言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い』を読んで考えたこと

昨年末から年始にかけて、しばらくスーザン・ソンタグ著作を読んできたわけだが、今回の更新で一旦終わりにしたいと思う。今回は『隠喩としての病い』を読んで考えたことをまとめておきたい。

 

スーザン・ソンタグ 著、富山太佳夫 訳『隠喩としての病い』(みすず書房、1982年)

隠喩としての病い

隠喩としての病い

 

 

私の書いてみたいのは、病者の王国に移住するとはどういうことかという体験談ではなく、人間がそれに耐えようとして織りなす空想についてである。実際の地誌ではなくて、そこに住む人々の性格類型についてである。肉体の病気そのものではなくて言葉のあやとか隠喩(メタファ)として使われた病気の方が話の中心である。私の言いたいのは、病気とは隠喩などではなく、従って病気に対処するには――最も健康に病気になるには――隠喩がらみの病気観を一掃すること、なるたけそれに抵抗することが最も正しい方法であるということだが、それにしても、病者の王国の住民となりながら、そこの風景と化しているけばけばしい隠喩に毒されずにすますのは殆ど不可能に近い。そうした隠喩の正体を明らかにし、それから解放されるために、私は以下の研究を捧げたいと考えている。

(前掲書、5頁-6頁より引用)

 

この本は著者が自分自身の癌体験から着想を得て書いたものらしい。しかしこれは単なる闘病記ではなく、著者自身の体験が書かれているわけではない。病気そのものというよりは病気に付された隠喩(メタファ)について、主に結核と癌を素材に考えた事柄が綴られている。これまでの文学作品や思想において、結核や癌がどのように書かれてきたか、具体例を交えながらその病に付された隠喩や変遷を辿っている。

たとえば私達がよく知っているいわゆる「サナトリウム小説」。サナトリウムとは、空気の綺麗な高原などに作られた結核療養所をさすことが多いが、そこで繰り広げられる男女の儚くも美しい恋愛物語……。この物語が可能なのは、ロマン主義者たちが結核という病にある隠喩を与えたからだ。つまり「つまり、下卑た肉体を解体し、人格を霊化し、意識を拡げる結核による死を利用したのである。結核をめぐる空想を通して死を美化することができた。」(前掲書、28頁より引用)肉体の病というよりは、精神または魂の病という隠喩を与えられた結核は文学の題材として好まれることになるようだ。逆に徹底して肉体の病とされた癌のほうに霊性が付与されることはなく、素材として忌み嫌われるようになる、つまり美化され得ない(患者にしてみれば、そんな隠喩などいい迷惑であるが)。

著者が引いた詳しい事例は本書を読んでいただければわかるので割愛するが、確かに時代がある特定の病に対して与える隠喩というものは存在しそうである。

少し考えてみよう。

たとえば「社会の癌」という言葉(最近はあまり使われなくなったか?社会に限定せず○○の癌という言い方は一時期よく見かけていた気がするのだが。)は、社会に巣食う悪であるが、まるで癌の腫瘍を摘出するように排除し得るもの、という意味合いを帯びている。癌に対する私たちの感覚はスーザン・ソンタグが癌について考えていたころよりもずっと「容易に摘出し得るもの」になっているはずだ。一昔前よりもはるかに癌の治療はしやすくなった。「乗り越え可能な悪」という隠喩が現代では与えられているのではないだろうか。

(摘出できないタイプの癌、たとえば悪性リンパ腫さえ最近では放射線治療等で対処し得る。ほんの10年ほど前、私の親戚はこの病で亡くなったが当時は治療不可能と言われ、痛みをやわらげる程度の治療しか行わなかったはずだ。)

ちなみにスーザン・ソンタグはこんな風に書いている。

 

或る現象を癌と名付けるのは、暴力の行使を誘うにも等しい。政治の議論に癌を持ちだすのは宿命論を助長し、「強硬」手段の採択を促すようなものである――それに、この病気は必ず死に到るとの俗説をさらに根強くしたりもする。病気の概念がまったく無害ということはありえないのだ。それどころか、癌の隠喩そのものがどことなく集団虐殺を思わせるとの議論も成り立つように思われる。

(前掲書、125頁)

 

他にも考えてみよう。

うつ病心の風邪」という表現について。これも一昔前によく言われた言葉だ。この言葉のおかげで精神科や心療内科への敷居が下がり、救われた人もたくさんいただろう。だが、「風邪」という言葉の気軽さは人を救うのとは逆の方向に隠喩を働かせもした。多くの人がうつ病を始めとした精神疾患に対して過度に敏感になっているように思えてならない(と書いている私も実はうつ病適応障害の間をここ15年ほど行ったり来たりしているわけなんだけれど……笑)。ほんのちょっとの気分の落ち込みさえ「病」とされてしまうかもしれないという心配。

いわゆる「難病モノ」「闘病モノ」といわれる物語(テレビドラマや映画、小説など)や、「24時間テレビ」で繰り返し提示される「障がい者像」に対して嫌悪感を抱いている人をよく見かけるが、その嫌悪というのは病や障害という対象そのものに対してではなくて、他人の日常や苦悩に美しく装った意味(愛とか感動という隠喩の付与)への嫌悪だろう。実は私も一時期本当に「難病モノ」「闘病モノ」が苦手であり、それはたとえフィクションであっても、何か不純な意味を物語にとって都合よく他者に押し付けている印象があったからなのだろう。病は隠喩になり得る、というのは『隠喩としての病い』を読んで新しく得た視点かもしれない。何かに意味を与えるということには常に慎重にならなければならない(それでも人は意味を与えたくなる、だから難しさを感じる)。

人工透析患者に対して、最近、暴力的な言葉がインターネット上に掲載されて物議をかもした。人工透析は「自己責任」という例のアレだ。こういう考え方がどうして出て来るのか、病が隠喩として機能してしまうということから少し考えてみた。

まず「生活習慣病=糖尿病→人工透析」という安易な図式が存在する。そして「生活習慣病」という言葉(表現)には無意識のうちに仕込まれた隠喩がある。「生活習慣」は自分の意思で決められるもの、それで病が引き起こされたならやはり悪いのはお前自身だ、という考え方。上記の生活習慣病人工透析を結びつける図式の存在と、生活習慣病という言葉が隠喩として機能した結果、人工透析患者=自己責任論という荒唐無稽な暴力的言説に結びついたのかもしれない。(言う間でもないが、人工透析の理由は何も生活習慣に起因する糖尿病だけではないし、そもそも生活習慣自体が個人の努力ですべて良い方向へどうにか転換できるというものでもないし、さらに言えば、そもそも生活習慣がすべて病の原因というわけでもないはずだ)。

 

他に著者は「癌のことを記述するさいの中心的な隠喩は、実は経済学からではなく、戦争用語から借用されたものである。」(97頁-98頁)と興味深い言葉の使用について述べている。それによると癌細胞は単に増殖するだけではなく「侵す」と言われるし、小転移は「植民地を作る、小さな前哨点をつくる」、「徹底的な」外科手術、体の地形を「走査」、「腫瘍の侵略」……などと言われることに注目している。

 

