言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

砂が書く、うつろい / たゆたい ―坂口恭平『現実宿り』

砂漠には行ったことがないけれど、よく海辺に行ってはどこから打ち上げられてきたのかさっぱりわからない倒木や、海藻やゴミの絡まり合ってできた山、それに人間が作った波除ブロックなんかに登って砂浜を眺めることがある。海辺の砂は、風に飛ばされていくというよりは波に洗われて沖へ引きずられていったり、また戻ってきたりを繰り返しているのかもしれない。そんなふうに決して一定のものとして固定されることのない浜辺の風景を見に行くことが私にとっての「現実宿り」なのだろうと思う。時に、本来はただそこにある風景としてあるだけの砂の模様に意味を与えてみたりもする。何故か、海や砂浜が私を呼んでいるような気がしたりもする。漂着物のひとつひとつに染みついた誰かの生活を恋しいとも思う。

今回ご紹介する本は、坂口恭平『現実宿り』(河出書房新社、2016年)。

 

現実宿り

現実宿り

 

 

こちらに詳しく掲載されているのですが、著者は単に雨を避ける避難所という意味にとどまらない日本語の「雨宿り」という言葉を不思議に思っていて、雨宿りをする時の軒先のような空間があれば現実に対する目も変化するのではないか? ということからこういうタイトルの作品が出来上がったそうだ。決してリアリズムの作品ではない。現実から横滑りしたような風景が本書には広がっている、本書の外側にも広がっている(ような余韻さえある)。

明確なストーリーのないこの作品はきっと読む人や読んだ時間、空間の違いによって見え方が大きく変わってくると思う。だから何度でも読みたいし、是非蔵書に加えたい一冊なのだ。私に見えたこの作品の風景を簡単に書いておこうと思う、たぶん数年後に読んだらまた印象も変わっているかもしれない。

 

「わたしたち」と、砂は語る。砂は人間のいなくなった砂漠にいる。忘れるということを忘れるくらいに、ごく自然に当たり前に存在している。ある時、砂は図書館を見つけて本を読むようになった。それから「書く」ということを知り、「忘れたくない」こともどうやらでてくる。だから書いている。「わたしたち」は書いているのだが、時々「わたし」としか言えない者が見た景色や歩いた町、経験した感情も書く。ある日突然、謎の手紙を受け取った人物がそれを見ている、玄関を出ると、訪ねてきた見知らぬ者に車に乗せられどこかへ連れされていく。ある日突然、弟だと名乗る(そしてその男は明らかに弟ではなく、日本人ですらない)人物から電話がかかってきてやっぱりどこか見知らぬ場所へ連れて行かれる。蜘蛛だった「おれ」は鳥に食べられる。そしてたぶん消化されながら千々にわかれていった「おれ」は「鳥の内臓」であったり、「鳥の目」であったりもする。鳥の目の「おれ」は蜘蛛だった頃の「おれ」を見ることもある。

 

おれは気持ちを鎮めるために目をつむった。いろんな風景が次々と通り過ぎ、ある景色で突然止まった。おれは蜘蛛だった頃にみていた鳥だった。おれを狙っていた。不思議なことにおれが狙われていると感じていたあの視線はおれのものだったんだ。

(前掲書、115頁より引用)

 

砂は風に飛ばされていく。しかし風に飛ばされてしまったものの視界も、自分の経験として感じている。だから、なんとなく読みながらこの作品に出てくる「わたしたち」(砂)以外の描写もみんな、砂の話に見えてくる。男も女も蜘蛛も鳥も鳥の目も、不思議なことにみんな砂に思えてくる、そして「わたしたち」は飛ばされていって色々なものになった砂の見る風景を書きつづける。「彼」が皿に触れ、その皿が割れて粉々になる。見るとただの砂が絨毯の上に散らばっている。その砂に触れながら「彼」はかつてそこで暮らしていたような気持ちになる。彼はそこへ向かおうとする、そして家族に黙ったまま家を出て生まれた場所へと帰っていった。森の夢へ向かうために何人かの人間が死んだ。そして死んだ人間たちはそのまま「わたしたち」に成り代わった。

砂は「森の夢」をみた。森はあったかもしれないし、なかったのかもしれない。ただ砂漠だけがそこにあった。そして砂、「わたしたち」はその全景であるのかもしれない、と同時に一粒一粒の存在であるのかもしれないし、風に飛ばされて何か別の生き物になっていくのかもしれない。そしてまた戻ってくるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 

作品全体がほとんど、砂の上に描かれたものであるかのように心もとなくうつろい、そのうつろいが風景になる。そういう風景をそのまま書こうとするときっとこういう作品になる。透明な文章、というのがこの作品を読み始めた時の最初の印象だった。あるものがそこに存在する理由(意味)というものを書かずに、あるものがそこに存在する風景がただ連綿と書かれた作品だと思う。

 

誰も漕いではいない。風は静かだ。しかし、波紋はまだ揺れていた。波紋にのって、わたしたちはどこかへ流されていった。水面にとどまるものもいた。わたしたちは森へ向かっていた。夢の中ではなかった。光がわたしたちに届いているのだから。わたしはまぶしさを感じた。光が頭蓋骨の中に届いた。その透明な世界を見ながら、わたしたちは今、自分たちが森へ向かっていることを目撃した。わたしたちは借り物でもなんでもなかった。仮の姿でもない。わたしたちは砂だった。ここは砂漠だ。どれもこれも砂だった。生き物は、ねっとりとした息を吐き出すと、魚のように水中へ逃げ去っていった。

(前掲書、195頁より引用)

 

ちなみに表紙や、一枚めくった先(画像参照)に書いてある文章にとても惹かれる。特に黒地の部分は、まるで砂の文字みたいだ。少し長くなるが引用して終わりにしたい。本当にこの本は読んだ時や場所、それを読んだ人によって随分印象が変わると思う。意味を求めるということとは違った読書というのは、ほとんどその文章の上をたゆたうようなことで、それがとても心地良い。

 

