言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

<既知>なるものからにじみ出る<変>―コルタサル『海に投げこまれた瓶』

久しぶりにフリオ・コルタサルの短篇集を読んだ。やっぱり好きである。今回読んだのは、『海に投げこまれた瓶』という短篇集で、収録されている作品は以下の八作品である。

・「海に投げこまれた瓶」

・「局面の終わり」

・「二度目の遠征」

・「サタルサ」

・「夜の学校」

・「ずれた時間」

・「悪夢」

・「ある短篇のための日記」

 

海に投げこまれた瓶

海に投げこまれた瓶

 

 フリオ・コルタサル 著、鼓直・立花英裕 訳『海に投げこまれた瓶』(白水社、1990年)

 

今回はこの中から特に気に入った作品である「局面の終わり」「サタルサ」「ずれた時間」の感想を書いていこうと思う。本題に入る前に、訳者あとがきに引用されていたコルタサルの言葉を紹介しておこうと思う。「短篇の新しい形」というコルタサルの文章らしい。

 

「ぼくがこれまでに書いた短篇のほとんどが、ほかにいい名称がないこともあるが、いわゆる幻想的なジャンルに属している。十八世紀の哲学的・科学的オプティミズムが当然だと考えたように、つまり、法則、原理、因果律、明確な心理、正確に描かれた地理などの体系によっておおむね調和的に支配された世界のなかで、いっさいの描写と説明が可能であると信じる、あの欺瞞的なリアリズムに抵抗するものだ」

(『海に投げこまれた瓶』訳者あとがき194頁より引用)

 

訳者あとがきは次のように続く。

 

ついでコルタサルは、法則よりもむしろその法則の例外の探求に専念したアルフレッド・ジャリとの出会いを語り、それが「あまりにも素朴なリアリズムからはずれた文学」への志向を決定的なものにした、と述べている。幻想的なものはコルタサルにとって、因果律によって支配された現実的なもの以上のリアリティをもつものである。それは現実世界の一部をなしており、したがって、例外的な、非現実的な何ものかとしてではなく、われわれにとって<既知>なるものの隠れた姿として受け入れられるべきなのだ。

(前掲書、195頁より引用)

 

こんなわけなので、コルタサルの作品はなんだか変だ。変なのだが、ゆっくり読み返してみるとその変なものさえ、日常にしっかりはめこまれていることがわかる。変なものが、たとえばある日突然空から降ってきたりするようなものではなくて、あくまで私達が普段見ている風景の素材からにじみ出てくる、という感じなのだ。今回紹介する作品では「局面の終わり」は絵画とそれを展示する場からにじみ出た感覚を日常の別の地点にうつして意味を掬い取っていくように読めるし、「サタルサ」は回文の言葉が変形しながら現実へとにじんでくるし「ずれた時間」はある男女のすれ違いというよくある話をストーリーの筋にしつつ、それを思い出として「書き記す」という行為を通して生じた決定的な「ずれ」をにじませているのである。

 

■「局面の終わり」

 

二次元(絵)と三次元(現実の風景)を行ったり来たりするような作品で、絵が現実の風景ににじんできたり、現実の風景が絵ににじんでくるような感覚を味わうことができる作品だ。絵画と現実をはじめ、何もかも、すべての物が「相称性」を帯びているという感覚。作者は小説世界に流れる時間にさえ相称性を与えている。つまり「正午」を真ん中にして折ると、なんとなく重なってしまうような時間とそこにある風景が描かれているのだ。幾何学的な構造を持ったこの作品はゆっくり読み解いていくと細かな所にまで「相称性」を感じさせる要素が埋め込まれている。

ディアナという登場人物が「どこにでもあるような名前のその村」のカフェに立ち寄る所から小説は始まる。彼女の身の上はほとんど語られない。わかることと言えば彼女が何らかの喪失を抱えていることくらいだ。

 

「喪失(パーディード)」と、彼女は心のうちでくり返した。「デューク・エリントンのあの素敵な曲。でも、思い出すことすらできない。二重の喪失よ、お嬢さん。自分さえ喪失してしまった娘。四十にもなると、ひとつの言葉を口にしただけで泣けてくるのよね」

(『海に投げこまれた瓶』より「局面の終わり」17頁より引用)

 

「生きることが、純粋な受容になって」(16頁)しまったと感じる彼女は、「物を、あたかもこちらが見られているかのように見る」(17頁)、「村を歩き回るのではなく、村によって歩き回られるというあの感覚の再現」(22頁)というように、主体性を喪失したままに受容の感覚ばかりを研ぎ澄ませて村を歩いている。彼女の目に映る風景の描写が魅力的であるが、すべて引用することはできないので割愛させていただく(こういうところにコルタサル作品を読むことの楽しさがあるのだが……紹介できず無念)。