治療法にも軍事的なものがつきまとう。放射線療法には空中戦の隠喩がつきもので、たとえば患者は有毒の抗戦によって「空爆される」。化学療法は毒物を使う化学戦争となる。治療の目的は癌細胞を「殺す」ことになる。

(前掲書、98頁-99頁より引用)

 

このあたりを読んでいてふと思い出したので自分のメモ程度に残しておくけれど、松波太郎『ホモサピエンスの瞬間』において、登場人物の過去なのか、それに語り手である「わたし」の空想を付加した話なのか判断はつかないが「戦争」の様子が描かれている。体の不調と言葉の閊えを「戦争」の描写に近接させて描く書き方のことをなんとなく思い出した。言葉の閊え=コミュニケーション不全を「梗塞」(血栓の詰まり)と合わせて書くこと。癌の他にも最近では心筋梗塞脳梗塞に知らず知らずのうちにかぶせられる隠喩があるのかもしれないと思った。私にはまだ、言葉にすることができないけれども。

 

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たとえ新しい感情がわきあがっても―スーザン・ソンタグ『ハノイで考えたこと』

 

今回はスーザン・ソンタグの『ハノイで考えたこと』という本を取り上げたい。

スーザン・ソンタグ 著、邦高忠二 訳『ハノイで考えたこと』(晶文社、1969年)

 

ハノイで考えたこと (晶文選書)

ハノイで考えたこと (晶文選書)

 

 

ソンタグは1968年5月にベトナム戦争真っただ中のハノイ(北ヴェトナム)を訪れている。本書はその時の直接体験をもとにソンタグが考えた事柄(文化や彼女自身の意識について)をまとめた記録である。知識の上ではよく知っているはずの異文化に実際に触れてみた時の著者の純粋な驚きや戸惑いが、なぜそういう感情として表出するのかというところまで含む深い洞察である。

 

ここでベトナム戦争ハノイについて簡単にまとめておこうと思う。

私達がよく聞くベトナム戦争は、1955年11月から1975年4月30日まで続いた「第二次ベトナム戦争」をさすことが多い。この戦争はインドシナ戦争後に南北に分裂したベトナムで発生した戦争の総称だ。細かな事例を挙げればきりが無いのでここでは割愛する。簡単に書いてしまえば、ベトナム共和国(南ヴェトナム/背後にアメリカ)VSベトナム民主共和国(北ヴェトナム/背後にソ連)という構図で説明することのできるいわゆる冷戦を背景とした代理戦争でもあった。ハノイ北ベトナムの都市で戦争中にはアメリカ軍による空爆にもさらされている。南北ベトナム統一後、現在ベトナム社会主義共和国の首都である。経済の中心と言われるホーチミン市に対してハノイは政治・文化の中心地と言われることが多い。

北ベトナム政府の招聘によって、本書の著者でアメリカ人のスーザン・ソンタグが戦時下のハノイを訪れたのだ。

 

歴史の理解は、私が当然のものとみなしているその目的、つまり、客観性とか完璧性という目的とはちがった目的をもつこともありうるのだ、と。それは実用のための歴史である――正確にいうなら、生き残るための歴史だ。だから、それは、まるごと実感された歴史であり、距離を保った知的関心事のジャムみたいなものではないのだ。過去は、現在という形態のなかに継続し、また、現在はうしろの時間にむかい、のびひろがってゆく。

(前掲書、37頁より引用)

 

ソンタグは自分が持っていた歴史観ベトナム人が持っている歴史観にどうやら違いがあるらしいことを感じる。ソンタグから見たベトナム人たちは「歴史の世界に生きて」おり、しかもその歴史は「目的の一貫した歴史」である。そういう歴史観という思想的背景によって形作られた現在のベトナム人の思考の枠組みが当初ソンタグには見えなかったらしい。アメリカはベトナム空爆している、しかし当のベトナムではアメリカに一種畏敬の念のようなものさえ持っており、ソンタグを歓待してくれる。そういう価値観がまったく理解できなかった戸惑いが著者の思考の契機になっているように思える。

また、考えれば考えるほどにスーザン・ソンタグは自分の中にあるアメリカ的な価値観(思考の枠組み)が浮かび上がってくることに気が付く。著者はアメリカによるベトナム空爆を痛烈に批判していたわけだが、それでもなお自分はアメリカ人であることを捨てきれないというディレンマを抱えなければならない。実際にベトナムの地を踏んだからこそ、知識にとどまらない感覚にまで踏み込んで自身の価値観を検討する必要に迫られたのだ。

 

ハノイに旅立つまえ、私が想像世界のなかで勝手に関連づけていたヴェトナム像は、現地にのぞんだとき、なんら現実性をもっていないことが立証されたのである、過去数年間、ヴェトナムは私の意識の内側で、“弱者”の苦難と英雄行為を示す、ひとつの典型的な像として腰を据えていたのだ。しかし、私の心にとりついていたのは、じつは“強者”アメリカ像のほうであった――アメリカ的権力、アメリカ的残忍性、アメリカ的独善の形姿であった。

(前掲書、131頁より引用)

 

同じページで、スーザン・ソンタグは「歴史の課題とは、つまり意識の課題である」という言葉を引き、ハノイの滞在によってこの警句のもつ真理が自分自身にとって鮮明かつ具体的になったと書いている。単なる知識であったベトナムが、著者自身の「思考作用の限界をやぶるための能動的対決に転化された」という。

ソンタグの語る言葉をすべて鵜呑みにすることはできないが(著者の言葉はオリエンタリズム的な枠組みから逃れてはいないと思う)、ある特定の国における歴史のとらえ方や、そういう思考体系からくる文化観について考え抜いた著作であるとは思う。特に私がこの本を読んで面白いと思ったのは、ソンタグの異文化観察の眼差しがやがて自身の内側の「アメリカ的な部分」にはねかえっていったことだ。他の文化を理解するのにどれほど自分の中にあった思考の枠組みが邪魔になるかということ、しかしそうでありながら、その既存の枠組みを捨てきれはしないこと、アメリカ人であることをどこまでもつきつけられること。

異文化に対する寛容や異文化交流は世界がずっと模索してきたことだし、今でも模索し続けていることだろう。非常に難しい問題で、それこそ教科書的に語ってしまうのは簡単なことなのだが、実際に異文化に接した時に自分が表明する態度が教科書的な模範解答になるとは限らない。歴史観や文化観の違いというものについて、そこからどういう感情が表明され得るのかについて、アメリカ人であるスーザン・ソンタグは実際にハノイを訪れ、考え、書いた。

 

彼女(スーザン・ソンタグ)には、人間は絶えず変化してゆく弁証的な存在であり、それを教導する契機は“新しい感情”である、という認識がある。彼女がハノイの現実に触れて喚起された新しい感情を、どのように処理し、どのように進展させるかが、この日録を彼女に書かせた動因だといえるだろう。そして、新しい感性、感覚の新しさこそ人間を変革させ、人間活動に変更をくわえる発条になるのだ、と彼女はいいたいようである。

(前掲書、149頁、訳者あとがき「スーザン・ソンタグについて」から引用)

 

経験を拒絶せず、できる限りしなやかに対応することができれば、それだけ世界は広がっていくのかもしれない。その広がりの中で自分のもつ捨てきれない感覚にも自覚的になっていくのかもしれない。たとえ新しい感情がわきあがってきても、それを怖れることなく向き合っていくことを忘れないでいたい。