わたしたちが書いたことは、実は文字になっていない。どんどん消えていってしまっている。あなたに伝えたいことではなく、わたしたちはあなたと一緒に見ている風景をそのまま書こうとしている。一緒に見えたものだけを書こうとしている。あなたのおかげで、わたしたちは書いている。わたしたちはあなたがいないかぎり、書くことはない。わたしたちは息をしていない。だが、死ぬこともない。わたしたちは変わり続けている。わたしたちは砂である。わたしたちは砂であることを知っている。あなたに砂の言葉を伝えたいわけではない。あなたと同じ風景を見ていることを伝えたいのである。あなたがこの文字を読むとき、わたしたちは目の前に現れる。いま、わたしたちは書いている。しかし、今わたしたちはそこにいない。わたしたちはあなたがこの文字を読む時だけ、書いたものとしてここに現れる。

(前掲書、111頁より引用)

 

関連リンク↓↓

 

www.kawade.co.jp

www.bookbang.jp

 

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あみ子の暗い穴―今村夏子『こちらあみ子』

この本には「こちらあみ子」「ピクニック」の二編の小説が収められているが、今回ブログの記事では「こちらあみ子」を取り上げたいと思う。

ふだんはあまりこういうことは気にしないのだけれど、たくさんの人がこの小説に関心をもって読んでいるらしいので、以下、「こちらあみ子」という物語のネタバレが含まれますよ、と一応言っておこうと思う(と言っても、良い小説にネタバレも何も関係ないと思ってしまうのが私なのだが)。

 

今村夏子『こちらあみ子』(筑摩書房、2011年、文庫2014年)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

 ※なお、ブログ記事内の頁番号は単行本に依拠しています。

 

この小説の主人公は「あみ子」という女の子。

あみ子が友達のさきちゃんのために、すみれの花を採ってくる場面から始まる。これが小説における「現在」で、さきちゃんは竹馬に乗ってあみ子をたずねてくるのだが、その動きがまるで一歩も前進していないかのようにのろい。

 

友達を大切にしなくてはという思いがある。休日の度に顔を見せにやってくるさきちゃんはきっと、あみ子のことが好きなのだ。あみ子も同じように、さきちゃんのことが好きだ。

(前掲書、11頁より引用)

 

そうであるにも関わらず、作品の「現在」において、あみ子とさきちゃんは出会えない。前進しているように見えない竹馬と、祖母に呼ばれて家の中へ入って行くあみ子。さきちゃんがすみれの花を持ったあみ子のところへたどりつく前に小説は終わりを迎えてしまう。ちょっと切ない。この出会えないということが、あみ子が抱えてきた世界との折り合いのつけ方のわからなさ(または難しさ)を彷彿とさせる。出会えないけれど、でもあみ子は深刻に悩んではいない。さきちゃんは「当分ここへは辿り着きそうもない」(115頁)、たぶんそれでいいのだと思う。

さきちゃんは「あみ子の暗い穴」が好きらしい。

 

さきちゃんに「イーしてください」と言われればイーしてあげる。イーッと、口を横に広げるとのぞく、あみ子の暗い穴がさきちゃんのお気に入りだ。あみ子には前歯が三本ない。正確には、あみ子から見て真ん中二本のうち左側が一本と、その左一本、更に左がもう一本。

(前掲書、11頁より引用)

 

この「あみ子の暗い穴」をのぞくように(あるいはこの穴の由来を探るようにして)あみ子の過去が語られるのだが、そこにはあみ子の家族や友人に降りかかる様々な痛みが描かれる。あみ子は一言で言ってしまえば「変な子」だ。でもこの子に誠実に向き合おうとすればするほど、どこがどう変なのか説明できなくなってしまう。「生きにくい子」の物語だという先入観を持って読めばあみ子の痛みが強調されるだろうが、この作品ではむしろあみ子が周囲にもたらす痛みが淡々と描かれているように思う。あみ子は自分でも自覚できない「破壊力」を持っている。自覚がないのだから当然制御できない。

 

「好きじゃ」

「殺す」と言ったのり君と、ほぼ同時だった。

「好きじゃ」

「殺す」のり君がもう一度言った。

「好きじゃ」

「殺す」

「のり君好きじゃ」

「殺す」は、全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、同じようにあみ子の言葉だけがあみ子をうった。好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。好きじゃ、好きじゃ、好きじゃすきじゃす、のり君が目玉を真赤に煮えたぎらせながら、こぶしで顔面を殴ってくれたとき、あみ子はようやく一息つく思いだった。

(前掲書、96頁-97頁より引用)

 

あみ子は無自覚に人を傷つけてしまう、その結果、失われていく物があったり壊れていく関係性があったりするのだが、今度はそれがあみ子のこころを砕いてしまう。あみ子は自らの持つ「破壊力」に気がつけないまま、周囲を壊しつつ自らをも壊す。壊れたトランシーバーに向かって「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子」(104頁)と語りかける姿の切実さを、私はまだ言葉にできないでいるのだが、あみ子は自分が直面する出来事に意味を与えたいのかもしれない。どうしてそうなってしまうのか、わからないことをわかりたいのかもしれない。そう考えるとこの呼びかけは狂おしいほどに切なくて、愛おしい。

もしも、「あみ子の暗い穴」がのり君によってあけられなかったら、あみ子のこころはずっと砕け続けるしかなくなってしまう。ある意味で、この穴に救われているように感じるのはあみ子の「現在」の友達であるさきちゃんが「あみ子の暗い穴」を好きでいてくれるからだ。

 

単に「生きにくい子」の「生きにくさ」を描いた小説だとは思えない。というか「生きにくい子」であるかもしれないあみ子に、診断書みたいな障害の名前をつけて納得しようとしたり、学校ではいじめられ、家庭では疎外されるあみ子を「かわいそうな子」だと断定したりすることを小説は避けているように思う。自分自身の感情にさえ気がつけないあみ子はいじめられても傷つかない。あみ子の感情はあみ子にさえ断定できない。たぶんのり君にあけられた「あみ子の暗い穴」を通じて、近所に住む小学生のさきちゃんだけがあみ子の世界を覗くことができるのかもしれない。

 

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又聞きの人生―滝口悠生「高架線」(『群像』2017年3月号掲載)

今回は『群像』2017年3月号に掲載されていた、滝口悠生「高架線」という小説の感想を書いていきたいと思う。地上より高いところを電車が走る「高架線」。そこから風景を眺める瞬間を彷彿とさせるような、きゅうに目の前にパーッと小説全体が開けて見える瞬間には本当に感激した。とは言っても、私の住んでいる地域は高架線はおろか、電車すら走っていないのだけれど、そういう事実にぶちあたるたびに、ああ小説って経験を超えるんだな、と思ってしまう。なんとなく、高架線からみた風景を知っているような気にさせられるのだ。

この小説家の書く作品はどれも「語り」がおもしろく、気がつくと夢中になって読んでしまっている。作品の語り手たちは一体誰に向かってこんな面白い話をしてくれているのか、本当にあきれるくらい長々としゃべりまくっているのに面白い。

 

 

群像 2017年 03 月号 [雑誌]

群像 2017年 03 月号 [雑誌]

 

 

2017年9月30日追記:単行本が発売されました!