ディアナは美術館へ辿り着き、入場料を払って展示されている絵を観る。最初の部屋には4、5枚の絵があってそれらは、テーブルがひとつあって斜め上からの強烈な太陽光線によって照らされている、という主題の繰り返しだ。二番目の部屋には人物の絵(後ろ向きの人影)があった。その人影はたまたまそこを訪れた人間が大きな無人の館のなかを、ただ漫然と散策しているよう。それから、あまり明確でない庭園へと通じる広い出口が部屋の内景に結び付けられていた絵もあった。ここまで来て、正午を迎える。守衛がやってきて声をかけられ、彼女の観覧は中断されてしまう。二番前の部屋から次の部屋へと続く半開きのドア、そしてその先の部屋にある最後の一枚の絵を観ずにディアナは立ち去った。

再び町を歩くディアナの目は、美術館の絵にあったのとそっくりな回廊を見た。ためらうことなく庭園に入り、家の入口へ近づいて行った。「入場料を払っているのだ」という一文が読者に先に行った美術館の印象を強烈に思い出させる。

誰もいない家の中を漫然と散策する、奥の部屋のドアがしまっているのは美術館で最後の部屋を見なかったからだとディアナは思う。そのドアを開けて、彼女は部屋に入るとテーブルについてタバコをふかし始めた。「ディアナの背後のどこかで笑い声が聞こえ」(24頁)たような気がした。

再び美術館に行って、ディアナは最後の部屋を確かめた。二番目の部屋には男女のカップルがいて、小さな声で話し合っていた。

最後の絵には、一人の女が座っているテーブルと椅子の描写がなされていた。その絵を観てディアナはこんなことを思った。

 

「瞑想や眠りをはるかに越えて、ある投げやりな態度を見せつけていた。この女は死んでいる。垂れさがったその腕と髪。他の絵に見られた事物や存在の固定性よりも強烈な説明しがたい不動性」(26頁)

 

それから一度は車に乗って町を離れようと思ったのだけれど、結局ディアナはUターンしてもう一度あの家(美術館の絵にそっくりな家)へ向かう。そしてまたテーブルについてタバコを吸う。この反復は絵画のモチーフが繰り返されるのに似ている。

 

「太陽光線が壁をはい登り、彼女の体が、テーブルが、椅子が、ますます影を長くしていくのを見るのも気がきいているかもしれない。それとも、このまま、何も変化しないのだろうか。他のすべてのものと同じように、不動の彼女や煙と同じように、光線も動かず。」

(前掲書、29頁より引用)

 

この「不動」で作品は閉じられる。もうこれ以上、足したり引いたりすることをしない、この時点で作品が終わりを迎えているという「局面の終わり」は、彼女が作中で回想するオルランドという人物との関係性の終わり、それによる彼女の自己喪失までも含んでいるように思われてならない。

 

 

■「サタルサ」

 

『ネズミに罠を掛ける』(atar a la rata)、これは回文だ。原文は引っくり返しても同じ文言になる。しかし複数形にすると、回文ではなくなる。複数形はこうだ、『ネズミたちに罠を掛ける』(atar a las ratas)。これを反対から読むと『サタルサネズミ』(Satarsa la rata)になる。サタルサネズミ、それが何者かはさっぱりわからないが、単に回文を繰り返していただけでは見えなかった物事がほんのちょっと見方を変えるだけで(ここでは複数形にしてみただけで)見えるようになる。

……と、こんなくだらないことを考えているのはロサーノという男で彼はいつでもこんな遊びに熱中してしまう。物があるがままには見えず、いっさいが鏡に写ったように見えるらしい。

ロサーノをはじめ、この作品の登場人物は「あの虐殺のあと北部の谷を伝って逃亡して」きて今に至っている。彼らは今、ネズミ狩りをして暮らしを立てている。

自分たちの現在の状況と、回文遊びの言葉の重なりがとても面白い作品で、これ以上の説明はいらないように思う。

 

■「ずれた時間」

 

「ぼく」(アニバル)は書く、十二三歳の、子供のころの思い出を。友人のドロと彼の姉であるサラのことを書きつける。

 

「十二か十三歳の第七学級だったあのころ、ぼくたちは強い絆で結ばれた仲だったので、ドロについて書きながら彼と切り離して自分を感じることも、また、ドロについて書きながらページの外側に身を置いた自分を受け入れることも不可能なことだった。彼を見るということは即、ドロと一緒のアニバルであるぼくを見ることだった。」