写真ってなんだ?―スーザン・ソンタグ『写真論』

今回はスーザン・ソンタグの『写真論』を読んで考えたことを書いてみようと思う。この本を読むまで、そもそも写真とは何か? どういう性質のものであるか? などと考えたことはなかった。考える暇もなく、現代の我々はスマホで気軽に写真を撮るのである。この本が書かれた頃に比べて、現代の我々はより写真に囲まれて生きているだろう。写真、大半の写真は物体として印刷されることもなく、画像データとして端末に保存されている。情報としての大量の写真に我々は囲まれているのだろう。このブログもそうだけれど、今の私たちの物の見方や考え方から画像を抜きにすることはできないと思う。

 

スーザン・ソンタグ著、近藤耕人 訳、『写真論』(晶文社、1979年)

写真論

写真論

 

 

正直、はじめて「写真」というものを考えることになった私にはこの本をしっかり読み込めた自信はない。なので、今回はこの本については断片的に取り上げることしかできそうもない。『写真論』の内容は巻末の訳者あとがきから引用しておこうと思う。

 

『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』誌にこれらの評論を書いていくうちに、彼女(著者、スーザン・ソンタグ)は写真というものがじつに大きな主題であることに気がついてくる。写真について書いているというよりも、近代性(モダニティ)について、私たちの現在のありようについて書いているのだと悟るようになる。写真の問題は現代のものの感じ方、考え方へのひとつのアプローチであり、写真について書くことは世界について書くことだと彼女は話している。

(中略)

この評論集は「写真論」と題されてはいるが、実際は写真を鏡として裏側から照らし出したアメリカの社会と文化を論じたものであり、さらに広く、民主主義社会と写真の関係を解明しているものであって、アーバスの作品群はまさにその象徴なのである。

(前掲書、訳者あとがき219頁より引用)

 

1930年代のアメリカ・リアリズム文学と写真的リアリズムとの関係にとどまらず、それ以後のアメリカ文学全般と、この<写真的見方>との関係は、アメリカ文化をその特徴的な鍵で解き明かすために、興味あるテーマであり、この本はその手がかりを与えている。

(前掲書、訳者あとがき220頁より引用)

 

 

■写真ってなんだ?

 

ひと言で「写真」と言っても様々な種類がある。アルバムに綴じられていくような家族の思い出写真や、証明写真、メディアの報道写真……。最近驚いたのはプリクラの性能だ。最近のプリクラの顔面補正力にはほんとうにびっくりした。あそこに映し出された自分の姿は確実に自分ではない。

 

写真はただ現実を記録する代りに、事物の私たちへの現われ方の基準となって、それによって現実の観念、レアリスムの観念そのものを変えてしまったのである。

(前掲書、94頁より引用)

 

写真は我々人間の眼(視力)の限界を超えている。たとえば、「ミルククラウン」という現象をぴたりと静止したものとして捉えることは人間の眼には不可能である。顕微鏡写真も我々人間の眼では見ることのできない微細なものを写しだす。X線写真もそうかもしれない。これら人間の視力を超えたものを写真として見慣れてしまうことで、我々の観念はいくらか変えられてしまったのかもしれない。もう少し身近なところでは風景写真。誰もが美しい景色をみたら、ポケットの中のスマホを取り出して写真を撮りたくなるものだが、たった一枚の風景写真を撮るということを考えただけでも、そこには信じられないほど多くの選択が絡んでいる。まず、何を写すかという被写体の選択、それからどういう風にフレームに収めるか、どういう風に風景写真として切り取るかといった技術的な選択。アマチュアカメラマンでさえ(いや、もっと現代的に言えばカメラマンという意識を持つことさえなく写真を撮る我々ひとりひとりでさえ)、自らの欲求に技術力、はたまたシャッターを切った瞬間の偶然に左右されながら風景写真を撮る。撮影者の意図が明確であればあるほど、その写真は観光パンフレットのような見易さや美しさを持った写真になるのかもしれないし、そうだからこそ、実際にその場所を訪れた場合、がっかりすることが多いのだ。つまり、写真の風景は現実の(ふつう我々が見慣れている)風景とは異なったものである。そういう物に晒され続ければ自ずと観念にも影響を及ぼすだろう。

 

個々の写真は断片にすぎないから、その道徳的、情緒的な重みはそれがどこに挿入されるかにかかっている。一枚の写真はそれが見られる文脈によって変るものである。それでスミスの水俣の写真はコンタクト、ギャラリー、政治的デモンストレーション、警察のファイル、写真雑誌、一般ニュース、雑誌、本、居間の壁、で見た場合はちがって見えるだろう。これらの状況はそれぞれ写真のちがった用途を暗示しているが、どれも写真の意味を確実にすることはできない。

(前掲書、112頁より引用)

 

写真は撮影して終わり、というものではない。撮影された写真を見る者という他者の存在によって意味づけがなされるものだ(勿論、撮影した時に撮影者は撮影者なりの意味や意図を持っているだろうが)。写真を資料として見る歴史家の視線と、同じ写真であってもそれを芸術作品としてみる視線は大きく異なっている。この本の最後の章「引用の小冊子」でグスタフ・ヤヌーク『カフカとの対話』が引用されているのだが、そこでカフカはこんなことを言っている。

 

「写真は表面的なものに眼を集中させる。そのために、それは光と陰の戯れのように物の輪郭を通してほの見える隠れたいのちをあいまいにしてしまう。それは最高のレンズを使っても捉えることができないのだ。それは感覚で手探りしなければならないものなのだ。(……)この自動カメラは人間の眼を何倍にもふやすのではなく、とんでもなく単純化したはえの視覚にしてしまうのだ」

(前掲書213-214頁より引用)

 

カフカは写真についてこんな風に思っていたらしい。それは人間の眼をひどく単純化したものだと。

 

写真はいくつかの形での獲得である。一番単純な形では、私たちは写真の中で大事なひとやものを代用所有する。その所有のお蔭で、写真はどことなく独特の物体の性格を帯びてくる。私たちはまた写真を通じて、出来事に対して消費者の関係を持つようになる。私たちの経験の一部である出来事とそうでないのとの両方に対してで、それはこのような習慣形成の消費者であることがぼやかすさまざまな経験のタイプのひとつの区別である。三番目の形の獲得は、映像作りと複写機を通して私たちはなにかを(経験というよりも)情報として獲得できるということである。実際、ますます多くの出来事が私たちの経験に入ってくる媒体としての写真映像の重要性は、結局それが経験から切り離されて独立した知識を有効に供給できることの副産物にすぎない。

(前掲書、158頁)

 

写真は所有である、という感覚。プリントアウトをせず、物体としての厚みをなくしたデジタル写真であっても、この感覚は無効にはなっていないと思う。「思い出を残したい」という願望が我々に次々とシャッターボタンを押させる。後で見返すかは別として「残したい」という願望は確かにあるのかもしれない。それはある特定の瞬間の所有である。七五三や成人式の写真を撮るというのもよく考えればその時にしかできない「自分」を保存して所有する行為である。ふと思ったが[盗撮]という行為と所有願望は結びつくものなのだろうか? どちらかというと「盗撮」の場合は所有よりもスリルを求める心情と結び付けられて論じられている印象があるが……?

