言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

二重の円 / 唯一と多様―カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』

 

 

前回に引き続き、今回もカルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』を読んだ感想を書いていきたいと思う。

カルロス・フエンテス 著、本田誠二 訳『テラ・ノストラ』(水声社、2016年)

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前回記事↓↓

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■二重の円構造

 

 

この作品の構造が「円環」になっているということは、同じイメージが何度も反復されることや、「回帰」への志向を感じさせる記述があることから、小説を読み始めてかなり早い段階でわかってしまう。この「円環」構造についてはいろいろな人がいろいろなところで言及しているので割愛するけれど、今回私は作品を形作る円が「二重」になっているように思われてならないのでそのことを以下にまとめておく。

ふたつの円を仮定する。「大きな円」と「小さな円」。

この二重の円の上を作品内の時間は回っている。一つ目の「大きな円」とは例えば、ローマ帝国の時代から現在まで受け継がれている「呪い」(背中に十字、両足の指にはそれぞれ六本の指)の歴史、そしてそれが1999年12月31日で閉じられる世界であるようなこと。適切かどうかはわからないが、「繰り返される歴史」としての円環を考えることができると思う。世界史全体の反復だ。加えて、この作品で最も多く語られている新大陸発見前後の時間に人類は世界認識において、とても大きな発見をした。それは地球がまるい、ということだ。それ以前の人々は、船出をして大海原をどこまでも真っ直ぐに突き進んでもあるのは、海の終端であると信じていた。海面が滝のようになり、深い所へ落ち込んでいる、それが世界の終端だった。地理的にもはじまりがあり、終わりのある世界認識の中で人々は暮らしていたのだ。ところが、大航海時代になると、どうやら地球は平面ではなく、球体であり真っ直ぐに航海していっても世界の終わりには辿り着かない、いやもしかしたら一周して出発した地点へ戻って来るのではないか? という世界認識に切り替わっていった。これらが私の考える「大きな円」である。それに対して「小さな円」とは何か? というと、それはもっと個別的な物の円環で、言ってしまえば「大きな円」という世界の前提によって囲まれた世界の内部で生起する様々な反復だ。世界に存在する多くの個が描く輪のようなものとでも言おうか。たとえば、ハプスブルク王家の存続。

 

――(……)フェリペ、よく聞くのよ、私たちの王家が消滅することはありません。そなたのお父様はそなたの後を継ぐだろうし、お爺様はお父様を、曾爺様はお爺様を、という具合に、初代に至って誰もいなくなるまで継いでいくからよ、(……)そなたのもとにある以外をよく面倒をみるのよ、誰にも盗まれないようにしなさい、彼らこそそなたの子孫となるのだから。

(前掲書、310頁より引用)

 

私達が普通する世代の認識とは異なり、完全に逆行していて気味が悪いのだが、これも円環のなせる業だろう。一見すれば世継ぎのいないフェリペ二世はハプスブルク王家の終端になってしまいそうだが、狂女王フアナ(フェリペ二世の母親)によればそうならない。終端まで辿り着いたら今度は発端まで戻ればいい。そうして発端まで戻ったらまた終端まで進めばいい。始まりと終わりを繋ぐことで「永遠」を担保するという考え方はひとつの円を描いているように見える(終端→発端、この場合円を逆回りにめぐっていることになるが。こういう円環の逆回りは三十三階段にも見られる。昇って行けば「死」へ、地下墳墓へ下って行けば「生」へと向かうことになっている)。狂女王フアナと思われる語り手が別の時代(マクシミリアン一世)を語っていることから、何度も転生し、過去と現在と未来をめぐり続けているように感じられる部分もある。

他に「小さな円」として思いつくのは、フェリペ二世やセレスティーナ、ルドビーコといった主要な登場人物たちの「転生」とも言うべき個人的な反復だろう。セレスティーナに関してはその存在がはっきり「分岐」している。二人のセレスティーナが同じ時空間にそろって、それぞれの時の生へ分岐していくようにも読めるし、未来のセレスティーナ(魔女セレスティーナ)が過去のセレスティーナ(処女セレスティーナ)へ回帰していくようにも見える。不思議な場面だ。

 

少女は血塗られた石の上で転倒した。父親が少女を起こそうと走り寄った。その前にセレスティーナが駆け寄って少女の頭を撫で、手を差し出した。少女は涙をいっぱいためてセレスティーナの手に口づけした。少女が顔を上げると、子供っぽい唇にはセレスティーナの傷がくっついてしまった。セレスティーナは自分の手を見た。それはたしかに自分の手に違いなかった。穀物倉庫で行われた婚礼での、嬉しくも恥じらいを含んだ花嫁の手だった。すでに拷問の痕跡は消えていて、少女の唇には傷のタトゥーが輝いていた。

(前掲書、748頁より引用)

 

灰色の目、唇のタトゥーという特徴を他のセレスティーナへ受け渡すことで、新しいセレスティーナに個の生命を生き直させるのだろうか。新たなセレスティーナは、特徴を受け渡した旧いセレスティーナと同じ運命(同じ円)を辿るのかもしれないが、存在している時間は少しずつずれていく(このずれを伴って我々は1999年7月14日の「約束」を読む事になる)。こうして時間から時間へ旅をしているのかもしれない。

 

この作品には反復が非常に多いので、例を挙げ続ければきりがなくなってしまうからこの辺で切り上げるけれど、ひとまず私は世界を包むような「大きな円」とその内側で反復する「小さな円」的な存在の二重構造で小説が書かれているように思った。

 

■「唯一」と「多様」

 