(前掲書より「ずれた時間」108頁より引用)

 

ここから小説の大半は、バンフィールドという場所で過したドロとアニバル、そしてサラの淡い思い出の描写になるのだが、その思い出は、冒頭の「書く」という行為を通して言葉を与えられた風景である。

幼いアニバルはサラのことが好きだった。だけれどサラは年上のお姉さん的存在であり、ふたりの関係が恋人として発展することはなかった。やがてサラは結婚し、アニバルはブエノスアイレスへ引っ越すことになってしまい、ふたりの世界はずれてしまう。ふたりはブエノスアイレスで再会するのだけれど、ずれた時間はどうしようもなく、ぴったり重なり合うことはない。アニバルにはアニバルの生活があり、家庭もある。サラとは全然違った人生を歩みながら、ただサラのことを思い出して書き続けることしかできないのだ。

 

ある時点までは言葉たちは事実の世界にまたがり、太陽と夏をはらんで駆け回っていた。言葉=バンフィールドの中庭、言葉=ドロと遊びと河原。ひとつの忠実な記憶のざわめく蜂の巣。ただ、もはやサラでもバンフィールドでもなくなった時点に達したとき、書き記すことは日常的なものに堕し、思い出も夢も失われた実用的な現在と化して、それ以上でもそれ以下でもない生活そのものとなった。そのまま書き続けたいと思った。言葉もまた歩みつづけて、毎日訪れるぼくたちの今日、工学研究所での遅々とした仕事の日々ひとつである今日にいたることを受け入れて欲しかった。

(128頁より引用)

 

淡い思い出と現実の生活のずれ、それは言葉として書かれることで一層おおきなものになってしまうのかもしれない。取り返しのつかないくらい、決定的になった「ずれた時間」が読む者の前にくっきりと提示されてしまう。

作品構造の持つ厳格さと、思い出の淡さを一つの作品に共存させる、これはコルタサルにしか書けないと思った。

弔いのかたち―杉本裕孝「弔い」

人は二度死ぬ。一度目は生物として死んだ時、二度目は人に忘れ去られた時だ、なとどいうのは一体どこで聞いた言葉だったかあやふやだが、馴染のある感覚である。

杉本裕孝「弔い」という作品では、人は二度生きる。一度目は死ぬ前の生、つまりふつうに生きているという状態、二度目は死後、遺された誰かによって思い出される回想の中の生だ。こんなふうに書いてしまうと、なんだ、この作品は単なる「いい話」なのか、と思われてしまいそうだが、それだけではたぶんない。面白いのは、回想の中の生は別の角度(違う人間の回想)から見た時にイメージが百八十度変わってしまうこともあるということだ。

杉本裕孝「弔い」(文學界2016年11月号掲載)

文學界2016年11月号

文學界2016年11月号

 

 

作者はデビュー作「ヴェジトピア」から「花の守」、今作「弔い」まで終始、植物のイメージを大切に描いている。生命と花が、丁寧に重ねあわせていく所に書き手の個性があるのではないか、とそんな風に私は思う。

「ヴェジトピア」を思い出すような、ちょっとおかしな手紙から「弔い」は書き出される。

 

わたくしは佐藤三朗ともうします。さんろうです。たいがいはさぶろうと読まれます。

(杉本裕孝「弔い」冒頭より引用、文學界2016年11月号、94頁)

 

(ごめんなさい、さぶろう、と打ち込んで変換しました /小声)

 

この小説の主人公であるもうすぐ古稀を迎える主人公、佐藤三朗はある日自宅のポストに入っていたチラシがきっかけで「エンディングノート」を書きはじめる。「エンディングノート」と呼ばれるものの通信講座(?!)のチラシだ。書き上がった「エンディングノート」を手紙として送ると、ふれあいユートピア百日紅容子という人から心のこもった返事が届く。作品中で手紙は全部で五往復することになるのだが初めて百日紅容子から届いた返信にもかなり大きな違和感があった。というか、この往復書簡自体がかなりおかしい。「エンディングノート」というものが具体的にどういうものなのかよくわからないけれど、それは遺された家族に何かを伝えるという目的を持ったものらしい、というのは百日紅容子の手紙からわかる。その「エンディングノート」の文章を赤の他人である百日紅容子に送って、添削してもらうというのが違和感の正体だ。送ってしまった「エンディングノート」は二度と佐藤三朗の家族の目に触れることはない(それなのに三朗は無邪気に家族に読まれることを考えていたりもする)。しかも、三朗は当初「エンディングノート」に嘘を書き綴っていた。