 

さて、長くなってしまったが、今回この本を読んで写真というものについて色々と考えることができて本当に良かった。はじめに書いた通り私は写真が嫌いである。写るのも嫌いだが、実は撮るのも嫌いである。特に人間を被写体にすることにはある種の恐怖さえ感じている。他人を被写体にしてシャッターを切ることが何か暴力的なことに思えるのだ。被写体の生命活動を写真の中で凍結すること、そのことへの怖さだったり、そうすることで被写体に何か当初意図していなかった意味を押し付けることになりはしないかと不安になるのである。

カメラという装置が現実を侵食している。

それが良いとか悪いとか、そういうことを言うつもりはない。ポケモンGOですっかり有名になったAR(Augumented Reality、拡張現実)技術は写真が人間の視力を超えたものであるという事実をさらに延長して、積極的に推し進めたものであるように感じる。また、SNSの浸透によって我々の意識にはフォトジェニックという言葉が浮かびやすくなっているのかもしれない。昔ならそういうことを考える場面は非常に限られていたはずだが(例えば見合い写真や生前に撮って用意する遺影、芸能人のブロマイド)、今では日常的な思考になっている。

<既知>なるものからにじみ出る<変>―コルタサル『海に投げこまれた瓶』

久しぶりにフリオ・コルタサルの短篇集を読んだ。やっぱり好きである。今回読んだのは、『海に投げこまれた瓶』という短篇集で、収録されている作品は以下の八作品である。

・「海に投げこまれた瓶」

・「局面の終わり」

・「二度目の遠征」

・「サタルサ」

・「夜の学校」

・「ずれた時間」

・「悪夢」

・「ある短篇のための日記」

 

海に投げこまれた瓶

海に投げこまれた瓶

 

 フリオ・コルタサル 著、鼓直・立花英裕 訳『海に投げこまれた瓶』(白水社、1990年)

 

今回はこの中から特に気に入った作品である「局面の終わり」「サタルサ」「ずれた時間」の感想を書いていこうと思う。本題に入る前に、訳者あとがきに引用されていたコルタサルの言葉を紹介しておこうと思う。「短篇の新しい形」というコルタサルの文章らしい。

 

「ぼくがこれまでに書いた短篇のほとんどが、ほかにいい名称がないこともあるが、いわゆる幻想的なジャンルに属している。十八世紀の哲学的・科学的オプティミズムが当然だと考えたように、つまり、法則、原理、因果律、明確な心理、正確に描かれた地理などの体系によっておおむね調和的に支配された世界のなかで、いっさいの描写と説明が可能であると信じる、あの欺瞞的なリアリズムに抵抗するものだ」

(『海に投げこまれた瓶』訳者あとがき194頁より引用)

 

訳者あとがきは次のように続く。

 

ついでコルタサルは、法則よりもむしろその法則の例外の探求に専念したアルフレッド・ジャリとの出会いを語り、それが「あまりにも素朴なリアリズムからはずれた文学」への志向を決定的なものにした、と述べている。幻想的なものはコルタサルにとって、因果律によって支配された現実的なもの以上のリアリティをもつものである。それは現実世界の一部をなしており、したがって、例外的な、非現実的な何ものかとしてではなく、われわれにとって<既知>なるものの隠れた姿として受け入れられるべきなのだ。

(前掲書、195頁より引用)

 

こんなわけなので、コルタサルの作品はなんだか変だ。変なのだが、ゆっくり読み返してみるとその変なものさえ、日常にしっかりはめこまれていることがわかる。変なものが、たとえばある日突然空から降ってきたりするようなものではなくて、あくまで私達が普段見ている風景の素材からにじみ出てくる、という感じなのだ。今回紹介する作品では「局面の終わり」は絵画とそれを展示する場からにじみ出た感覚を日常の別の地点にうつして意味を掬い取っていくように読めるし、「サタルサ」は回文の言葉が変形しながら現実へとにじんでくるし「ずれた時間」はある男女のすれ違いというよくある話をストーリーの筋にしつつ、それを思い出として「書き記す」という行為を通して生じた決定的な「ずれ」をにじませているのである。

 

■「局面の終わり」

 

二次元(絵)と三次元(現実の風景)を行ったり来たりするような作品で、絵が現実の風景ににじんできたり、現実の風景が絵ににじんでくるような感覚を味わうことができる作品だ。絵画と現実をはじめ、何もかも、すべての物が「相称性」を帯びているという感覚。作者は小説世界に流れる時間にさえ相称性を与えている。つまり「正午」を真ん中にして折ると、なんとなく重なってしまうような時間とそこにある風景が描かれているのだ。幾何学的な構造を持ったこの作品はゆっくり読み解いていくと細かな所にまで「相称性」を感じさせる要素が埋め込まれている。

ディアナという登場人物が「どこにでもあるような名前のその村」のカフェに立ち寄る所から小説は始まる。彼女の身の上はほとんど語られない。わかることと言えば彼女が何らかの喪失を抱えていることくらいだ。

 

「喪失(パーディード)」と、彼女は心のうちでくり返した。「デューク・エリントンのあの素敵な曲。でも、思い出すことすらできない。二重の喪失よ、お嬢さん。自分さえ喪失してしまった娘。四十にもなると、ひとつの言葉を口にしただけで泣けてくるのよね」

(『海に投げこまれた瓶』より「局面の終わり」17頁より引用)

 

「生きることが、純粋な受容になって」(16頁)しまったと感じる彼女は、「物を、あたかもこちらが見られているかのように見る」(17頁)、「村を歩き回るのではなく、村によって歩き回られるというあの感覚の再現」(22頁)というように、主体性を喪失したままに受容の感覚ばかりを研ぎ澄ませて村を歩いている。彼女の目に映る風景の描写が魅力的であるが、すべて引用することはできないので割愛させていただく(こういうところにコルタサル作品を読むことの楽しさがあるのだが……紹介できず無念)。

ディアナは美術館へ辿り着き、入場料を払って展示されている絵を観る。最初の部屋には4、5枚の絵があってそれらは、テーブルがひとつあって斜め上からの強烈な太陽光線によって照らされている、という主題の繰り返しだ。二番目の部屋には人物の絵(後ろ向きの人影)があった。その人影はたまたまそこを訪れた人間が大きな無人の館のなかを、ただ漫然と散策しているよう。それから、あまり明確でない庭園へと通じる広い出口が部屋の内景に結び付けられていた絵もあった。ここまで来て、正午を迎える。守衛がやってきて声をかけられ、彼女の観覧は中断されてしまう。二番前の部屋から次の部屋へと続く半開きのドア、そしてその先の部屋にある最後の一枚の絵を観ずにディアナは立ち去った。

再び町を歩くディアナの目は、美術館の絵にあったのとそっくりな回廊を見た。ためらうことなく庭園に入り、家の入口へ近づいて行った。「入場料を払っているのだ」という一文が読者に先に行った美術館の印象を強烈に思い出させる。