死の霊廟たるエル・エスコリアル宮の建造を命じ、そこに歴々の王の遺体を安置したフェリペ二世が志向したのは、「不動の永遠性」であった。それは言い換えると「硬直した死の世界」といえるかもしれない。遺骸という硬直した存在、まるで時間が流れていないかのように延々と続くフェリペ二世の独白は読んでいて暗澹とした気持ちになる(この作品の、こうした独白による時間の停滞は読んでいて正直苦痛だった)。

「不動の永遠性」を保ち続けるために、フェリペ二世は「唯一」のものを尊ぶ。1であること、オリジナルしか存在しないという意味での「書かれたもの」へのこだわりだ。しかし、私たち読者はグーテンベルク活版印刷が15世紀に開始されたのを知っている。セルバンテスの『ドン・キホーテ』(後篇)の中に、印刷所を見学する遍歴の騎士ドン・キホーテが描かれているのを知っている。さらに彼の冒険が書かれ、印刷され、そして冒険のさなかにも広く読まれてしまうことを知っている。たくさんの複製が作られる中で読みの多様性が生まれ、唯一書かれたものを信奉する「信念の騎士」の存在がゆらぐのを知っている。

新世界の発見によって、「唯一」信奉されてきた現実がゆらぐ。「多様」な現実の前に、「唯一」の世界が崩れていく。小説の中でフェリペ二世はそういった現実に直面し、権威が少しずつ失われていく。唯一の世界が崩れた先には無数の、多様な世界が広がっている。フェリペ二世によって火炙りにされた「生命のミゲル」のあとに「三人の遭難者」が現れるのはなかなか象徴的なエピソードなのかもしれない。

 

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悪夢と数珠つなぎの呪い―カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』を読んで

この小説は「悪夢」に似ている。それをみている間、確かに私を支配していた秩序が、目覚めとともに支離滅裂になって霧散する。嘘くさいとか、あり得ないとか、そういう言葉で割り切ることができない確かに存在した「悪夢」であったはずなのに、そこにあった時間や空間の確かさ(恐怖や説得力)は目が覚めるとあっけなく崩れ落ちる。たとえば「悪夢」の中で「私」は一人じゃない。「私」を見ている「私」が出て来ることも、一貫性のない「私」が数珠つなぎになって現われることもある。それは「悪夢」に登場する他人にもいえる。

今回紹介する本は、カルロス・フエンテス 著、本田誠二 訳『テラ・ノストラ』(水声社、2016年)。

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長らく日本語訳が待ち望まれていたカルロス・フエンテスの長篇小説で、昨年はじめて日本語による完訳が出版された。1頁二段組みで1000頁を超える大著だ。今月はずっとこの本にかかりっきりになってしまっていた。全体が三部構成で、「第Ⅰ部 旧世界」「第Ⅱ部 新世界」「第Ⅲ部 別世界」より成る。語り手が一貫しておらず、「わし」「私」「お前」「そなた」「彼」「彼女」が入り乱れ、とても読みにくい。一体誰のことを語っているのだろう? と考えながら、そうして語のイメージからおそらくこの人物について語られているのだろうと見当をつけて、ひとつの筋をつかもうとするようにその人物を読もうとすると挫折する。同じ名前や特徴を持った人物は、あたかも別の時空間に何人も存在するかのように分岐し、しかもある部分ではその出来事が夢なのか小説内の現実なのか判然としなくなる。

 

広場は現代風のものに見える。遠近画法によって遥か遠くにかすんだように描かれた情景は、いったいいつの時代のものだろう。遠景は後光のないキリストと裸体の男たちが演ずる、聖なる劇場の前舞台のそれに呼応するかのように、輪となって遠いコーラスを響かせていたのだが。時間の中に消え失せたかのように、遠くに微細に描かれた情景。絵画空間における際立った遠近法のせいで、情景は遠ざかり、遥かな時間そのものと化している。

(前掲書、126頁より引用。セニョールが見ているオルヴィエートの絵画の描写であるが、この『テラ・ノストラ』という小説作品の全体について語っているように思えてならない。)

 

 

一応、小説の「あらすじ」のようなものを紹介してみるが、おそらくあまり意味がないだろう。小説は1999年7月14日のパリから始まり、同年12月31日で終わる。1999年を生きる隻腕のサンドイッチマンであるポーロ・フェーボはパリで起きる様々な異様な出来事を見ている。下宿管理人である90歳を超える老婆マダム・ザハリアの出産に立ち会う。子供は逆子で、「左右の足には各々六本の指、背中のくぼみに盛り上がった赤い十字」を持つ男の子であった。それから古い手紙を見つける、「そなたはその子をヨハンネス・アグリッパと名づけねばならない。」(25頁) 

ポーロ・フェーボがセーヌ川に落ちたところで1999年7月14日パリのエピソードは幕を閉じる。そしてここから先は、新大陸発見前後のスペイン(ハプスブルク家スペイン)が舞台となる。フェリペ二世(作中ではほとんどセニョールと表記される)を中心に妃であるイサベル(作中ではセニョーラと表記される)、先代の王であるフェリペ美王、その妃狂女王フアナ、宮廷に仕える勢子頭グスマンや年代記作家、宮廷画家をしている修道士などなど、様々な人物たちによって16世紀のスペインの暗黒面が語られる。かつてキリスト教異端者に加えた大虐殺、キリスト教会、ユダヤ人街、アラブ人街で三つの名前を持つ人物(おそらく古き良き時代、3つの文化が混淆していたスペインの象徴)が生きたまま火炙りにされる事件。「不動の永遠性」を志向するフェリペ二世は死の霊廟(エル・エスコリアル宮殿)の建設を命じ、そこに代々の王たち30人の遺体を安置する計画を進める。母である狂女王フアナは夫であるフェリペ美王の遺体を防腐処理して霊柩車に乗せ各地を遍歴し、息子の霊廟を目指す。ある時フェリペのもとに集まってきた3人の「遭難者」は、背中に十字、そして両足には各々六本の指を持っていた。3人のうちの一人が語る「新世界」の光景がそのまま小説の第Ⅱ部になっており、コンキスタドールによる新大陸進出がアステカ神話の世界を交えつつ描かれている。湖上都市テノチティトラン(アステカの首都、現在のメキシコシティに相当する)、トラテロルコ(メキシコの過去から現在に至る3つの時代を象徴する建物が並んでいる場所。メキシコの悲しい歴史の記念碑的場所で三文化広場と呼ばれる)という地名からその後のメキシコを彷彿とさせる。「忘却」の原理を巧みに用いながらイメージを膨らませ、とても長い時間を扱った様な語りだ。