彼が回想し綴る人生は申し分のないほど幸せなものだ。妻がいて、娘がいる。彼女達を一生懸命養ってきた三朗の人生も誇りに満ちたものだった。百日紅容子の添削(アドバイス)を経て、三朗の嘘はさらにふくらみ、娘婿、孫という実際には存在していない人物まで登場させてしまう。家族たちに囲まれて悠々自適の老後を過ごしているという三朗、しかし三朗の本当の生活は悠々自適とは程遠いものなのだ。妻(節子)は2年前に亡くなっているし、三十歳になる娘(美花)は独身、親の家を離れて仕事に邁進している。三朗はというと、印刷会社を定年退職した後、清掃員派遣会社で働き始めた。「月曜から金曜まで休みなく、早朝から夕刻まで働いて、給金はかつての半分にも満たなかった」(103頁)、とても悠々自適とは言えない暮らしぶりだ。家に帰ってもひとり、身の回りの世話をしてくれる人もなく、職場でも「サブちゃん」の愛称で呼ばれているが、そもそも彼は「さぶろう」でさえない。

こういう疎外状態に置かれた人にとって、百日紅容子という人物の書いてよこす返事がどれほど心に沁みただろうと考えると胸が苦しくなる。手紙を重ねていくうちに三朗は、妻が園芸の趣味を持っていたことに気がつく。仕事人間だったため、ほとんど家庭を顧みることのなかった三朗は妻との時間を生き直すように庭いじりを始める。

 

庭は生きている。死んでいない。これほどまでに美しい庭をこれまで見過ごしてきた己の愚かしさへの腹立ちよりも、どこかで諦めていた庭がいまも生きているということの安堵が優って、三朗は、みえないものに感謝するように、我知らず、天を仰いでいた。

(前掲書108頁)

 

そうして、日常生活の中に己の心を満たすものを見出した時、三朗は「妻はいまもまだ生きている」と思えるようになるのだ。一度死んだ妻は、ここから二度目を生きることになる。三朗が妻と生き直そうと思っているのに寄り添うように、妻が生前手入れをしていた庭は甦り金木犀の花が香り立ち、ひらく。

しかし、妻の三回忌の法事で三朗の中で二度目の生を享受していた妻は決定的に「死ぬ」。というか、法事のために三朗と娘の美花は久しぶりに顔を合わせて食事をするのだが、そこで娘によって語られた母(三朗にとっては妻)の姿は想像さえしないものだったのだ……。これを妻の裏切りと自分に言い聞かせるのか、それとも自分のいたらなさを後悔する材料とするのか。

三朗は、理想を書き綴っていた百日紅容子への手紙を打ち切るように「さようなら」と書いた。妻と生き直していたような淡い生活は消え、同時に手入れをされることのなくなった庭は再び荒れ果てる。百日紅容子からの最後の手紙から墓石の展示販売に引き寄せられた三朗は、そこに集う老人たちを乾いた眼差しで見つめる。そうして「三朗は、不意に、妻は、もう生きていない、死んでいる、そう悟った」。 

 

ああ、そういうことか。三朗は思った。

なんということはない。これが人の世の常であった。

三朗の中で、これまで百日紅先生と交わした文字がひとつひとつ、植物の枯れるように色褪せていく。どこからか吹きつける冷たい風にそれらは一斉に巻き上げられ、そのようにてんでんばらばらにされて意味を失った文字たちは、そのままどこか遠く知らない場所にいともたやすく吹き飛ばされていく。そうして、三朗の庭には跡形もない。

(前掲書131頁)

 

この小説の前半に書かれているのは「精神的な弔い」であった。そこには遺された人による想像や理想、願望さえもあり、自在に大きく膨らんでいく世界であった。そこでは死者がもう一度生きていた。しかし、小説は終わりのほうへ向かうにつれて「物質的な弔い」に移行していく。三回忌の法要や墓石など、動かし難く一定の形式が定められた物質的な弔いには、どこか人の心を置き去りにする冷たさがある。誰も彼もが同じようで、個別性が切り捨てられた世界は固く閉ざされた世界であるように私には思えた。そこへ放り込まれた時、人は決定的に死ぬ。

エンディングノート」というものが人を弔うよすがになるとすれば、この作品は弔いというものをいろいろな側面から掘り下げて描いているのだと思う。

 

細かいところだけど、私はこの作品で主人公が「鍵」を探してごそごそやっているシーンの描写が面白かったし、とても好き。

 