誰もいない家の中を漫然と散策する、奥の部屋のドアがしまっているのは美術館で最後の部屋を見なかったからだとディアナは思う。そのドアを開けて、彼女は部屋に入るとテーブルについてタバコをふかし始めた。「ディアナの背後のどこかで笑い声が聞こえ」(24頁)たような気がした。

再び美術館に行って、ディアナは最後の部屋を確かめた。二番目の部屋には男女のカップルがいて、小さな声で話し合っていた。

最後の絵には、一人の女が座っているテーブルと椅子の描写がなされていた。その絵を観てディアナはこんなことを思った。

 

「瞑想や眠りをはるかに越えて、ある投げやりな態度を見せつけていた。この女は死んでいる。垂れさがったその腕と髪。他の絵に見られた事物や存在の固定性よりも強烈な説明しがたい不動性」(26頁)

 

それから一度は車に乗って町を離れようと思ったのだけれど、結局ディアナはUターンしてもう一度あの家(美術館の絵にそっくりな家)へ向かう。そしてまたテーブルについてタバコを吸う。この反復は絵画のモチーフが繰り返されるのに似ている。

 

「太陽光線が壁をはい登り、彼女の体が、テーブルが、椅子が、ますます影を長くしていくのを見るのも気がきいているかもしれない。それとも、このまま、何も変化しないのだろうか。他のすべてのものと同じように、不動の彼女や煙と同じように、光線も動かず。」

(前掲書、29頁より引用)

 

この「不動」で作品は閉じられる。もうこれ以上、足したり引いたりすることをしない、この時点で作品が終わりを迎えているという「局面の終わり」は、彼女が作中で回想するオルランドという人物との関係性の終わり、それによる彼女の自己喪失までも含んでいるように思われてならない。

 

 

■「サタルサ」

 

『ネズミに罠を掛ける』(atar a la rata)、これは回文だ。原文は引っくり返しても同じ文言になる。しかし複数形にすると、回文ではなくなる。複数形はこうだ、『ネズミたちに罠を掛ける』(atar a las ratas)。これを反対から読むと『サタルサネズミ』(Satarsa la rata)になる。サタルサネズミ、それが何者かはさっぱりわからないが、単に回文を繰り返していただけでは見えなかった物事がほんのちょっと見方を変えるだけで(ここでは複数形にしてみただけで)見えるようになる。

……と、こんなくだらないことを考えているのはロサーノという男で彼はいつでもこんな遊びに熱中してしまう。物があるがままには見えず、いっさいが鏡に写ったように見えるらしい。

ロサーノをはじめ、この作品の登場人物は「あの虐殺のあと北部の谷を伝って逃亡して」きて今に至っている。彼らは今、ネズミ狩りをして暮らしを立てている。

自分たちの現在の状況と、回文遊びの言葉の重なりがとても面白い作品で、これ以上の説明はいらないように思う。

 

■「ずれた時間」

 

「ぼく」(アニバル)は書く、十二三歳の、子供のころの思い出を。友人のドロと彼の姉であるサラのことを書きつける。

 

「十二か十三歳の第七学級だったあのころ、ぼくたちは強い絆で結ばれた仲だったので、ドロについて書きながら彼と切り離して自分を感じることも、また、ドロについて書きながらページの外側に身を置いた自分を受け入れることも不可能なことだった。彼を見るということは即、ドロと一緒のアニバルであるぼくを見ることだった。」

(前掲書より「ずれた時間」108頁より引用)

 

ここから小説の大半は、バンフィールドという場所で過したドロとアニバル、そしてサラの淡い思い出の描写になるのだが、その思い出は、冒頭の「書く」という行為を通して言葉を与えられた風景である。

幼いアニバルはサラのことが好きだった。だけれどサラは年上のお姉さん的存在であり、ふたりの関係が恋人として発展することはなかった。やがてサラは結婚し、アニバルはブエノスアイレスへ引っ越すことになってしまい、ふたりの世界はずれてしまう。ふたりはブエノスアイレスで再会するのだけれど、ずれた時間はどうしようもなく、ぴったり重なり合うことはない。アニバルにはアニバルの生活があり、家庭もある。サラとは全然違った人生を歩みながら、ただサラのことを思い出して書き続けることしかできないのだ。

 

ある時点までは言葉たちは事実の世界にまたがり、太陽と夏をはらんで駆け回っていた。言葉=バンフィールドの中庭、言葉=ドロと遊びと河原。ひとつの忠実な記憶のざわめく蜂の巣。ただ、もはやサラでもバンフィールドでもなくなった時点に達したとき、書き記すことは日常的なものに堕し、思い出も夢も失われた実用的な現在と化して、それ以上でもそれ以下でもない生活そのものとなった。そのまま書き続けたいと思った。言葉もまた歩みつづけて、毎日訪れるぼくたちの今日、工学研究所での遅々とした仕事の日々ひとつである今日にいたることを受け入れて欲しかった。

(128頁より引用)

 

淡い思い出と現実の生活のずれ、それは言葉として書かれることで一層おおきなものになってしまうのかもしれない。取り返しのつかないくらい、決定的になった「ずれた時間」が読む者の前にくっきりと提示されてしまう。

作品構造の持つ厳格さと、思い出の淡さを一つの作品に共存させる、これはコルタサルにしか書けないと思った。

弔いのかたち―杉本裕孝「弔い」

人は二度死ぬ。一度目は生物として死んだ時、二度目は人に忘れ去られた時だ、なとどいうのは一体どこで聞いた言葉だったかあやふやだが、馴染のある感覚である。

杉本裕孝「弔い」という作品では、人は二度生きる。一度目は死ぬ前の生、つまりふつうに生きているという状態、二度目は死後、遺された誰かによって思い出される回想の中の生だ。こんなふうに書いてしまうと、なんだ、この作品は単なる「いい話」なのか、と思われてしまいそうだが、それだけではたぶんない。面白いのは、回想の中の生は別の角度(違う人間の回想)から見た時にイメージが百八十度変わってしまうこともあるということだ。

杉本裕孝「弔い」(文學界2016年11月号掲載)

文學界2016年11月号

文學界2016年11月号

 

 

作者はデビュー作「ヴェジトピア」から「花の守」、今作「弔い」まで終始、植物のイメージを大切に描いている。生命と花が、丁寧に重ねあわせていく所に書き手の個性があるのではないか、とそんな風に私は思う。

「ヴェジトピア」を思い出すような、ちょっとおかしな手紙から「弔い」は書き出される。

 

わたくしは佐藤三朗ともうします。さんろうです。たいがいはさぶろうと読まれます。

(杉本裕孝「弔い」冒頭より引用、文學界2016年11月号、94頁)

 

(ごめんなさい、さぶろう、と打ち込んで変換しました /小声)

 

この小説の主人公であるもうすぐ古稀を迎える主人公、佐藤三朗はある日自宅のポストに入っていたチラシがきっかけで「エンディングノート」を書きはじめる。「エンディングノート」と呼ばれるものの通信講座(?!)のチラシだ。書き上がった「エンディングノート」を手紙として送ると、ふれあいユートピア百日紅容子という人から心のこもった返事が届く。作品中で手紙は全部で五往復することになるのだが初めて百日紅容子から届いた返信にもかなり大きな違和感があった。というか、この往復書簡自体がかなりおかしい。「エンディングノート」というものが具体的にどういうものなのかよくわからないけれど、それは遺された家族に何かを伝えるという目的を持ったものらしい、というのは百日紅容子の手紙からわかる。その「エンディングノート」の文章を赤の他人である百日紅容子に送って、添削してもらうというのが違和感の正体だ。送ってしまった「エンディングノート」は二度と佐藤三朗の家族の目に触れることはない(それなのに三朗は無邪気に家族に読まれることを考えていたりもする)。しかも、三朗は当初「エンディングノート」に嘘を書き綴っていた。