 

高架線

高架線

 

 

たいていの「長い話」はつまらない、途中で飽きてしまうものだ。たとえば自分の来し方なんか語るともう語り始めた時点で聞き手を飽きさせてしまう。

自分の人生を語ってみようと思って話し始めてみると不思議なことに誰の人生も似たり寄ったり、おかしい、自分の人生上の苦労や喜びはもっと個別的で具体的なもののはずなのに、どうして他の人が語る他人の話と似てしまうのだろう? ……というような経験はないだろうか? 自分の個別的で具体的なはずの人生がまるでテンプレートにはめられたような「よくある話」になってしまうということ。どうしてこんなことになってしまうのかと言えば「自分の人生を語る」という自分語りにはある一定の形式があるからではないだろうか? 自分の人生を語ってみよう、そう思った途端よほど慣れている人を除いて多くの人の頭の中には何年何月何日に、○○町に生まれて××という学校を卒業し、それからその後就職したり退職したりという職歴を語るか、または無職歴なんかを語ってみる、そこにどうしてそういう経歴になったのかという自分なりの理由づけを加えて……みたいなテンプレートが浮かんでくるからだ。しかし、こんなテンプレートに当てはめる意味はきっとない。こんな話型で語る人生なんて、みんな硬直してしまっている。

今回紹介する滝口悠生「高架線」という小説はこういう硬直というか、語ってしまうことで決定されてしまうような一般化を、面白く回避している。どのようにしてか? それはやっぱり「語る」ことで回避しているのだけれど、「語る」人間はいつの間にか他者の人生について語っているのだ。その語られた他者の人生がなんとなく繋がっていくとストーリーみたいなものが浮かび上がってくる。だけれど、語られた人物は読者の前に直接姿を見せることはほとんどない、これがこの小説の面白いところだと思う。私はそういう人物たちの語られた人生を「又聞きの人生」となんとなく呼んでいる。小説上とても大切なエピソードなのに、そこで語られる人物は読者の前にはいない。あくまで別の人物が見聞きし整理した「語り」を通して読者にもたらされる人生。だからどこまで「本当」なのかも実はよくわからない。

小説には冒頭に登場する新井田千一に始まり、七人の語り手が登場する。それぞれの立場からいろいろな人生の出来事を語り継いでいくという構成をとっている。もちろん前提として、語り手が自身の立場や来歴を語る部分はあるのだが、いつの間にか話がずれていき、別の人間について(あるいは突然映画のストーリーについて)語ってしまっているのである。語り手たちを繋ぐものは「かたばみ荘」という木造二階建ての古いアパートで、語り手たちのおしゃべりや語られる人生はここに凝集されていく。そういうことが可能なのは「かたばみ荘」に独特なシステムがあるからだ。「かたばみ荘」は仲介業者(アパートの管理会社)を通さないため家賃が3万円と安いのだが、仲介業者を通さないがために自分が退去をするときには次に入居する人物を大家(万田夫妻)に紹介しなければならない。

 

部屋には元住人の、そして代々の住人の暮らしの跡、傷だの、匂いだの、汚れだのが、至るところに残っていた。けれどそれらを残した住人たちも、辿っていけば、知り合いの知り合いの知り合い、ということになり、自分だけの部屋というよりは、自分たちの部屋、私たちの部屋と言いたかった。

(前掲書、10頁より引用)

 

互いに深い知り合いではないが、同じ部屋に住んだことがあるという、または住んだことがある人物の関係者であるといったゆるやかな連帯意識。

かたばみ荘の住人は、小説の中でこんなふうに移り変わる。

新井田千一→片山三郎→七見歩(三郎が失踪していた期間の家賃を肩代わりしていた。)→峠茶太郎。そしてどうも新井田よりずっと以前、1974年頃にかたばみ荘の住人であったという日暮純一。「かたばみ荘」というアパートの一室に流れた時間と、その上に乗っかっていた暮らしの変化。そういうものを見せていながら、住人がそのまま「語り手」ではなかったりする。上にあげた「かたばみ荘」の住人の中で読者の印象に強く残る片山三郎という人物は、小説の語り手として設定されていない。終始「語られている存在」である。失踪事件を起こして小説から姿を消し、電車の上り線と下り線でクロスするように描かれた後、気がつくとメインが下り線に乗っていった片山三郎となり、いつの間にやら秩父でうどんを打っている。そのうどん屋がなくなってしまってからはインドに行っていたりと、とにかく読者の前に直接現れない。

こんな具合に作品の「いま」「この」空間に決して現れない人物がけっこうたくさんいることに驚いた。片山三郎の他に、新井田の若い頃の文通相手で25歳の看護婦である成瀬文香、田村光雄、小夏、佐々木柚子子、松林千波……。彼(彼女)らが読者の前に出てきて自らの来歴を直接語ることはない(成瀬文香に関してはそもそも読者に印象づけられたイメージとして存在してさえいない)。だれもが別の人間の口から語られた存在として描かれている。だから読者が「又聞き」みたいにして知った彼らの人生が、まぎれもなく彼らの人生そのものかどうかはわからないし、そもそも問題ではない。大切なことは、こういう語りの構造によって表現された広がりだ。「かたばみ荘」のシステムが生み出したゆるい連帯と重なり合いながら、語りはどこまでも広がっていく。

小説の「語り」にとても意識的な作品だからこそ、「書かれなかった事柄」までぼんやりと浮かび上がらせることができる。この書かれなかった事柄、というのが読者の前に語り手として登場しない者たちの人生で私が「又聞きの人生」とでも呼びたくなった、確かな話ではないけれど、確かに存在しているらしい誰かの生きてきた時間と空間なのだ。

 