読書はひとを連れてくる、そうしてひとを連れ去っていく―稲垣足穂について

今回は稲垣足穂(1900-1977)を紹介しようと思う。

稲垣足穂『現代詩文庫1037 稲垣足穂』(思潮社、1989年)

稲垣足穂ちくま日本文学全集 稲垣足穂』(筑摩書房、1991年)

 

稲垣足穂 [ちくま日本文学016]

稲垣足穂 [ちくま日本文学016]

 

そもそも私が足穂を知ったのはごく最近、このブログ記事を書いたことがきっかけだった。

mihiromer.hatenablog.com

 

この記事にコメントをくれた人が「稲垣足穂」という作家を私に教えてくれたのだ。これはさっそく読んでみようと思った。そこで図書館で、稲垣足穂『現代詩文庫1037 稲垣足穂』(思潮社、1989年)、稲垣足穂ちくま日本文学全集 稲垣足穂』(筑摩書房、1991年)の二冊を借りてきた。

読むことも書くことも、基本的にはひとりで黙々とやっていることだと思うけれど、こうして時々思わぬ出会いがあったりして、それもまた楽しい。その楽しさを足穂風(?)に表現した雑文を書いてみたらこうなった笑。

 

読書はひとを連れてくる

ある本を読んでそれについて何か書いておくと しらないひとが「その本に出てくるそれ、その一文はあの本の別の一文に似ているね」なんて言う それで自分が読んだ本にでてくるのに似ているという「あの本の一文」を探すために図書館に行って 目当ての本を家まで連れてきて読んでみる 「あの本の一文」をようやくみつけたぞ! と思ってこうしてブログに書いていると ほら しらないひとがまたやって来る そうして気がつく 自分も読書に連れられていたと。

 

さて、本題。今回は稲垣足穂という小説家が書いた作品をいくつか引用しつつ、この作家らしいモチーフやイメージの一端でも紹介できたら良いなと思っている。

 

さあこれから管を吹きます、何が出るか消えぬうちに御覧下さい

(『現代詩文庫1037 稲垣足穂』10頁より「シャボン玉物語」の冒頭より引用)

 

稲垣足穂はお月様や星をよく使う。それも、美しいなぁなどと、人間が単に夜空を見上げるような書き方ではない。お月様と取っ組み合いをしたり、人々の集まりの中に星がいたり、土星が三つも出来上がったり……月や星というモチーフが私達人間と同じ目の高さというか、同じ平面に存在している。そこには特になにも説明はなく、それ故に不可思議な感覚(幻想と言ってもいいのだろうか、まだわからない)を楽しむことができる。

 

ある寒い一月のばん、公園の片すみにある酒場で、紳士連が新年宴会をひらいていました。宴のさいちゅうに、一人の紳士が、となりの紳士の耳元でささやきました。

「こんばんの集まりの中には、じつは人間に化けた星がまじっているよ」

(『現代詩文庫1037 稲垣足穂』96頁より「タルホ拾遺――クリスマス前菜として 第一話 冬の夜のできごと」の冒頭抜粋)

 

同じ連作の「第六話 ホテルの一夜」では天地がまったく逆になっていて、ホテルの窓辺から首を出すと、眼下には星屑、上方には自動車の列……「自分は、窓ぶちをつかめようとするより早く、高い所に逆さにひっかかっているホテルの玄関口めがけて、加速度を加えて舞い上がって行った。」(前掲書102頁)なんていうのもある。窓から落ちていくのではなく、舞い上がって行く、こんな所にも足穂のお月様や星を人間と同じ平面に置いてしまえる感性をみることができる。つまり、物の捉え方が自在なのだ。星は上、自分は下という既成感覚から自由になっている。しかも、ある瞬間にふっと突然、自由になる。目の前に書き連ねられるその唐突さに時々ついて行けなくなりながらも、何故か読後に印象に残る作品だった。

 

街かどのバーへ土星が飲みにくるというので しらべてみたらただの人間であった その人間がどうして土星になったかというと 話に輪をかける癖があるからだと そんなことに輪をかけて 土星がくるなんて云った男のほうが土星だと云ったら そんなつまらない話に輪をかけて しゃれたつもりの君こそ土星だと云われた

(『ちくま日本文学全集 稲垣足穂』所収「一千一秒物語」より「土星が三つ出来た話」55頁)

 