彼が回想し綴る人生は申し分のないほど幸せなものだ。妻がいて、娘がいる。彼女達を一生懸命養ってきた三朗の人生も誇りに満ちたものだった。百日紅容子の添削(アドバイス)を経て、三朗の嘘はさらにふくらみ、娘婿、孫という実際には存在していない人物まで登場させてしまう。家族たちに囲まれて悠々自適の老後を過ごしているという三朗、しかし三朗の本当の生活は悠々自適とは程遠いものなのだ。妻(節子)は2年前に亡くなっているし、三十歳になる娘(美花)は独身、親の家を離れて仕事に邁進している。三朗はというと、印刷会社を定年退職した後、清掃員派遣会社で働き始めた。「月曜から金曜まで休みなく、早朝から夕刻まで働いて、給金はかつての半分にも満たなかった」(103頁)、とても悠々自適とは言えない暮らしぶりだ。家に帰ってもひとり、身の回りの世話をしてくれる人もなく、職場でも「サブちゃん」の愛称で呼ばれているが、そもそも彼は「さぶろう」でさえない。

こういう疎外状態に置かれた人にとって、百日紅容子という人物の書いてよこす返事がどれほど心に沁みただろうと考えると胸が苦しくなる。手紙を重ねていくうちに三朗は、妻が園芸の趣味を持っていたことに気がつく。仕事人間だったため、ほとんど家庭を顧みることのなかった三朗は妻との時間を生き直すように庭いじりを始める。

 

庭は生きている。死んでいない。これほどまでに美しい庭をこれまで見過ごしてきた己の愚かしさへの腹立ちよりも、どこかで諦めていた庭がいまも生きているということの安堵が優って、三朗は、みえないものに感謝するように、我知らず、天を仰いでいた。

(前掲書108頁)

 

そうして、日常生活の中に己の心を満たすものを見出した時、三朗は「妻はいまもまだ生きている」と思えるようになるのだ。一度死んだ妻は、ここから二度目を生きることになる。三朗が妻と生き直そうと思っているのに寄り添うように、妻が生前手入れをしていた庭は甦り金木犀の花が香り立ち、ひらく。

しかし、妻の三回忌の法事で三朗の中で二度目の生を享受していた妻は決定的に「死ぬ」。というか、法事のために三朗と娘の美花は久しぶりに顔を合わせて食事をするのだが、そこで娘によって語られた母(三朗にとっては妻)の姿は想像さえしないものだったのだ……。これを妻の裏切りと自分に言い聞かせるのか、それとも自分のいたらなさを後悔する材料とするのか。

三朗は、理想を書き綴っていた百日紅容子への手紙を打ち切るように「さようなら」と書いた。妻と生き直していたような淡い生活は消え、同時に手入れをされることのなくなった庭は再び荒れ果てる。百日紅容子からの最後の手紙から墓石の展示販売に引き寄せられた三朗は、そこに集う老人たちを乾いた眼差しで見つめる。そうして「三朗は、不意に、妻は、もう生きていない、死んでいる、そう悟った」。 

 

ああ、そういうことか。三朗は思った。

なんということはない。これが人の世の常であった。

三朗の中で、これまで百日紅先生と交わした文字がひとつひとつ、植物の枯れるように色褪せていく。どこからか吹きつける冷たい風にそれらは一斉に巻き上げられ、そのようにてんでんばらばらにされて意味を失った文字たちは、そのままどこか遠く知らない場所にいともたやすく吹き飛ばされていく。そうして、三朗の庭には跡形もない。

(前掲書131頁)

 

この小説の前半に書かれているのは「精神的な弔い」であった。そこには遺された人による想像や理想、願望さえもあり、自在に大きく膨らんでいく世界であった。そこでは死者がもう一度生きていた。しかし、小説は終わりのほうへ向かうにつれて「物質的な弔い」に移行していく。三回忌の法要や墓石など、動かし難く一定の形式が定められた物質的な弔いには、どこか人の心を置き去りにする冷たさがある。誰も彼もが同じようで、個別性が切り捨てられた世界は固く閉ざされた世界であるように私には思えた。そこへ放り込まれた時、人は決定的に死ぬ。

エンディングノート」というものが人を弔うよすがになるとすれば、この作品は弔いというものをいろいろな側面から掘り下げて描いているのだと思う。

 

細かいところだけど、私はこの作品で主人公が「鍵」を探してごそごそやっているシーンの描写が面白かったし、とても好き。

 

読書はひとを連れてくる、そうしてひとを連れ去っていく―稲垣足穂について

今回は稲垣足穂(1900-1977)を紹介しようと思う。

稲垣足穂『現代詩文庫1037 稲垣足穂』(思潮社、1989年)

稲垣足穂ちくま日本文学全集 稲垣足穂』(筑摩書房、1991年)

 

稲垣足穂 [ちくま日本文学016]

稲垣足穂 [ちくま日本文学016]

 

そもそも私が足穂を知ったのはごく最近、このブログ記事を書いたことがきっかけだった。

mihiromer.hatenablog.com

 

この記事にコメントをくれた人が「稲垣足穂」という作家を私に教えてくれたのだ。これはさっそく読んでみようと思った。そこで図書館で、稲垣足穂『現代詩文庫1037 稲垣足穂』(思潮社、1989年)、稲垣足穂ちくま日本文学全集 稲垣足穂』(筑摩書房、1991年)の二冊を借りてきた。

読むことも書くことも、基本的にはひとりで黙々とやっていることだと思うけれど、こうして時々思わぬ出会いがあったりして、それもまた楽しい。その楽しさを足穂風(?)に表現した雑文を書いてみたらこうなった笑。

 

読書はひとを連れてくる

ある本を読んでそれについて何か書いておくと しらないひとが「その本に出てくるそれ、その一文はあの本の別の一文に似ているね」なんて言う それで自分が読んだ本にでてくるのに似ているという「あの本の一文」を探すために図書館に行って 目当ての本を家まで連れてきて読んでみる 「あの本の一文」をようやくみつけたぞ! と思ってこうしてブログに書いていると ほら しらないひとがまたやって来る そうして気がつく 自分も読書に連れられていたと。

 

さて、本題。今回は稲垣足穂という小説家が書いた作品をいくつか引用しつつ、この作家らしいモチーフやイメージの一端でも紹介できたら良いなと思っている。

 

さあこれから管を吹きます、何が出るか消えぬうちに御覧下さい

(『現代詩文庫1037 稲垣足穂』10頁より「シャボン玉物語」の冒頭より引用)

 