七見奈緒子です。三朗が失踪の顛末を話している間、私がうどんをすする音、ついでに鼻をすする音、熱くて汗をかいて、はーはーいっている音なども、ずっとしていた。

だいたいそのような成り行きだったのだけれど、もちろんこれは私が覚えている限りの話であって、三郎がその時話していた話とはきっと齟齬もある。話というのはそういうもので、人が違えば内容も変わる。立場が変われば言い分も変わる。

(前掲書、67頁)

 

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以下、読みながら私がTwitterに呟いていた雑感(メモ程度に)。↓↓

 

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人物の秘匿性 / 可能性の選択と抹消―カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』

二段組みで1000頁もある大長編小説『テラ・ノストラ』。この作品にはものすごく膨大な時間が流れている。時系列(直線的な時間理解)で整理して読めば、アステカ文明イエス・キリストが活動していた頃のローマ帝国、15~16世紀のスペインの「新大陸」発見という黄金期、それから、19世紀のメキシコ皇帝マクシミリアンに、20世紀に入ってから起きた様々な闘争(アメリカによるベラクルス占領)、スペイン内戦により犠牲になった者たちのための記念碑、そして1999年12月31日までの時間が詰め込まれていることがわかる。「トラテロルコの三文化広場」という場には3つの悲劇的な記念碑があり、それが現在のメキシコという場にかつて流れた時間を刻み付けている。

ただ単純に作品自体が「長い」というだけで、これだけの時間を描くことはできなかっただろう。これほど多くの時を作品内に収めるための方法として「人物の秘匿性」と「可能性の選択と抹消」ということについて考えてみたい。

 

三つの時間、過去、現在、未来の収斂。すべてが完結し、すべてが始まる。

(前掲書、736頁より引用)

 

■人物の秘匿性

 

この小説内で「セニョール」と書かれればたいていフェリペ二世のことをさし、「先代のセニョール」などと書かれていればフェリペ美王をさすことになっているのだが、小説のはじめのほう(第Ⅰ部 旧世界、「セニョールの足元」)の訳注にはこうある。

 

この小説でセニョールと称される人物はフェリペ二世をイメージしているが、歴史的人物としてではなく、ハプスブルク家の歴代の王を統合したような複合的な存在である

(前掲書、49頁訳注より引用)

 

「歴代の王を統合」?

読み始めた時にはなんのことかさっぱりわからなかったが、少しずつわかってくることは近親婚を繰り返したこの王家の血の濃さだ。それ故に王家には特徴的な顔の形質があり、何度か描かれているし、特に王の肖像画を描くことについて書かれているところでは強調されている。それに加えてフェリペ二世は様々な身体的な「欠陥」も受け継いでしまっているのだが、そういう「欠陥」だけでなくもっと大きな存在として王家的なものを受け継ぎ濃縮した存在なのである。そんなフェリペ二世は「セニョール」とハプスブルク王家の集合的存在として表記されている。

どの登場人物もそうであるが、この作品には人物の「個性」が強く描かれてはいないと思う。ある人物を書いても、それは何かもっと大きなものの表象であり、個別的具体的な役割を演じることはない(例えば勢子頭グスマンはコルテスの表象のような存在である)。この書き方のことを私は「人物の秘匿性」と言いたいのだけれど、例えばフェリペ二世は青年、中年、老年の三つの時代が描かれているのだが、「セニョール」と書かれているだけで本当にフェリペ二世の過去や現在が描かれているのか不安になってくる部分が多い。「セニョール」ではあるけれど、それが本当にフェリペ二世という一貫した個人史なのかどうか判然としない。敢えて直線的に描かないことで、この作品の特徴である「円環的時間」を描き得たのではないか、と思った。

王家の人々の肖像を描いたコインの描写も「人物の秘匿性」という点において印象深い。

1999年12月のポーロ・フェーボのエピソードに古いコインが登場する。

 

そなたがコルドバ革の長いケースを開けてみると、そこには白いシルクの下敷きの上に、古銭が収納されていた。そなたはそれを丹念に撫でまわしたせいで、すり減って見づらくなった、忘れ去られた王や王妃たちの肖像を一層すり減らしてしまった。

(前掲書、1059頁より引用)

 

そなたはいま一度、小銭箱を開けた。コインに刻印された、すり減って消えかかった横顔を見た。狂女王フアナ、フェリペ美王、慎重王と呼ばれたフェリペ二世、エリザベス一世、カルロス二世痴呆王、マリアーナ・デ・アウストリア(カルロス二世の母)、カルロス四世、メキシコのマクシミリアンとカルロータ、フランシスコ・フランコといった過去の亡霊たち。

(前掲書、1064頁より引用)

 

狂女王フアナが、まるで王家の過去未来を縦横に生き続けているような夢想的な描写、そして上記のような肖像のすり減ったコインのことを考えると、登場する人物たちは「転生」という明確な言葉で表現できるかは別として、なんとなく個別性を消された集合体として存続していくようなイメージが浮かんでくる。「遭難者」として登場する3人の青年たちが繰り返す、「一体自分は何者なのだろう?」という疑問によってさらにゆらぐ個別性が、人物たちの単なる個人史を超える範囲にまでイメージを膨張させている。「遭難者」のひとりが、先代のセニョールと重ね合わされたり。

 

 

■可能性の選択と抹消

 

狂女王フアナが、宮廷画家であるフリアン修道士に肖像画を書くように命じるこんな場面がある。少し長くなるが引用しよう。

 

――フリアン修道士、他の誰とも似ないように、世継ぎの王の像だとはっきり分かるように、描いておくれ。特にこの宮殿の寝所にこっそり忍び込むような、不届き者と似せてはなりませぬ。

 (中略)

――志操の強さですか、奥様? それを表現するにはさまざまな異なったかたちがあります。貴女様はどちらがお望みで? 青年のかつてのお姿か、今あるお姿か、あるいは将来のお姿でしょうか? また生まれた場所か、運命を決した場所か、それとも今ある場所でよろしいでしょうか? 奥様、どういった場所と時間において描きましょうか? 私の芸術はたいしたものではありませんが、貴女様がお望みの変化や組み合わせを取り入れることくらいは可能です。

(前掲書、326頁-327頁より引用)

 

肖像画」というものは、ある特定の個人そのものを描いたものではない。特に「王家の」ということになれば、そこには多くの選択があり、絵画に取り入れられるものと切り捨てられるものがかなり意図的に存在するはずだ。