稲垣足穂が生まれた1900年頃、日本では二宮忠八(1866-1936)という人物が活動している。1889年に「飛行器」なるものを考案し、日本の航空史に一歩を記した。ゴム同動力による「模型飛行器」を製作するも、その後は周囲の理解が得られず人間が乗れる実機を完成させることはできなかった。しかしその後も世界的な流れもあり、日本では飛行機というものに着目する者が多く、たとえば1901年には矢頭良一という人物が「飛学原理」の論文を著して森鴎外に飛行機製作の構想を明らかにしているそうだ。その後の歴史を知る私たちは、日本の飛行機製作が世界を追い抜く水準の進歩を遂げることを知っている(なお日本で最初の近代的航空機による飛行は1909年)。

このような時代の空気の中で、稲垣足穂は興味深い発言をしている。「空の美と芸術に就いて」(「文芸時代」1926年4月号初出)において、空を飛ぶということについて、「私たちの平面の世界を立体にまでおしひろげようとする努力である」と書いた。空への憧れも随分感じられる文章であった(なおこの作品は『現代詩文庫1037 稲垣足穂』に入っている)。

 

こうして幾十世紀もの間さびしく鳥類のみにまかせたうつくしい空は、私たちにとって知られざる理想郷であった。だから今日、飛行機をとばせてこの別世界にはいった飛行家の胸のなかには云いしれぬ美的観念が生ずるであろう。」(前掲書113頁)

「新社会建設にあたって常に重大な意義をもつ芸術が、かぎられた世界をやぶってゆくようには、単なる遊戯品が軍用機関のように考えられがちな飛行機というような種類についても、人々が進んで内面的に考察されることをのぞむ。そんなことがやがて私たちのいよいよ多端な芸術の道をひらいてゆく一助ともなるなら、望外のよろこびとする。」 (前掲書117頁)

 

ふと気がついたのだが、『星の王子さま』で有名なアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ稲垣足穂と同じ1900年の生まれである。どちらも飛ぶということを突き詰めて、自らの芸術観念を打ち出したのかもしれない。

 

稲垣足穂にとって処女作である一千一秒物語が最も重要であるらしい。章タイトルのついた掌篇の作品群だ。「朝日新聞」1969年4月8日夕刊に掲載された「無限なるわが文学の道」(『現代詩文庫1037 稲垣足穂』所収)において、西脇順三郎の「詩とは互いにかけ離れたもの、正反対のもの、意想外なもの同士の連結である」という説を引き合いに出しつつ、自らにとって考えられないものの連結は人間と天体である、と書いている。

 

「だから私の処女作「一千一秒物語」の中では、お月さんとビールを飲み、星の会合に列席し、また星にハーモニカを盗まれたり、ホウキ星とつかみ合いを演じたりするのである。この物語を書いたのが十九歳の時で、以来五十年、私が折にふれてつづってきたのは、すべてこの「一千一秒物語」の解説にほかならない。」

(「無限なるわが文学の道」(『現代詩文庫1037 稲垣足穂』所収、131頁より引用)

 

最後に、このブログを通して私が稲垣足穂を知るきっかけとなった作品を引用して終わろうと思う。この作品のお月様も、単に空に浮いているだけではなく、私達人間の感覚に近い世界をうごいている。天空にある者を地上に引きずり降ろして転がすという、足穂の感覚だ。さらにこの作品では「自分」が分裂したような感覚も味わえる(足穂の作品にはこういう筆致のものもいくつかある。自分で自分を落っことして自分がいなくなってしまう、とか)。私のこんな読書感想ブログが、誰かのために読んだことのない本を連れてくることができたら、幸せである。と、同時に私をどこかへ連れていく本に出会えるとなお幸せである。

 

ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた 坂道で靴のひもがとけた 結ぼうとしてうつ向くと、ポケットからお月様がころがり出て 俄雨にぬれたアスファルトの上をころころころころどこまでもころがって行った お月様は追っかけたが お月様は加速度でころんでゆくので お月様とお月様との間隔が次第に遠くなった こうしてお月様はズーと下方の青い靄の中へ自分を見失ってしまった

(「一千一秒物語」より「ポケットの中の月」、『ちくま日本文学全集 稲垣足穂』25頁-26頁より引用)

「声」は「祈り」だった―スベトラーナ・アレクシエーヴィッチ『チェルノブイリの祈り』

今更、私のブログで話題にする必要があるのだろうか? そう思ってブログの更新をためらってしまうほどに有名な本、『チェルノブイリの祈り』。作者スベトラーナ・アレクシエーヴィッチは昨年(2015年)ノーベル文学賞を受賞したベラルーシのノンフィクション作家である。今回紹介する本『チェルノブイリの祈り』。福島の原発事故、そして作者のノーベル賞受賞によって日本でも注目を集めた本で、すでに多くの人がインターネット上で様々なコメントを寄せている。