稲垣足穂はお月様や星をよく使う。それも、美しいなぁなどと、人間が単に夜空を見上げるような書き方ではない。お月様と取っ組み合いをしたり、人々の集まりの中に星がいたり、土星が三つも出来上がったり……月や星というモチーフが私達人間と同じ目の高さというか、同じ平面に存在している。そこには特になにも説明はなく、それ故に不可思議な感覚(幻想と言ってもいいのだろうか、まだわからない)を楽しむことができる。

 

ある寒い一月のばん、公園の片すみにある酒場で、紳士連が新年宴会をひらいていました。宴のさいちゅうに、一人の紳士が、となりの紳士の耳元でささやきました。

「こんばんの集まりの中には、じつは人間に化けた星がまじっているよ」

(『現代詩文庫1037 稲垣足穂』96頁より「タルホ拾遺――クリスマス前菜として 第一話 冬の夜のできごと」の冒頭抜粋)

 

同じ連作の「第六話 ホテルの一夜」では天地がまったく逆になっていて、ホテルの窓辺から首を出すと、眼下には星屑、上方には自動車の列……「自分は、窓ぶちをつかめようとするより早く、高い所に逆さにひっかかっているホテルの玄関口めがけて、加速度を加えて舞い上がって行った。」(前掲書102頁)なんていうのもある。窓から落ちていくのではなく、舞い上がって行く、こんな所にも足穂のお月様や星を人間と同じ平面に置いてしまえる感性をみることができる。つまり、物の捉え方が自在なのだ。星は上、自分は下という既成感覚から自由になっている。しかも、ある瞬間にふっと突然、自由になる。目の前に書き連ねられるその唐突さに時々ついて行けなくなりながらも、何故か読後に印象に残る作品だった。

 

街かどのバーへ土星が飲みにくるというので しらべてみたらただの人間であった その人間がどうして土星になったかというと 話に輪をかける癖があるからだと そんなことに輪をかけて 土星がくるなんて云った男のほうが土星だと云ったら そんなつまらない話に輪をかけて しゃれたつもりの君こそ土星だと云われた

(『ちくま日本文学全集 稲垣足穂』所収「一千一秒物語」より「土星が三つ出来た話」55頁)

 

稲垣足穂が生まれた1900年頃、日本では二宮忠八(1866-1936)という人物が活動している。1889年に「飛行器」なるものを考案し、日本の航空史に一歩を記した。ゴム同動力による「模型飛行器」を製作するも、その後は周囲の理解が得られず人間が乗れる実機を完成させることはできなかった。しかしその後も世界的な流れもあり、日本では飛行機というものに着目する者が多く、たとえば1901年には矢頭良一という人物が「飛学原理」の論文を著して森鴎外に飛行機製作の構想を明らかにしているそうだ。その後の歴史を知る私たちは、日本の飛行機製作が世界を追い抜く水準の進歩を遂げることを知っている(なお日本で最初の近代的航空機による飛行は1909年)。

このような時代の空気の中で、稲垣足穂は興味深い発言をしている。「空の美と芸術に就いて」(「文芸時代」1926年4月号初出)において、空を飛ぶということについて、「私たちの平面の世界を立体にまでおしひろげようとする努力である」と書いた。空への憧れも随分感じられる文章であった(なおこの作品は『現代詩文庫1037 稲垣足穂』に入っている)。

 

こうして幾十世紀もの間さびしく鳥類のみにまかせたうつくしい空は、私たちにとって知られざる理想郷であった。だから今日、飛行機をとばせてこの別世界にはいった飛行家の胸のなかには云いしれぬ美的観念が生ずるであろう。」(前掲書113頁)

「新社会建設にあたって常に重大な意義をもつ芸術が、かぎられた世界をやぶってゆくようには、単なる遊戯品が軍用機関のように考えられがちな飛行機というような種類についても、人々が進んで内面的に考察されることをのぞむ。そんなことがやがて私たちのいよいよ多端な芸術の道をひらいてゆく一助ともなるなら、望外のよろこびとする。」 (前掲書117頁)

 

ふと気がついたのだが、『星の王子さま』で有名なアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ稲垣足穂と同じ1900年の生まれである。どちらも飛ぶということを突き詰めて、自らの芸術観念を打ち出したのかもしれない。

 

稲垣足穂にとって処女作である一千一秒物語が最も重要であるらしい。章タイトルのついた掌篇の作品群だ。「朝日新聞」1969年4月8日夕刊に掲載された「無限なるわが文学の道」(『現代詩文庫1037 稲垣足穂』所収)において、西脇順三郎の「詩とは互いにかけ離れたもの、正反対のもの、意想外なもの同士の連結である」という説を引き合いに出しつつ、自らにとって考えられないものの連結は人間と天体である、と書いている。

 

「だから私の処女作「一千一秒物語」の中では、お月さんとビールを飲み、星の会合に列席し、また星にハーモニカを盗まれたり、ホウキ星とつかみ合いを演じたりするのである。この物語を書いたのが十九歳の時で、以来五十年、私が折にふれてつづってきたのは、すべてこの「一千一秒物語」の解説にほかならない。」

(「無限なるわが文学の道」(『現代詩文庫1037 稲垣足穂』所収、131頁より引用)

 

最後に、このブログを通して私が稲垣足穂を知るきっかけとなった作品を引用して終わろうと思う。この作品のお月様も、単に空に浮いているだけではなく、私達人間の感覚に近い世界をうごいている。天空にある者を地上に引きずり降ろして転がすという、足穂の感覚だ。さらにこの作品では「自分」が分裂したような感覚も味わえる(足穂の作品にはこういう筆致のものもいくつかある。自分で自分を落っことして自分がいなくなってしまう、とか)。私のこんな読書感想ブログが、誰かのために読んだことのない本を連れてくることができたら、幸せである。と、同時に私をどこかへ連れていく本に出会えるとなお幸せである。

 

ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた 坂道で靴のひもがとけた 結ぼうとしてうつ向くと、ポケットからお月様がころがり出て 俄雨にぬれたアスファルトの上をころころころころどこまでもころがって行った お月様は追っかけたが お月様は加速度でころんでゆくので お月様とお月様との間隔が次第に遠くなった こうしてお月様はズーと下方の青い靄の中へ自分を見失ってしまった

(「一千一秒物語」より「ポケットの中の月」、『ちくま日本文学全集 稲垣足穂』25頁-26頁より引用)

「声」は「祈り」だった―スベトラーナ・アレクシエーヴィッチ『チェルノブイリの祈り』

今更、私のブログで話題にする必要があるのだろうか? そう思ってブログの更新をためらってしまうほどに有名な本、『チェルノブイリの祈り』。作者スベトラーナ・アレクシエーヴィッチは昨年(2015年)ノーベル文学賞を受賞したベラルーシのノンフィクション作家である。今回紹介する本『チェルノブイリの祈り』。福島の原発事故、そして作者のノーベル賞受賞によって日本でも注目を集めた本で、すでに多くの人がインターネット上で様々なコメントを寄せている。

 

スベトラーナ・アレクシエービッチ 著、松本妙子 訳『チェルノブイリの祈り 未来の物語』(岩波書店、1998年)

 

チェルノブイリの祈り―未来の物語

チェルノブイリの祈り―未来の物語

 
チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)

チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)

 

 