第Ⅲ部別世界では再び、フェリペ二世を中心としたスペインに戻る。ここで明らかになるのは「左右の足には各々六本の指、背中のくぼみに盛り上がった赤い十字」という作中何度も繰り返される特徴の発端が実はローマ帝国ティベリウス帝の時代、イエス・キリストが活動していた頃)にまでさかのぼる、ということだ。これはあたかもローマ帝国から延々と引き継がれてきた「呪い」のようなもので、スペインを介し、メキシコにまで受け継がれてしまっていた。「呪い」は単線ではなく、メキシコに受け継がれるのと同時に世界各地にまで引き延ばされている。だからこそ、小説冒頭の1999年パリにも「左右の足には各々六本の指、背中のくぼみに盛り上がった赤い十字」を持つ子供が生まれているのだ。

 

――わたしはもっと謙虚な人間でした。目を開けたのは、三冊の本を読むためでした。遣り手婆さんの本と、憂い顔の騎士の本、それに色事師ドン・フアンのそれです。信じてください、フェリペ。本当にその三冊のなかにわれらの歴史の運命を見出したのですから。

(前掲書、1038頁より引用)

 

フェリペ二世という歴史上の人物、フエンテスによって創作された多くの人物に加え、スペイン文学の作品である『セレスティーナ』『ドン・キホーテ』『セビーリャの色事師と石の客人』の登場人物まで現われ、同一の空間で語る(ちなみにカフカの「変身」を思わせるテキストや、登場人物たちがどこか異なった存在に変身しているように見える描写がある。さらに後半、有名なラテンアメリカ文学の作品に登場する人物たちも現れる)。メキシコ皇帝マクシミリアン一世(1832-1867年)の即位と処刑、メキシコ最初のスペイン植民都市であるベラクルスが1914年に今度はアメリカによって占領されたことまで語られている。そしてフェリペ二世、セニョールの死と、彼自らが建造を命じた「死の霊廟」の三十三階段を昇ってゆく印象的なシーン、その果てに辿り着く1999年の≪死者の谷≫(マドリード近郊にあり、スペイン内戦でフランコ川の戦死者を追悼する大きな十字架が聳えている場所。スペインのために戦死した者たちのための、聖十字架の記念碑)。

 

引き離された二つの時間の一致。ひとつの人格を完成させ、ひとつの運命を完遂するためには、いくつかの生が必要なのだ。不死の人々は自らの死以上の長い生命をもっていた。しかしそなたの生命ほど長い時間を持つことはなかった。

(前掲書、1073頁より引用)

 

最後は再び1999年、隻腕のサンドイッチマンであるポーロ・フェーボが過ごすパリの12月31日。この作品の中で最も新しい時間はこの地点である。おそらく2000年はおとずれない、というかおとずれる前に小説は終わり、最後はこんなふうだ。

 

パリの教会に十二の金の音が鳴り響くことはなかった。しかし雪は止んだ。翌日には冷たい太陽が輝いた。

(前掲書、1079頁より引用)

 

雪が止み、印象的な太陽の輝き……あたかも冒頭の1999年7月14日に引き戻されるかのような余韻とともに小説は幕をおろす。

 

と、あらすじ(のようなもの)を書いただけでこの分量になってしまった。ブログ記事ひとつで終わらせたいところではあったが、続きは次回に持ち越しとしよう。次回以降は、もう少し作品の内容に踏み込んでみたい。たとえばこういうことを書こうと思っている。

「この作品に見られる二重になった円構造」「唯一のものと多様性」「人物の秘匿性」「可能性の選択と抹消」について。

カルロス・フエンテスはこの作品の枝分かれ的存在として『セルバンテスまたは読みの批判』という書物を著した。一元的な「読み」ではなく、多様な読み、「異端的読書」という可能性が、今われわれの住んでいる世界の認識を作っているのではないだろうか。汲めども汲み尽くせぬ長篇を前に、あれこれと考えるのもひとつの呪いかもしれない。

 

――そなたは千日と半分と申したな? しかし五十あるエピソードの二十とおりの話ということになると、半日分が足りないではないか。

――それは決して満たされることはありませんよ、フェリペ。半日分というのはこの本の無限の読者のことですから。人がこの本を読み終えると、もうひとりがその一分後に読み始め、それを読み終えると、また一分後に別の人間が読み始めるんです、それをずっと続けていくと、ウサギとカメの昔話のようになり、誰ひとり競争に勝つことができません。本は決して読み終えることができないのです、本は万人のものだからです。

(前掲書、839頁-840頁)

 

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たとえパパが平凡な茄子に見えても好きなんだからそれでいい―東宏治『トーベ・ヤンソンとムーミンの世界』

私はムーミンパパのことが大好きだ。

何故かといえば、自分の好きな人に「似ている」と言われたからだ。どうやら、傍から見ていると、私とムーミンパパは似ているらしい(体型は全然似ていないと主張しておきたい笑)。そう言われてみてから、ムーミン物語を読み返したり、キャラクターグッズをじっと眺めたりしてみて、はじめて気がつくことがいろいろあった。