「他の誰とも似ないように」という注文に対して、フリアン修道士の答えは「時間」と「空間」を変えるということだった。個別性の消された王家の肖像において、「他とは違う」ことを的確に表現するにはそうするしかないのだろう。「肖像画」はイメージであり、権力保持のため一貫した血筋というものを強調しようとすればするほど、どの肖像も似たものになっていく。

 

――理詰めでものを考えるべきだぞ、グスマン、何ゆえにわれわれは一連の事実のみを真実として受け入れたかじゃ、なぜならば、かかる事実が決して特異なものではなく、平凡でありふれたこと、飽きるほど繰り返される一連の筋立てのなかで、際限なく何度でも起きうることだ、ということをわれわれはわきまえているからじゃ。まさに際限なく何世紀にもわたって、かかる事実が数珠繋ぎとなって出てくるのを、わが鏡のなかに見てみるがいい、よく見るのじゃ。何ゆえにわれわれは幾多のイエス、幾多のユダ、幾多のピラトの中から、唯一、三人を選び出して、聖なるわれらの進行の物語としたのかということじゃ。

(前掲書、277頁より引用)

 

可能性の存在としては何人でも同じ人物がいる。だけれど我々の時間感覚においては、同一の瞬間にある特定の存在は「唯一」、たったひとりしかいない。だけれど本当は何人も何人もいる可能性としての存在の中から、ひとりひとり選び出して固定することで我々によく馴染のある時間感覚による一連の筋立てが完成する(この一連の筋立てとその理解の仕方が「物語」と呼ばれるものなのだろうと思う)。そして人々はこの筋立てで物事を理解したいと願う。

王家の肖像、何人も何人もいる歴々の王たちの時間の中で、自分がたったひとりの「自分」であるという信念があるとすれば、そこには確かな手ごたえとして可能性の選択と抹消の過程がある。何かを自分の物とし、別の何かを排除してこそ強固な「自分」が作られる。それが権力の誇示だとすれば、「セニョール」というハプスブルク家の集合の中で「フェリペ二世」という「自分」の存在はとても危ういものになるだろう。肖像画のところで述べた通り、時間と空間の組み合わせでしか、他と違う自分を作り上げることができないのだから。

「可能性」の存在(ありえたかもしれないもの)、選ばれなかった未来もあるということ、そういう「余白」みたいなものがあるからこそ、この作品は豊かなイメージを含んだ時間を広げていけるんじゃないか? と考えている。

 

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二重の円 / 唯一と多様―カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』

 

 

前回に引き続き、今回もカルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』を読んだ感想を書いていきたいと思う。

カルロス・フエンテス 著、本田誠二 訳『テラ・ノストラ』(水声社、2016年)

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前回記事↓↓

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■二重の円構造

 

 

この作品の構造が「円環」になっているということは、同じイメージが何度も反復されることや、「回帰」への志向を感じさせる記述があることから、小説を読み始めてかなり早い段階でわかってしまう。この「円環」構造についてはいろいろな人がいろいろなところで言及しているので割愛するけれど、今回私は作品を形作る円が「二重」になっているように思われてならないのでそのことを以下にまとめておく。

ふたつの円を仮定する。「大きな円」と「小さな円」。

この二重の円の上を作品内の時間は回っている。一つ目の「大きな円」とは例えば、ローマ帝国の時代から現在まで受け継がれている「呪い」(背中に十字、両足の指にはそれぞれ六本の指)の歴史、そしてそれが1999年12月31日で閉じられる世界であるようなこと。適切かどうかはわからないが、「繰り返される歴史」としての円環を考えることができると思う。世界史全体の反復だ。加えて、この作品で最も多く語られている新大陸発見前後の時間に人類は世界認識において、とても大きな発見をした。それは地球がまるい、ということだ。それ以前の人々は、船出をして大海原をどこまでも真っ直ぐに突き進んでもあるのは、海の終端であると信じていた。海面が滝のようになり、深い所へ落ち込んでいる、それが世界の終端だった。地理的にもはじまりがあり、終わりのある世界認識の中で人々は暮らしていたのだ。ところが、大航海時代になると、どうやら地球は平面ではなく、球体であり真っ直ぐに航海していっても世界の終わりには辿り着かない、いやもしかしたら一周して出発した地点へ戻って来るのではないか? という世界認識に切り替わっていった。これらが私の考える「大きな円」である。それに対して「小さな円」とは何か? というと、それはもっと個別的な物の円環で、言ってしまえば「大きな円」という世界の前提によって囲まれた世界の内部で生起する様々な反復だ。世界に存在する多くの個が描く輪のようなものとでも言おうか。たとえば、ハプスブルク王家の存続。

 

――(……)フェリペ、よく聞くのよ、私たちの王家が消滅することはありません。そなたのお父様はそなたの後を継ぐだろうし、お爺様はお父様を、曾爺様はお爺様を、という具合に、初代に至って誰もいなくなるまで継いでいくからよ、(……)そなたのもとにある以外をよく面倒をみるのよ、誰にも盗まれないようにしなさい、彼らこそそなたの子孫となるのだから。

(前掲書、310頁より引用)

 

私達が普通する世代の認識とは異なり、完全に逆行していて気味が悪いのだが、これも円環のなせる業だろう。一見すれば世継ぎのいないフェリペ二世はハプスブルク王家の終端になってしまいそうだが、狂女王フアナ(フェリペ二世の母親)によればそうならない。終端まで辿り着いたら今度は発端まで戻ればいい。そうして発端まで戻ったらまた終端まで進めばいい。始まりと終わりを繋ぐことで「永遠」を担保するという考え方はひとつの円を描いているように見える(終端→発端、この場合円を逆回りにめぐっていることになるが。こういう円環の逆回りは三十三階段にも見られる。昇って行けば「死」へ、地下墳墓へ下って行けば「生」へと向かうことになっている)。狂女王フアナと思われる語り手が別の時代(マクシミリアン一世)を語っていることから、何度も転生し、過去と現在と未来をめぐり続けているように感じられる部分もある。

他に「小さな円」として思いつくのは、フェリペ二世やセレスティーナ、ルドビーコといった主要な登場人物たちの「転生」とも言うべき個人的な反復だろう。セレスティーナに関してはその存在がはっきり「分岐」している。二人のセレスティーナが同じ時空間にそろって、それぞれの時の生へ分岐していくようにも読めるし、未来のセレスティーナ(魔女セレスティーナ)が過去のセレスティーナ(処女セレスティーナ)へ回帰していくようにも見える。不思議な場面だ。

