しくも恥じらいを含んだ花嫁の手だった。すでに拷問の痕跡は消えていて、少女の唇には傷のタトゥーが輝いていた。

(前掲書、748頁より引用)

 

灰色の目、唇のタトゥーという特徴を他のセレスティーナへ受け渡すことで、新しいセレスティーナに個の生命を生き直させるのだろうか。新たなセレスティーナは、特徴を受け渡した旧いセレスティーナと同じ運命(同じ円)を辿るのかもしれないが、存在している時間は少しずつずれていく(このずれを伴って我々は1999年7月14日の「約束」を読む事になる)。こうして時間から時間へ旅をしているのかもしれない。

 

この作品には反復が非常に多いので、例を挙げ続ければきりがなくなってしまうからこの辺で切り上げるけれど、ひとまず私は世界を包むような「大きな円」とその内側で反復する「小さな円」的な存在の二重構造で小説が書かれているように思った。

 

■「唯一」と「多様」

 

死の霊廟たるエル・エスコリアル宮の建造を命じ、そこに歴々の王の遺体を安置したフェリペ二世が志向したのは、「不動の永遠性」であった。それは言い換えると「硬直した死の世界」といえるかもしれない。遺骸という硬直した存在、まるで時間が流れていないかのように延々と続くフェリペ二世の独白は読んでいて暗澹とした気持ちになる(この作品の、こうした独白による時間の停滞は読んでいて正直苦痛だった)。

「不動の永遠性」を保ち続けるために、フェリペ二世は「唯一」のものを尊ぶ。1であること、オリジナルしか存在しないという意味での「書かれたもの」へのこだわりだ。しかし、私たち読者はグーテンベルク活版印刷が15世紀に開始されたのを知っている。セルバンテスの『ドン・キホーテ』(後篇)の中に、印刷所を見学する遍歴の騎士ドン・キホーテが描かれているのを知っている。さらに彼の冒険が書かれ、印刷され、そして冒険のさなかにも広く読まれてしまうことを知っている。たくさんの複製が作られる中で読みの多様性が生まれ、唯一書かれたものを信奉する「信念の騎士」の存在がゆらぐのを知っている。

新世界の発見によって、「唯一」信奉されてきた現実がゆらぐ。「多様」な現実の前に、「唯一」の世界が崩れていく。小説の中でフェリペ二世はそういった現実に直面し、権威が少しずつ失われていく。唯一の世界が崩れた先には無数の、多様な世界が広がっている。フェリペ二世によって火炙りにされた「生命のミゲル」のあとに「三人の遭難者」が現れるのはなかなか象徴的なエピソードなのかもしれない。

 

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