最近、作者が来日して東京大学で講演をしたそうで話題になっていた。

詳細はこちらをどうぞ↓↓

東京新聞:「国は人命に全責任を負うことはしない」 アレクシエービッチさん、福島で思う:社会(TOKYO Web)

 

今回当ブログで紹介するにあたり、私が引用元として使用するのは1998年に岩波書店からでた版である。

 

チェルノブイリの祈り』は読み通すのにとても時間がかかった。文字そのものを追っている時間よりも、じっと考えている時間のほうがずっと長かった読書体験になった。読みながらどうしても考えてしまう、フクシマのこと。そしてこれからのこと。

チェルノブイリの事故は1986年4月26日午前1時23分58秒に爆発が起こった。第四号炉の原子炉と建屋が崩壊した事故で、事故そのものの規模もさることながら、事故後の放射能汚染の問題も含め、科学技術がもたらした20世紀最大の惨事とも言われている。

この本には事故当初の生々しい証言も掲載されている。爆発直後、消火作業に当たった消防士の妻の証言や、事故処理に関わった人々の記憶は忘れてはいけないものだと思う。この本について「科学的ではない」という意見を持つ人もいるだろう。たしかに、その通りである。この本は「科学的」な数字に主眼が置かれてはいない。事故の概要よりも先に、人々の「声」が書かれているチェルノブイリの事故に関しては本書の最後のほうに「事故に対する歴史的情報」という章が掲載されている。けっして長い章ではなく、あくまで人々の証言のあとに置かれている)。

作者自身、「見落とされた歴史について――自分自身へのインタビュー」という章でこう語っている。

 

この本はチェルノブイリについての本じゃありません。チェルノブイリを取りまく世界のこと、私たちが知らなかったこと、ほとんど知らなかったことについての本です。見落とされた歴史とでもいえばいいのかしら。私の関心をひいたのは事故そのものじゃありません。あの夜、原発でなにが起き、だれが悪くて、どんな決定がくだされ、悪魔の穴のうえに石棺を築くために何トンの砂とコンクリートが必要だったかということじゃない。この未知なるもの、謎にふれた人々がどんな気持ちでいたか、なにを感じていたかということです。チェルノブイリは私たちが解き明かさねばならない謎です。もしかしたら、二十一世紀への課題、二十一世紀への挑戦なのかもしれません。人は、あそこで自分自身の内になにを知り、なにを見抜き、なにを発見したのでしょうか? 自らの世界観に? この本は人々の気持ちを再現したものです、事故の再現ではありません。

(前掲書、24頁より引用)

 

福島の原発事故のあと、放射能に汚染された廃棄物をめぐって、「感情論ではない」という言葉がメディアなどを通してしばしば聞こえてきたのを思い出した。それから、東北の漁業、農作物への風評被害。漠然とした放射能へのおそれと、それに対抗するための言葉があちこちでぶつかり合っていた(ちなみに私は東北産だろうが三陸産だろうが、気にはしていなかった)。「基準値」という言葉もよく聞こえてきた時期が確かにあった。そういうことを思い出してはじめて、今の私は大きな事故に直面していたのだということを考えることができる(なんて無責任なんだろう、自分)。

 

話が少し逸れてしまったが、私は「科学的」であることを重視するのと同じくらい、「感情的」であることも大切にしたいと思っている。以前、東日本大震災津波に関して奥野修二さんが書いたルポルタージュを紹介したことがある。あのルポも人々の感情を描いたものだった。

 

mihiromer.hatenablog.com

 

チェルノブイリの祈り』という本も、ひとつひとつはちいさな言葉であるが、記録され読まれることで大きな力を持ちうる……そういう強さを感じる人々の証言を集めた大切な記録なのだ。

だから、この記録だけをもってチェルノブイリを理解することはできない。あの事故を理解するにはもっと多くの客観的なデータを解析しなければならないだろうし、あの周辺の世界史的な出来事や風土をおさえておく必要もあるかもしれない。

「理解する」というのはなかなかやっかいなことで、どの時点で「理解したことになる」のかわからないまま対象に向き合わなければならない。そこには「人の感情」も含まれる。私は科学的な数値と同じくらい、人々の感情についても目を向けていかなければならないと思う。もし、作者が書かなければ、この本に掲載された多くの言葉が私達のところまで届かなかったかもしれないし、後世に残せなかったかもしれないと思うとぞっとする。

祈りとは声である、と読み終わってから素直に思った。

チェルノブイリの祈り』の目次に注目してみよう。こんなふうになっている。

 

孤独な人間の声

見落とされた歴史について

  1. 死者たちの大地

   兵士たちの合唱

  2.万物の霊長

   人々の合唱

    3.悲しみをのりこえて

           子どもたちの合唱

孤独な人間の声

事故に対する歴史的情報

エピローグに代えて

訳者あとがき

 

二回ある「孤独な人間の声」、はじめは事故直後、消火活動に当たった消防士の妻の証言。後半は事故処理作業者の妻の証言。このふたつの「声」に挟まれて1章から3章まで、間に「合唱」という章を挟んで人々の証言は続く。どんなにちいさくとも、人間の声が途切れることなく、この本は終わる。なぜなら「声」は「祈り」だから。

チェルノブイリの事故の前と後で、人々が抱く世界観は大きく変わってしまった。事故を境にして大きな断絶を経験した人々のアイデンティティは汚染された土地とともに崩れて失われてしまったかのような印象を受けた。しかし、それでもなお生き続けなければならない人々の諦観もある。おそろしいことにチェルノブイリの事故が、自分たち(ベラルーシ)の存在をヨーロッパなど他の世界へ主張する契機になったという思いを抱く人々もいる。放射能の汚染により「子供を生む罪」というそれまで全く意識されなかった罪が人々の意識にのぼった。事故について、忘れた方がいいのか記憶していたほうがいいのかさえわからなくなってしまったといった証言もあった。スベトラーナ・アレクシエーヴィッチは、なにかが起きたはずなのだけれど、それについて考えることができない状況(自分たちの体験や語彙が役には立たなかったこと)を「感覚の新しい歴史がはじまった」(26頁)とまで表現した。

 

私たちは知らなかったのです。こんなに美しいものが、死をもたらすかもしれないなんて。確かににおいはありました。春のにおいでも、秋のにおいでもない、なにかまったくほかのにおい。地上のにおいじゃありませんでした。のどがいがらっぽく、涙が自然にでてきました。

(前掲書138頁より引用)

 

放射能は目には見えないし、においもしない。今の私達がそう理解しているからこそ、この証言は重い。これは「こんなに美しいものが死をもたらすなんて」と題された証言で、原発の近く(プリピャチ市)で暮らし、原発の火災をベランダから見ていた人の言葉だ。実際ににおいがあるとか、ないとかは問題ではなくて、そう感じた人がいたということの重み。テンプレート的に言葉を使うことが多い日常生活を越えた事故の証言。

そして日常生活を越えた事故のあとも世界は終わることなく続き、その中で生きていかなければならないということがどんなことなのか、考え続けること。考えるための材料はあまり多くなかったかもしれない(この本が発表されたのは事故後10年ほど)。それでも言葉をなくしてしまうことができなかった人々の声、作者によって書き連ねられた「声」の数々から「祈り」を感じずにはいられなかった。