 

少女は血塗られた石の上で転倒した。父親が少女を起こそうと走り寄った。その前にセレスティーナが駆け寄って少女の頭を撫で、手を差し出した。少女は涙をいっぱいためてセレスティーナの手に口づけした。少女が顔を上げると、子供っぽい唇にはセレスティーナの傷がくっついてしまった。セレスティーナは自分の手を見た。それはたしかに自分の手に違いなかった。穀物倉庫で行われた婚礼での、嬉しくも恥じらいを含んだ花嫁の手だった。すでに拷問の痕跡は消えていて、少女の唇には傷のタトゥーが輝いていた。

(前掲書、748頁より引用)

 

灰色の目、唇のタトゥーという特徴を他のセレスティーナへ受け渡すことで、新しいセレスティーナに個の生命を生き直させるのだろうか。新たなセレスティーナは、特徴を受け渡した旧いセレスティーナと同じ運命(同じ円)を辿るのかもしれないが、存在している時間は少しずつずれていく(このずれを伴って我々は1999年7月14日の「約束」を読む事になる)。こうして時間から時間へ旅をしているのかもしれない。

 

この作品には反復が非常に多いので、例を挙げ続ければきりがなくなってしまうからこの辺で切り上げるけれど、ひとまず私は世界を包むような「大きな円」とその内側で反復する「小さな円」的な存在の二重構造で小説が書かれているように思った。

 

■「唯一」と「多様」

 

死の霊廟たるエル・エスコリアル宮の建造を命じ、そこに歴々の王の遺体を安置したフェリペ二世が志向したのは、「不動の永遠性」であった。それは言い換えると「硬直した死の世界」といえるかもしれない。遺骸という硬直した存在、まるで時間が流れていないかのように延々と続くフェリペ二世の独白は読んでいて暗澹とした気持ちになる(この作品の、こうした独白による時間の停滞は読んでいて正直苦痛だった)。

「不動の永遠性」を保ち続けるために、フェリペ二世は「唯一」のものを尊ぶ。1であること、オリジナルしか存在しないという意味での「書かれたもの」へのこだわりだ。しかし、私たち読者はグーテンベルク活版印刷が15世紀に開始されたのを知っている。セルバンテスの『ドン・キホーテ』(後篇)の中に、印刷所を見学する遍歴の騎士ドン・キホーテが描かれているのを知っている。さらに彼の冒険が書かれ、印刷され、そして冒険のさなかにも広く読まれてしまうことを知っている。たくさんの複製が作られる中で読みの多様性が生まれ、唯一書かれたものを信奉する「信念の騎士」の存在がゆらぐのを知っている。

新世界の発見によって、「唯一」信奉されてきた現実がゆらぐ。「多様」な現実の前に、「唯一」の世界が崩れていく。小説の中でフェリペ二世はそういった現実に直面し、権威が少しずつ失われていく。唯一の世界が崩れた先には無数の、多様な世界が広がっている。フェリペ二世によって火炙りにされた「生命のミゲル」のあとに「三人の遭難者」が現れるのはなかなか象徴的なエピソードなのかもしれない。

 

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悪夢と数珠つなぎの呪い―カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』を読んで

この小説は「悪夢」に似ている。それをみている間、確かに私を支配していた秩序が、目覚めとともに支離滅裂になって霧散する。嘘くさいとか、あり得ないとか、そういう言葉で割り切ることができない確かに存在した「悪夢」であったはずなのに、そこにあった時間や空間の確かさ(恐怖や説得力)は目が覚めるとあっけなく崩れ落ちる。たとえば「悪夢」の中で「私」は一人じゃない。「私」を見ている「私」が出て来ることも、一貫性のない「私」が数珠つなぎになって現われることもある。それは「悪夢」に登場する他人にもいえる。

今回紹介する本は、カルロス・フエンテス 著、本田誠二 訳『テラ・ノストラ』(水声社、2016年)。

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長らく日本語訳が待ち望まれていたカルロス・フエンテスの長篇小説で、昨年はじめて日本語による完訳が出版された。1頁二段組みで1000頁を超える大著だ。今月はずっとこの本にかかりっきりになってしまっていた。全体が三部構成で、「第Ⅰ部 旧世界」「第Ⅱ部 新世界」「第Ⅲ部 別世界」より成る。語り手が一貫しておらず、「わし」「私」「お前」「そなた」「彼」「彼女」が入り乱れ、とても読みにくい。一体誰のことを語っているのだろう? と考えながら、そうして語のイメージからおそらくこの人物について語られているのだろうと見当をつけて、ひとつの筋をつかもうとするようにその人物を読もうとすると挫折する。同じ名前や特徴を持った人物は、あたかも別の時空間に何人も存在するかのように分岐し、しかもある部分ではその出来事が夢なのか小説内の現実なのか判然としなくなる。

 

広場は現代風のものに見える。遠近画法によって遥か遠くにかすんだように描かれた情景は、いったいいつの時代のものだろう。遠景は後光のないキリストと裸体の男たちが演ずる、聖なる劇場の前舞台のそれに呼応するかのように、輪となって遠いコーラスを響かせていたのだが。時間の中に消え失せたかのように、遠くに微細に描かれた情景。絵画空間における際立った遠近法のせいで、情景は遠ざかり、遥かな時間そのものと化している。

(前掲書、126頁より引用。セニョールが見ているオルヴィエートの絵画の描写であるが、この『テラ・ノストラ』という小説作品の全体について語っているように思えてならない。)

 

 

一応、小説の「あらすじ」のようなものを紹介してみるが、おそらくあまり意味がないだろう。小説は1999年7月14日のパリから始まり、同年12月31日で終わる。1999年を生きる隻腕のサンドイッチマンであるポーロ・フェーボはパリで起きる様々な異様な出来事を見ている。下宿管理人である90歳を超える老婆マダム・ザハリアの出産に立ち会う。子供は逆子で、「左右の足には各々六本の指、背中のくぼみに盛り上がった赤い十字」を持つ男の子であった。それから古い手紙を見つける、「そなたはその子をヨハンネス・アグリッパと名づけねばならない。」(25頁) 