ムーミン物語に登場するあのタイルストーブの形をした家の中には、意外と本というものがあるらしい。コミックスに登場するエピソードも含めるけれど、ムーミンたちは何か事あるごとに本を開いたりしている。それに、あの世界では本のほかにも記録として「ノートをつける」ことも習慣としてあるらしい。たとえばスノーク、フレドリクソン、ムーミンも何かを書こうとしているし、ムーミンママは「おばあさんの手帖」に残された記録を日常的に使っているようだ。

中でも「物書き」の属性を与えられたムーミンパパが何かを積極的に書いている姿というのは印象的だ。『ムーミンパパの思い出』という小説は、ムーミンパパが自らの半生を自伝的な「思い出の記」として書くという体裁で作品として成立している(でも、パパが書く文章はちょっとクサい。繰り返し語られるエピソードは繰り返される度に変形するし、そのおかげで矛盾を孕んだ記述が登場したりもする。ムーミンパパは語り手としては信用ならんやつなのである笑)。また「海の長編大作」を書こうとして挫折し、結果として「居心地のよいベランダがなつかしい」という心安らぐ小品を書くことにしたというエピソード(ムーミンコミックス第一巻に収録されている「ムーミンパパの灯台守」より)まである。小説版では、『ムーミンパパ、海へ行く』でせっせとノートをつけているパパの姿があった。

 

さて、前置きがだいぶ長くなってしまったが今回紹介する本は、おそらくムーミンシリーズが大好きな著者が、トーベ・ヤンソンムーミンシリーズ以外の作品(『彫刻家の娘』『ソフィアの夏』)も交えつつ、ヤンソンの姿勢やムーミンの魅力を語った書籍である。

 

東宏治『トーベ・ヤンソンムーミンの世界 ムーミンパパの「手帖」』(鳥影社、1991年)

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ムーミンの秘密の扉を初めて開ける

いま、ムーミンを読んでいる子供や若い人たちに

かつて、ムーミンを読んだパパやママたちに

そして、一度もムーミンを読んだことのない人々にムーミンの思いがけない面白さをそっと教えます。(帯文より)

 

スナフキンが何故こんなにも魅力的なのか、ムーミンママが何故こんなにも優しくしかも頼もしくさえ思えるのか、ちびのミイの皮肉や辛辣さがどうしてユーモラスに見えるのか? またフィリフヨンカや何人か登場するヘムレンさんたちのこと、「ちいさな」存在と大自然という世界観の中で展開する動物とのつきあい方、アニミズムとその昇華などトーベ・ヤンソンが深く感じていたと思われる事柄について、著者独特の切り口で紹介されている。

ちなみにこの本の著者によるとムーミンパパの個性は、少女ヤンソンやソフィア(ヤンソンの自伝的作品である小説『ソフィアの夏』に登場する)が好感を持つ大人の男性像、その魅力をどれも備えてはいるけれど、どれひとつ格好よく演じることができないという。

 

「これが、ムーミンパパのユニークさと平凡さの由来であると思う。つまり彼は、存在としてはユニークなのだが、能力としては平凡なのである。」(前掲書、165頁より引用)

 

日常を大切に生きようと思った時に、この平凡さが私をほっとさせるのかもしれない。そしてこの平凡さを自分の中に受け入れようと思った時にますますムーミンパパに親近感を抱くのかもしれない。それでどんどん好きになる。

 

気になる人もいるかもしれないから一応スナフキンについても書いておきたいと思う。

このキャラクターは本当にマイペースに生きている。ひとりで旅をして、テントで暮らし、毎年春になるとなんとなくムーミン谷に戻って来るけれど、秋にはさっさと旅に出てしまう。物事にこだわりがない。大切な持ち物は自分のハーモニカくらい。すごく優しいというわけじゃないけれど、穏やかな性格をしていて、さりげなく他人の気持ちに配慮することができる存在……。そんな穏やかな存在である彼が唯一感情を荒げるのが「看板」であり、スナフキンはどうしても許せない存在である「看板」(~すべからず、という禁止の看板)とは戦わなければいけなかったりする。……というのが私の「スナフキン観」であるが、この本の著者はこんな風に書いていた。

 

スナフキンが看板を嫌悪する理由を、ひとの自由を束縛することへの憤りだと、ぼくは前に説明したが、別の見方もできるのである。「立入禁止」とか「境界」を設ける看板や囲いなどは、ひとの自由の束縛であるとともに、看板を立てる側の人間の個人的な私有や独り占めをも意味しており、およそものの所有を嫌うスナフキンにとって許せないことなのである。

(前掲書、58-59頁より引用)

 

ムーミン作品を自分なりに何度も読んでいると、いつの間にか自分の中に独自の「ムーミン観」が根を下ろし始めていることに気がつく(そういう「押しつけがましい」ムーミン観をズバッと指摘してくれる『ムーミン谷の十一月』という小説は面白かった)。そうすると、自分以外の他の人の「ムーミン観」も気になりはじめて、時にはこういった書籍に手を伸ばしたくなる。そこで今まで気づいていなかったキャラクターの魅力に出会うこともあれば、真っ向から対立したくなることもあるのだ。

 

最近、ムーミンパパの丸っこい鼻の曲線と、シルクハットの黒さをじっとみていると、だんだんパパの顔の輪郭線が「茄子」に見えてくるんだよなあ……(ぼやき)。

 

 

ムーミンパパの「手帖」―トーベ・ヤンソンとムーミンの世界

ムーミンパパの「手帖」―トーベ・ヤンソンとムーミンの世界

 