 

スベトラーナ・アレクシエービッチ 著、松本妙子 訳『チェルノブイリの祈り 未来の物語』(岩波書店、1998年)

 

チェルノブイリの祈り―未来の物語

チェルノブイリの祈り―未来の物語

 
チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)

チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)

 

 

最近、作者が来日して東京大学で講演をしたそうで話題になっていた。

詳細はこちらをどうぞ↓↓

東京新聞:「国は人命に全責任を負うことはしない」 アレクシエービッチさん、福島で思う:社会(TOKYO Web)

 

今回当ブログで紹介するにあたり、私が引用元として使用するのは1998年に岩波書店からでた版である。

 

チェルノブイリの祈り』は読み通すのにとても時間がかかった。文字そのものを追っている時間よりも、じっと考えている時間のほうがずっと長かった読書体験になった。読みながらどうしても考えてしまう、フクシマのこと。そしてこれからのこと。

チェルノブイリの事故は1986年4月26日午前1時23分58秒に爆発が起こった。第四号炉の原子炉と建屋が崩壊した事故で、事故そのものの規模もさることながら、事故後の放射能汚染の問題も含め、科学技術がもたらした20世紀最大の惨事とも言われている。

この本には事故当初の生々しい証言も掲載されている。爆発直後、消火作業に当たった消防士の妻の証言や、事故処理に関わった人々の記憶は忘れてはいけないものだと思う。この本について「科学的ではない」という意見を持つ人もいるだろう。たしかに、その通りである。この本は「科学的」な数字に主眼が置かれてはいない。事故の概要よりも先に、人々の「声」が書かれているチェルノブイリの事故に関しては本書の最後のほうに「事故に対する歴史的情報」という章が掲載されている。けっして長い章ではなく、あくまで人々の証言のあとに置かれている)。

作者自身、「見落とされた歴史について――自分自身へのインタビュー」という章でこう語っている。

 

この本はチェルノブイリについての本じゃありません。チェルノブイリを取りまく世界のこと、私たちが知らなかったこと、ほとんど知らなかったことについての本です。見落とされた歴史とでもいえばいいのかしら。私の関心をひいたのは事故そのものじゃありません。あの夜、原発でなにが起き、だれが悪くて、どんな決定がくだされ、悪魔の穴のうえに石棺を築くために何トンの砂とコンクリートが必要だったかということじゃない。この未知なるもの、謎にふれた人々がどんな気持ちでいたか、なにを感じていたかということです。チェルノブイリは私たちが解き明かさねばならない謎です。もしかしたら、二十一世紀への課題、二十一世紀への挑戦なのかもしれません。人は、あそこで自分自身の内になにを知り、なにを見抜き、なにを発見したのでしょうか? 自らの世界観に? この本は人々の気持ちを再現したものです、事故の再現ではありません。

(前掲書、24頁より引用)

 

福島の原発事故のあと、放射能に汚染された廃棄物をめぐって、「感情論ではない」という言葉がメディアなどを通してしばしば聞こえてきたのを思い出した。それから、東北の漁業、農作物への風評被害。漠然とした放射能へのおそれと、それに対抗するための言葉があちこちでぶつかり合っていた(ちなみに私は東北産だろうが三陸産だろうが、気にはしていなかった)。「基準値」という言葉もよく聞こえてきた時期が確かにあった。そういうことを思い出してはじめて、今の私は大きな事故に直面していたのだということを考えることができる(なんて無責任なんだろう、自分)。

 

話が少し逸れてしまったが、私は「科学的」であることを重視するのと同じくらい、「感情的」であることも大切にしたいと思っている。以前、東日本大震災津波に関して奥野修二さんが書いたルポルタージュを紹介したことがある。あのルポも人々の感情を描いたものだった。

 

mihiromer.hatenablog.com

 

チェルノブイリの祈り』という本も、ひとつひとつはちいさな言葉であるが、記録され読まれることで大きな力を持ちうる……そういう強さを感じる人々の証言を集めた大切な記録なのだ。

だから、この記録だけをもってチェルノブイリを理解することはできない。あの事故を理解するにはもっと多くの客観的なデータを解析しなければならないだろうし、あの周辺の世界史的な出来事や風土をおさえておく必要もあるかもしれない。