ポーロ・フェーボがセーヌ川に落ちたところで1999年7月14日パリのエピソードは幕を閉じる。そしてここから先は、新大陸発見前後のスペイン(ハプスブルク家スペイン)が舞台となる。フェリペ二世(作中ではほとんどセニョールと表記される)を中心に妃であるイサベル(作中ではセニョーラと表記される)、先代の王であるフェリペ美王、その妃狂女王フアナ、宮廷に仕える勢子頭グスマンや年代記作家、宮廷画家をしている修道士などなど、様々な人物たちによって16世紀のスペインの暗黒面が語られる。かつてキリスト教異端者に加えた大虐殺、キリスト教会、ユダヤ人街、アラブ人街で三つの名前を持つ人物(おそらく古き良き時代、3つの文化が混淆していたスペインの象徴)が生きたまま火炙りにされる事件。「不動の永遠性」を志向するフェリペ二世は死の霊廟(エル・エスコリアル宮殿)の建設を命じ、そこに代々の王たち30人の遺体を安置する計画を進める。母である狂女王フアナは夫であるフェリペ美王の遺体を防腐処理して霊柩車に乗せ各地を遍歴し、息子の霊廟を目指す。ある時フェリペのもとに集まってきた3人の「遭難者」は、背中に十字、そして両足には各々六本の指を持っていた。3人のうちの一人が語る「新世界」の光景がそのまま小説の第Ⅱ部になっており、コンキスタドールによる新大陸進出がアステカ神話の世界を交えつつ描かれている。湖上都市テノチティトラン(アステカの首都、現在のメキシコシティに相当する)、トラテロルコ(メキシコの過去から現在に至る3つの時代を象徴する建物が並んでいる場所。メキシコの悲しい歴史の記念碑的場所で三文化広場と呼ばれる)という地名からその後のメキシコを彷彿とさせる。「忘却」の原理を巧みに用いながらイメージを膨らませ、とても長い時間を扱った様な語りだ。

第Ⅲ部別世界では再び、フェリペ二世を中心としたスペインに戻る。ここで明らかになるのは「左右の足には各々六本の指、背中のくぼみに盛り上がった赤い十字」という作中何度も繰り返される特徴の発端が実はローマ帝国ティベリウス帝の時代、イエス・キリストが活動していた頃)にまでさかのぼる、ということだ。これはあたかもローマ帝国から延々と引き継がれてきた「呪い」のようなもので、スペインを介し、メキシコにまで受け継がれてしまっていた。「呪い」は単線ではなく、メキシコに受け継がれるのと同時に世界各地にまで引き延ばされている。だからこそ、小説冒頭の1999年パリにも「左右の足には各々六本の指、背中のくぼみに盛り上がった赤い十字」を持つ子供が生まれているのだ。

 

――わたしはもっと謙虚な人間でした。目を開けたのは、三冊の本を読むためでした。遣り手婆さんの本と、憂い顔の騎士の本、それに色事師ドン・フアンのそれです。信じてください、フェリペ。本当にその三冊のなかにわれらの歴史の運命を見出したのですから。

(前掲書、1038頁より引用)

 

フェリペ二世という歴史上の人物、フエンテスによって創作された多くの人物に加え、スペイン文学の作品である『セレスティーナ』『ドン・キホーテ』『セビーリャの色事師と石の客人』の登場人物まで現われ、同一の空間で語る(ちなみにカフカの「変身」を思わせるテキストや、登場人物たちがどこか異なった存在に変身しているように見える描写がある。さらに後半、有名なラテンアメリカ文学の作品に登場する人物たちも現れる)。メキシコ皇帝マクシミリアン一世(1832-1867年)の即位と処刑、メキシコ最初のスペイン植民都市であるベラクルスが1914年に今度はアメリカによって占領されたことまで語られている。そしてフェリペ二世、セニョールの死と、彼自らが建造を命じた「死の霊廟」の三十三階段を昇ってゆく印象的なシーン、その果てに辿り着く1999年の≪死者の谷≫(マドリード近郊にあり、スペイン内戦でフランコ川の戦死者を追悼する大きな十字架が聳えている場所。スペインのために戦死した者たちのための、聖十字架の記念碑)。

 

引き離された二つの時間の一致。ひとつの人格を完成させ、ひとつの運命を完遂するためには、いくつかの生が必要なのだ。不死の人々は自らの死以上の長い生命をもっていた。しかしそなたの生命ほど長い時間を持つことはなかった。

(前掲書、1073頁より引用)

 

最後は再び1999年、隻腕のサンドイッチマンであるポーロ・フェーボが過ごすパリの12月31日。この作品の中で最も新しい時間はこの地点である。おそらく2000年はおとずれない、というかおとずれる前に小説は終わり、最後はこんなふうだ。

 

パリの教会に十二の金の音が鳴り響くことはなかった。しかし雪は止んだ。翌日には冷たい太陽が輝いた。

(前掲書、1079頁より引用)

 

雪が止み、印象的な太陽の輝き……あたかも冒頭の1999年7月14日に引き戻されるかのような余韻とともに小説は幕をおろす。

 

と、あらすじ(のようなもの)を書いただけでこの分量になってしまった。ブログ記事ひとつで終わらせたいところではあったが、続きは次回に持ち越しとしよう。次回以降は、もう少し作品の内容に踏み込んでみたい。たとえばこういうことを書こうと思っている。

「この作品に見られる二重になった円構造」「唯一のものと多様性」「人物の秘匿性」「可能性の選択と抹消」について。

カルロス・フエンテスはこの作品の枝分かれ的存在として『セルバンテスまたは読みの批判』という書物を著した。一元的な「読み」ではなく、多様な読み、「異端的読書」という可能性が、今われわれの住んでいる世界の認識を作っているのではないだろうか。汲めども汲み尽くせぬ長篇を前に、あれこれと考えるのもひとつの呪いかもしれない。

 

――そなたは千日と半分と申したな? しかし五十あるエピソードの二十とおりの話ということになると、半日分が足りないではないか。

――それは決して満たされることはありませんよ、フェリペ。半日分というのはこの本の無限の読者のことですから。人がこの本を読み終えると、もうひとりがその一分後に読み始め、それを読み終えると、また一分後に別の人間が読み始めるんです、それをずっと続けていくと、ウサギとカメの昔話のようになり、誰ひとり競争に勝つことができません。本は決して読み終えることができないのです、本は万人のものだからです。