 ↑

1991年鳥影社版の増補復刊。こちらのほうが入手しやすいと思います。

島暮らしに必要な「冒険」への愛情―トーベ・ヤンソン『島暮らしの記録』

日本ではムーミン物語の作者としてすっかり有名なトーベ・ヤンソンにとって、「島暮らし」というのは幼い頃からの習慣であり、人生にとって欠かすことのできない期間であったらしい。訳者の解説によると、母親の腕に抱かれた赤ん坊の頃に滞在したブリデー島の別荘に始まり、自分で小屋を建てたクルーヴ島に別れを告げるまで八十年近く、毎年のように島で夏を過ごしてきたのだそうだ。

今回紹介するトーベ・ヤンソン『島暮らしの記録』という本を読んで、なるほど、と思った。ムーミン一家がよくボートに乗ってピクニックに行くことや、嵐の風力を数字で表現することや(この数字、ビューフォート風力階級表というのに基づいているらしい)、『ムーミンパパ、海へ行く』の舞台となる岩だらけの島が、作者の記憶や意識に深く根付いていたものだったらしいことがわかった。 

 

トーベ・ヤンソン著、トゥーリッキ・ピエティラ画、冨原眞弓訳『島暮らしの記録』(筑摩書房、1999年)

島暮らしの記録

島暮らしの記録

 

 

島。

小島(ホルメ)、岩礁(シェール)、島(ハル)、岩島(コッベ)、絶壁島(クラック)

この本に登場する「島」という表現がこれほど豊かなのは、それだけトーベ・ヤンソンにとって(あるいは北欧で暮らす人々にとって)島というものが身近であったことの表れだろう。

 

わたしは石を愛する。海にまっすぐなだれこむ断崖、登れそうにない岩山、ポケットの中の小石。いくつもの石を地中から剝ぎとってはえいやと放りなげ、大きすぎる丸石は岩場を転がし、海にまっすぐ落とす。石が轟音とともに消えたあとに、硫黄の酸っぱい臭いが漂う。

 築くための石、またはたんに美しい石を探す。モザイク細工、砦、テラス、支柱、煙突、もっぱら構築するのが目的の壮大かつ非実用的な構築物のために。秋には海がさらってしまう桟橋を築く。それならといっそう工夫を凝らして築いた桟橋も、やはり海は根こそぎさらっていく。

(前掲書、冒頭7頁より引用)

 

1964年秋、トーベ・ヤンソンはクルーヴ島(ハル)で小屋の建設を始める。この島は面積、六、七千平方メートル、縁を岩山で囲まれ、中央に溜り水をたたえる環礁だ。もちろん、たったひとりで大工作業をしたわけではなく、シェーブルムやブルンストレムという人が主に協力してくれたらしい。それから一緒に島暮らしをするトゥーティという人、母親のハム、猫のプシプシーナのことも書かれている。

 

島暮らしというのは、一見ロマンチックだ。都会暮らしに疲れた人々に自然を売りにした観光ツアーが好評なくらいなのだから。だけれど実際、自然はままならないことのほうが多い。だから、あまり書かれてはいないけれど、トーベ・ヤンソンの島暮らしは決して楽なものではないはずだ。何を築こうが、ある日突然、全く予測のできない海や風によって根こそぎ奪われてしまうなんてことも珍しくはない。私はこの「ままならなさ」にとても親近感を感じた。昔、東京や大阪などの大都市に出掛けた際、電車が10分程度おくれただけで人々は苛立ち、電光掲示板に繰り返し「お詫び」が表示されていたのを思い出す。田舎暮らしの自分にとって何でも思い通りになると信じている人々が恐ろしく見えた。こちとらバスが40分程度遅れることなどよくある(しかも40分待った上に実は天候上の理由で運休になっていた、ということもある)。苛立つ人もいるけれど、「仕方ない」と諦める人のほうが多いような気がする。というか、「ままならない」ことが普通だ。インターネットが当たり前になって、どんなに最新の「情報」が入って来ても、肝心の映画作品は地元には来ないし(上映されないし)、雑誌も発売日に店頭に並ばない。

島暮らしについて回る危険や、不便がとても近しく感じられる。

 

 わたしたちはかつて野原を中庭に、低灌木を公園に変え、橋やらなにやらで浜辺を手なずけようとした。もちろん、失策(へま)だらけだったとしても。

 まあ、人間には失策がつきものだ。だから、なんだというのか。

 ときには報われぬ恋をしている時のように感じ、万事がむやみに誇張される。度はずれに甘やかされ下手くそな扱いをされたこの島は生ける存在で、わたしたちを嫌っているか憐れんでいるかのどちらかである、と想像することもできよう。こちらの不作法のせいなのか、たんなる成りゆきなのかはいざ知らず。

(前掲書、101頁より引用)

 

生きていくということは、常に何かに干渉し続けることだと思う。その結果がどうなるのかは誰にもわからないし、わかることもないのかもしれない。ほんのちょっとしたことがきっかけで、ふいに驚くような光景が目の前に広がること、それが島暮らしに必要な「冒険」への愛情だろう。「ままならなさ」を引き受けることではじめて得られる静けさがこの本から感じられる。諦観とも違う、この静けさは心地良い。

 

 はしゃぐのに飽きてしまい、腰をおろして感覚を研ぎすます。海は右も左も見渡すかぎり真っ白だ。そのときはじめて完璧な静寂に気づいたのである。

 自分たちが声を低めて喋っていることにも。

(前掲書、59頁より引用)

 

この本を読みながら、以前読んだアン・モロウ・リンドバーグの『海からの贈物』という本を思い出した。

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この本は私にはあまりに綺麗すぎる印象があったのだが、トーベ・ヤンソンの提示する海や島の暮らしには、時に理不尽な荒々しさがあり、そのことがとても私を安心させるのだった。

丸っこい滑稽さ―ムーミン・コミックスを読んだはなし

ある時はカバに間違われて動物園の檻に収容されそうになったり(ムーミン・コミックス第3巻「ジャングルになったムーミン谷」)、

また別の時には動物愛護の名目で「かわいそうな」サーカスの動物たちを脱走させ、ムーミン屋敷で世話をするはめになったり、

さらに別の時、思い切りよく「冬眠」の伝統を打ち破ってみったり。

コミック版ムーミンでは、小説版のムーミンにはない「丸っこい滑稽さ」を存分に楽しむことができる。

 

以前このブログにムーミンの原作小説を読んだ感想を書いたが、今回はコミックスについてメモ程度に書いておきたいと思う。ムーミンは小説、コミック、絵本、アニメ、そしてたくさんのグッズが販売されていて色々な楽しみ方ができて良いなと思う。

 

 

私がたまたま手にしたムーミン・コミックスは以下の6冊だ。著者はトーベ・ヤンソンと弟のラルス・ヤンソン、訳者は冨原眞弓さんで、筑摩書房から2000年~2001年に出たものである。

 

ムーミン・コミックス第1巻 黄金のしっぽ』……「黄金のしっぽ」「ムーミンパパの灯台守」収録。

ムーミン・コミックス第2巻 あこがれの遠い土地』……「ムーミン谷のきままな暮らし」「タイムマシンでワイルドウエスト」「あこがれの遠い土地」「ムーミンママの小さなひみつ」収録。

ムーミン・コミックス第3巻 ムーミン、海へいく』……「ムーミン、海へいく」「ジャングルになったムーミン谷」「スニフ、心をいれかえる」収録。

ムーミン・コミックス第7巻 まいごの火星人』……「まいごの火星人」「ムーミンママのノスタルジー」「わがままな人魚」収録。

ムーミン・コミックス第8巻 ムーミンパパとひみつ団』……「やっかいな冬」「ムーミンパパとひみつ団」「ムーミン谷の小さな公園」収録。

ムーミン・コミックス第9巻 彗星がふってくる日』……「彗星がふってくる日」「サーカスがやってきた」「大おばさんの遺言」収録。

 

黄金のしっぽ ― ムーミン・コミックス1巻

黄金のしっぽ ― ムーミン・コミックス1巻

 

 

ムーミン・コミックス(全14巻セット)

ムーミン・コミックス(全14巻セット)

 

 

こう列挙してみてパッと、「あ、これ小説版で知っているエピソードだ!」と思えるものもいくつかある。灯台守や彗星という言葉にピンとくる人も多いはずだ。だけれど、単に小説の内容を同じように漫画にしたわけではなく、漫画表現の良さや面白さを際立たせるようなアレンジが加えられている。小説版には登場しないキャラクター(スティンキーやウィムジー、火星人などなど)も多数登場している。

漫画であることの面白さを存分に発揮していると思うのは、物語の始まりの1コマ目は私が見た限りではすべて「ムーミントロールの丸っこいお尻(しっぽ付き)」から描き出されている。すごくかわいい。読者に向かって「どうしよう」というようなことを語りかけてくるコマもあった。コマ割りの線が場面にあった植物になっているなど、コミックスでないとできない表現も楽しい見どころ。ひとつひとつ見ていくと本当に面白いのだ。

多くのムーミングッズのデザインがコミックスの1コマであったりするから、見たことのあるカットを見つけると嬉しくなる。ちなみに私が気に入っているムーミン関連グッズに、『ムーミン100冊読書ノート』(講談社、2016年)というのがあるのだけれど、この表紙絵は「ムーミン谷のきままな暮らし」(コミックス第2巻)の1コマだった。

 

ムーミン100冊読書ノート (講談社文庫)
 

 

 

スナフキン「なんだ そのしゃべりかたは?」

ムーミン「あのね この本によるとこれが……」

 (「ムーミン谷のきままな暮らし」コミックス第2巻より引用)

 

という台詞がついている。ムーミントロールが手にしている本のタイトルは『磁石のようにひきつける個性を得る方法』(?)らしい。ハウツー本的なものを片手に「男同士の気のおけない接しかた」だかを修得しようとしているムーミン。実はこの回、ムーミンたちみんながちょっとおかしいことになっている。ありのままの生活、よりも無理やりでっちあげた「義務」というものを果たそうと躍起になっているのだ。

 

はじめてコミックスを読んだ時にはその辛辣さに少し驚いた。小説版では作者トーベ・ヤンソンの語りが中和していたかもしれないキャラクターの辛辣さ。スニフの金の亡者ぶりはすごいし、権威や名声というものを風刺する作品群にはシニカルな笑いがある(私はそういうシニカルな笑いを理解するのにだいぶ時間がかかってしまうのだが)。

 

最後に印象に残ったフレーズをひとつ。

 

ムーミンママ「ねえ パパ 失われた青春は見つかったの?」

ムーミンパパ「ああ…じつをいうと一度も失ったことなどなかったかもな…」

ムーミン・コミックス8巻「ムーミンパパとひみつ団」より引用)

 

ひとまずここで暮らそうと思ったらまず家を建てるマイホームパパ的なムーミンパパ、しかし彼の中にはいつも新しい冒険を探す心があって、時々バクハツしてしまうのだ。その結果、ムーミン谷に様々なゴタゴタが発生するけれど、なんとなく丸くおさまる。おさまった時に振りかえってみると案外、年と共に失ったと思っていた好奇心や冒険心、青春時代に固有のわくわくした感じはあの頃と変わらず自分の中に残っていたのかもしれないと思える。このブログの管理人、年齢的に「ムーミンムーミン!」と騒ぐほど若くはない。だが、やはり、ムーミンは、かわいいのである。