(前掲書、839頁-840頁)

 

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たとえパパが平凡な茄子に見えても好きなんだからそれでいい―東宏治『トーベ・ヤンソンとムーミンの世界』

私はムーミンパパのことが大好きだ。

何故かといえば、自分の好きな人に「似ている」と言われたからだ。どうやら、傍から見ていると、私とムーミンパパは似ているらしい(体型は全然似ていないと主張しておきたい笑)。そう言われてみてから、ムーミン物語を読み返したり、キャラクターグッズをじっと眺めたりしてみて、はじめて気がつくことがいろいろあった。

ムーミン物語に登場するあのタイルストーブの形をした家の中には、意外と本というものがあるらしい。コミックスに登場するエピソードも含めるけれど、ムーミンたちは何か事あるごとに本を開いたりしている。それに、あの世界では本のほかにも記録として「ノートをつける」ことも習慣としてあるらしい。たとえばスノーク、フレドリクソン、ムーミンも何かを書こうとしているし、ムーミンママは「おばあさんの手帖」に残された記録を日常的に使っているようだ。

中でも「物書き」の属性を与えられたムーミンパパが何かを積極的に書いている姿というのは印象的だ。『ムーミンパパの思い出』という小説は、ムーミンパパが自らの半生を自伝的な「思い出の記」として書くという体裁で作品として成立している(でも、パパが書く文章はちょっとクサい。繰り返し語られるエピソードは繰り返される度に変形するし、そのおかげで矛盾を孕んだ記述が登場したりもする。ムーミンパパは語り手としては信用ならんやつなのである笑)。また「海の長編大作」を書こうとして挫折し、結果として「居心地のよいベランダがなつかしい」という心安らぐ小品を書くことにしたというエピソード(ムーミンコミックス第一巻に収録されている「ムーミンパパの灯台守」より)まである。小説版では、『ムーミンパパ、海へ行く』でせっせとノートをつけているパパの姿があった。

 

さて、前置きがだいぶ長くなってしまったが今回紹介する本は、おそらくムーミンシリーズが大好きな著者が、トーベ・ヤンソンムーミンシリーズ以外の作品(『彫刻家の娘』『ソフィアの夏』)も交えつつ、ヤンソンの姿勢やムーミンの魅力を語った書籍である。

 

東宏治『トーベ・ヤンソンムーミンの世界 ムーミンパパの「手帖」』(鳥影社、1991年)

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ムーミンの秘密の扉を初めて開ける

いま、ムーミンを読んでいる子供や若い人たちに

かつて、ムーミンを読んだパパやママたちに

そして、一度もムーミンを読んだことのない人々にムーミンの思いがけない面白さをそっと教えます。(帯文より)

 

スナフキンが何故こんなにも魅力的なのか、ムーミンママが何故こんなにも優しくしかも頼もしくさえ思えるのか、ちびのミイの皮肉や辛辣さがどうしてユーモラスに見えるのか? またフィリフヨンカや何人か登場するヘムレンさんたちのこと、「ちいさな」存在と大自然という世界観の中で展開する動物とのつきあい方、アニミズムとその昇華などトーベ・ヤンソンが深く感じていたと思われる事柄について、著者独特の切り口で紹介されている。

ちなみにこの本の著者によるとムーミンパパの個性は、少女ヤンソンやソフィア(ヤンソンの自伝的作品である小説『ソフィアの夏』に登場する)が好感を持つ大人の男性像、その魅力をどれも備えてはいるけれど、どれひとつ格好よく演じることができないという。

 

「これが、ムーミンパパのユニークさと平凡さの由来であると思う。つまり彼は、存在としてはユニークなのだが、能力としては平凡なのである。」(前掲書、165頁より引用)

 

日常を大切に生きようと思った時に、この平凡さが私をほっとさせるのかもしれない。そしてこの平凡さを自分の中に受け入れようと思った時にますますムーミンパパに親近感を抱くのかもしれない。それでどんどん好きになる。

 

気になる人もいるかもしれないから一応スナフキンについても書いておきたいと思う。

このキャラクターは本当にマイペースに生きている。ひとりで旅をして、テントで暮らし、毎年春になるとなんとなくムーミン谷に戻って来るけれど、秋にはさっさと旅に出てしまう。物事にこだわりがない。大切な持ち物は自分のハーモニカくらい。すごく優しいというわけじゃないけれど、穏やかな性格をしていて、さりげなく他人の気持ちに配慮することができる存在……。そんな穏やかな存在である彼が唯一感情を荒げるのが「看板」であり、スナフキンはどうしても許せない存在である「看板」(~すべからず、という禁止の看板)とは戦わなければいけなかったりする。……というのが私の「スナフキン観」であるが、この本の著者はこんな風に書いていた。

 

スナフキンが看板を嫌悪する理由を、ひとの自由を束縛することへの憤りだと、ぼくは前に説明したが、別の見方もできるのである。「立入禁止」とか「境界」を設ける看板や囲いなどは、ひとの自由の束縛であるとともに、看板を立てる側の人間の個人的な私有や独り占めをも意味しており、およそものの所有を嫌うスナフキンにとって許せないことなのである。

(前掲書、58-59頁より引用)

 

ムーミン作品を自分なりに何度も読んでいると、いつの間にか自分の中に独自の「ムーミン観」が根を下ろし始めていることに気がつく(そういう「押しつけがましい」ムーミン観をズバッと指摘してくれる『ムーミン谷の十一月』という小説は面白かった)。そうすると、自分以外の他の人の「ムーミン観」も気になりはじめて、時にはこういった書籍に手を伸ばしたくなる。そこで今まで気づいていなかったキャラクターの魅力に出会うこともあれば、真っ向から対立したくなることもあるのだ。

 

最近、ムーミンパパの丸っこい鼻の曲線と、シルクハットの黒さをじっとみていると、だんだんパパの顔の輪郭線が「茄子」に見えてくるんだよなあ……(ぼやき)。

 

 

ムーミンパパの「手帖」―トーベ・ヤンソンとムーミンの世界

ムーミンパパの「手帖」―トーベ・ヤンソンとムーミンの世界

 

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1991年鳥影社版の増補復刊。こちらのほうが入手しやすいと思います。