ムーミンムーミン!!←笑

 

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風景の生まれる瞬間―磯﨑憲一郎『肝心の子供/眼と太陽』

さて、どういうわけなのか、2月は磯﨑憲一郎強化月間(?)になっており、ブログの更新もこの著者の作品についてばかりになってしまっているのだが、今回も懲りずに書いてみようと思う笑。今回は、磯﨑憲一郎のデビュー作(文藝賞受賞作)である「肝心の子供」を取り上げてみたい。なお今回読んだのは文庫版で、引用のページ番号などはすべて文庫版に拠っている。

 

磯﨑憲一郎『肝心の子供/眼と太陽』(河出文庫、2011年)

本書は2007年11月に刊行された『肝心の子供』と、2008年8月に刊行された『眼と太陽』を合本とし、文庫化したものです。

初出「肝心の子供」……『文藝』2007年冬号

  「眼と太陽」……『文藝』2008年夏号

  「特別対談」……『文藝』2008年春号

肝心の子供/眼と太陽 (河出文庫)

肝心の子供/眼と太陽 (河出文庫)

 

 

 

川岸近くの葦のなかに、一羽の白いサギがいた。馬が立ち止まって見ているので、ブッダも気になって、しばらくの間ふたりでそちらを見ていた。動かない静かなそれは、冬枯れの色のない背景に同化して、固まってしまったようにも見えたが、すると一瞬、するどく首を回して、くちばしを百八十度まで開いた、桃色の口腔の奥まで見せつけるというひとつながりの動作だけで、焦点とそのまわりの背景を反転させてしまった。もちろんありえないことなのだが、一羽の鳥の口の中に、冬の朝の渓谷というこの空間ぜんたいが入り込んでしまったかのような、そんな馬鹿げた印象をブッダに与えた。

(前掲書、10頁-11頁より引用)

 

この、何の変哲もない冬の朝に一瞬立ち現われる印象。たぶん、こういう一瞬は言葉にして捉えることができないだけで、実は日常のいたるところに転がっているのかもしれない。そしてそれら一瞬一瞬というのは、どういうわけか後々かけがえのない瞬間として想起されるのかもしれないし、特に思い出されることもなく、ただ人生全体の時間のほんの一部ということになるだけかもしれない(と、こう書いてみて前回「世紀の発見」について書いた時も似たようなことを書いたかもしれない。特に子供時代、ひとは誰もが名状しがたい一瞬を経験している、というような)。

この小説の概要を簡単に記しておく。

ブッダ、束縛という名の息子ラーフラ、孫のティッサ・メッテイヤ――人間ブッダから始まる三世代を描いた衝撃のデビュー作」(文庫本裏表紙より引用)

ブッダを題材にしているため、歴史小説のように感じる人がいるかもしれないので一応補足しておくが、これは歴史小説では全然なくて、むしろ現代的な感覚を描いた作品であると思う。ブッダにまつわる史実もいくらか含まれているらしいが、ほとんどが作者の創作である。だけれど、何故か説得力があって、ブッダは本当に描かれた風景を目にしたのではないか? と思えてくる。たぶん、精緻な描写が読者にそんな印象を抱かせるのだろう。

たとえばこんな描写もある。結婚記念に銀食器をもらったブッダがそれを見ている場面。

 

銀という金属の実物を、ブッダはそのとき生まれて初めて見た。磨き上げられたその輝きは、自然界にほんの一瞬だけ姿を現す非自然的な色彩、ハチドリが目の前をかすめて飛び去るときにちらと見せる羽の裏側や、砂漠を走り抜けるトカゲの陽を浴びた背中、真夏の満月のした沼面から飛び上がった雷魚の鱗、そういった色彩を切り取ったかのようだった。

(前掲書、15頁より引用)

 

先ほど引用したサギの桃色の口腔の奥もそうだが、この部分の描写も素晴らしい瞬間が切り取られている。銀という金属の輝きを描くのに持ち出される自然の一瞬の表情、まるで時間が停止したかのようにクローズアップして書かれる輝き。実際に眼で捉えることができない(少なくとも私にはできないし、たぶん誰も現在形で、ここまで精緻に自然を見ることはないと思う。)瞬間を読者の前に存在させてしまう力、そこが小説の面白さだとも思う。

この作品を一言で語るなら「個人の生のある瞬間の連なりが、大きな時間の流れをつくっているということ」という具合になるだろうか。ブッダラーフラ、ティッサ・メッテイヤという三世代や、鉄の歴史、虫の卵で生を繋ぐという発想、ヤショダラが大切にしている「生活」ということ、これら大きな流れで連続した時間(物語)を駆動させていくのだけど、しかしこうした大局の中にあっても、どうしても捨て去ることのできない個別的、具体的なものが個々の実感として確かに存在しているという手触りもまた、時間(物語)である。「個人の生のある瞬間の連なりが、大きな時間の流れをつくっているということ」は、時に「大きな時間の流れの中に、個人の生のある瞬間がかわすことができないほど強固に存在すること」というように反転する。焦点をどこにあてるかによって、この小説の見え方は変わって行く。「焦点とそのまわりの背景を反転」させてしまう。

「個人の生のある瞬間」と先ほどから書いているわけだが、それは具体的にどういうものかというと、たとえば「風景」なのだ。それは自然であったり、人間が作りだしたもの(特にブッダの居城の描写が私は好きだ)だったり、自分の子供が風景のように見えてしまうことだったり、子供に対してもステレオタイプ的な赤ん坊像を明確に否定し、あくまでブッダは(あるいはラーフラには)こう見えたんだ、ということを書いていく。この個別性、具体性がとても重要なのだと思う。ちなみにラーフラ(束縛の名をもつブッダの息子)にはこういう個々の出来事を忘却することができない、という設定が付される。

 

未来へ進めば進むほど、その分だけ大きくなった過去へと退行し、ずるずると底なしに引き込まれて行く、彼の人生は反する二方向への股裂きのような感があった。

(前掲書、50頁より引用)

 

忘れられないということは、それだけ過去が圧し掛かってくるということでそういうものに「束縛」されながら生きていくということなのだ。

 

登場人物が一瞬見たらしい風景の描写、その微細なひとつひとつの言葉に捕まってしまうかのように、この小説は読者によってゆっくりと読まれていくものだと思う。言葉のひとつひとつに「束縛」されながら、それでも時間は進んでいく。具体が時間を押し進める、この本を読んだ時に不思議な時間感覚を味わったのだけれど、それは言葉や風景に捕まったままでそれでも何処かへ進んでいくという、その不思議さだったのかもしれない。

 

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キャプション以前の―磯﨑憲一郎『世紀の発見』

この小説は私にとって、どういうわけだかひどく思い出深いものなのだ。本当に大好きな本であるにも関わらず長い間所有することはなく、そうであるにも関わらず何故か何度も読み返しており、どこで読み返したのかと考えていると実にいろいろな町の図書館の閲覧室で読んでいたことに思い至る。そうして開くたびに、「意味付けなどいっさい拒否するただそれが起こったままにしか語れない不思議な出来事」に遭遇してきた。確かに、こういう感覚ってあるよな、などと思いつつ。
今回は2012年に出た河出文庫版をようやく買って手に取っている。単行本は2009年6月に河出書房新社より刊行されていた。「世紀の発見」(初出「文藝」2008年冬季号)と「絵画」(「群像」2009年5月号)という二つの作品がおさめられている。

 

磯﨑憲一郎『世紀の発見』(河出文庫、2012年)

 

世紀の発見 (河出文庫)

世紀の発見 (河出文庫)

 

 


今回ブログでは私が礒﨑作品で特に好きな「世紀の発見」について書いていきたい。

 

 

子供の頃、誰もが「世紀の発見」と言っても過言ではないような事柄に遭遇しているはずで、それは夏の夕方土手で普段見慣れている在来線とは違う、どこか風景から浮いた異質さを感じる黒くて巨大な機関車を見たことだったり、池でマグロのような大きさのコイをみたことだったりする。近所のよく知っている森(それも冬)にラフレシアが隠されていると信じることや、ふと立ち止まった場所に名状しがたい光景を見てしまったり、一緒にいたはずの友人Aが消えてしまったり。そういうこと――大人になってしまえば「不思議だったなぁ」という一言でくくれてしまうような出来事――が当たり前のように毎日おきていた。大人になってから思えば「奇妙な連続」と言いたくなるような毎日が子供時代だったのかもしれない。そういう時間の流れにおいて説明なんて一切が無意味なのだった。
「お母さん、今日こんなことがあったんだ」と報告したいと思うと同時に、しかしこの発見は誰にも言ってはならないものなのだという気もするし、そういえばこんなことがあったな、と大人になってから出来事に意味付けをして想起する自分もいる。しかし、その大人になった自分よりももっと先に、母だけが何もかもすべてを、「奇妙な連続」としか思えない子供時代の出来事すべてを知っていたのではないか? いや、もっと言えばすべて母が仕組んでいたのではないか? 主人公は自分の母親についてこんなことを思っている。

 

「強いていうならば、ずっと先の時間からいま現在を見下ろしているような、有無をいわせぬ、妙に抗しがたい力なのだ。」(前掲書、31頁ー32頁より引用)

 

報告したいことはすべて、すでに母が知っていることではないのか? あの子供の自分がした大発見も何もかも、母はすべてもっと先の時間から見下ろすようにすべて知っていたのではないだろうか?
そうなると唯一あるものが「母の報告」だけではないかと思い至った主人公は最後に仕立屋をしていた母が毎日レジの隅で書き留めていたメモを確認しようとするのだが、タクシーはどういうわけか仕立屋に辿り着くことができない。結局途中で車をおろされた場所が、かつて友人が消えたあたりで今は「古墳公園」として整備されている場所だった。そして、その古墳の説明の看板(キャプション)でこの小説は閉じられている。キャプションが説明、ということならば、この作品は説明として書かれる以前の、なんの意味付けもない出来事の連続を描いている。本来、出来事の連続には何の意味もない、しかしそこに何らかの意味与えたくなるのが人間のひとつのありようかもしれない。

私が今回この小説を読んで感じたことを率直に書いてみるとこうなる。ブログに書いてみることで一体だれに報告しているのだろうか、あるいは報告したいのだろうか。これが小説である以上、書いた人間(作者)がいるわけで、仮に作者に報告したとしても作者ははじめからみんな知っているのかもしれない……なんて考えていたら読んだり書いたりする行為というのはつくづく不思議なものだなと思えてきた(とかいうことを実ははじめから考えてこの文章を始めたわけではなかったから不思議だ)。あと何回、この作品を読むのかわからない、あと何回、この作品について語るのかわからない。だけれども、たぶんまたいろんな風景の中で過去にも未来にも、この本を開いている自分が見えるような気がする。この作品にはそういう魅力があると思う。

最後にひとつだけ引用。

 

「つまり俺は、誰のものでもある、不特定多数の人生を生きているということだな」しかしそれは自嘲などと呼ぶには程遠い、じつは奇妙な達成感だった。そう感じることによって、彼は長い回り道をしたあとでようやく人生の軌道に戻ってきたような安堵感に浸っていた。
(前掲書、91頁より引用)