「理解する」というのはなかなかやっかいなことで、どの時点で「理解したことになる」のかわからないまま対象に向き合わなければならない。そこには「人の感情」も含まれる。私は科学的な数値と同じくらい、人々の感情についても目を向けていかなければならないと思う。もし、作者が書かなければ、この本に掲載された多くの言葉が私達のところまで届かなかったかもしれないし、後世に残せなかったかもしれないと思うとぞっとする。

祈りとは声である、と読み終わってから素直に思った。

チェルノブイリの祈り』の目次に注目してみよう。こんなふうになっている。

 

孤独な人間の声

見落とされた歴史について

  1. 死者たちの大地

   兵士たちの合唱

  2.万物の霊長

   人々の合唱

    3.悲しみをのりこえて

           子どもたちの合唱

孤独な人間の声

事故に対する歴史的情報

エピローグに代えて

訳者あとがき

 

二回ある「孤独な人間の声」、はじめは事故直後、消火活動に当たった消防士の妻の証言。後半は事故処理作業者の妻の証言。このふたつの「声」に挟まれて1章から3章まで、間に「合唱」という章を挟んで人々の証言は続く。どんなにちいさくとも、人間の声が途切れることなく、この本は終わる。なぜなら「声」は「祈り」だから。

チェルノブイリの事故の前と後で、人々が抱く世界観は大きく変わってしまった。事故を境にして大きな断絶を経験した人々のアイデンティティは汚染された土地とともに崩れて失われてしまったかのような印象を受けた。しかし、それでもなお生き続けなければならない人々の諦観もある。おそろしいことにチェルノブイリの事故が、自分たち(ベラルーシ)の存在をヨーロッパなど他の世界へ主張する契機になったという思いを抱く人々もいる。放射能の汚染により「子供を生む罪」というそれまで全く意識されなかった罪が人々の意識にのぼった。事故について、忘れた方がいいのか記憶していたほうがいいのかさえわからなくなってしまったといった証言もあった。スベトラーナ・アレクシエーヴィッチは、なにかが起きたはずなのだけれど、それについて考えることができない状況(自分たちの体験や語彙が役には立たなかったこと)を「感覚の新しい歴史がはじまった」(26頁)とまで表現した。

 

私たちは知らなかったのです。こんなに美しいものが、死をもたらすかもしれないなんて。確かににおいはありました。春のにおいでも、秋のにおいでもない、なにかまったくほかのにおい。地上のにおいじゃありませんでした。のどがいがらっぽく、涙が自然にでてきました。

(前掲書138頁より引用)

 

放射能は目には見えないし、においもしない。今の私達がそう理解しているからこそ、この証言は重い。これは「こんなに美しいものが死をもたらすなんて」と題された証言で、原発の近く(プリピャチ市)で暮らし、原発の火災をベランダから見ていた人の言葉だ。実際ににおいがあるとか、ないとかは問題ではなくて、そう感じた人がいたということの重み。テンプレート的に言葉を使うことが多い日常生活を越えた事故の証言。

そして日常生活を越えた事故のあとも世界は終わることなく続き、その中で生きていかなければならないということがどんなことなのか、考え続けること。考えるための材料はあまり多くなかったかもしれない(この本が発表されたのは事故後10年ほど)。それでも言葉をなくしてしまうことができなかった人々の声、作者によって書き連ねられた「声」の数々から「祈り」を感じずにはいられなかった。

 

自分で自分をなげるように―エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』

この社会に生きていると、嫌な思いをすることが多々ある。困難が降りかかってくることもしょっちゅうだ。そういう諸々の面倒事を、こんなふうにさらっとかわして生きていけたら、どんなに幸せなことだろう、と思ってしまう。

 

彼らと争ってみても全然歯が立たないことは火をみるより明らかだったので、わたしは三十六計逃げるにしかずとばかりに、命からがら一目散に逃げ出した。だが、ものの三百ヤードもいかないうちに、わたしは、彼らにとっ捕まってしまい、まわりをグルッととりかこまれ、袋のネズミ同然だった。そこで彼らがわたしに何か手を出す前に、わたしは自分を、さっさと、平たい小石に姿を変えてしまい、自分で自分を投げながら、故郷への道を急いだ。

エイモス・チュツオーラ作、土屋哲 訳『やし酒飲み』岩波文庫2012、160頁-161頁より引用)

 

と、こんなふうに書き出したブログの記事であるが、別に「生き方」について自分の考えをとやかく言うつもりはない。

今回はわたしがはじめて読んだアフリカ文学の小説作品、エイモス・チュツオーラの『やし酒飲み』の感想を書きたいと思う。

 

やし酒飲み (岩波文庫)

やし酒飲み (岩波文庫)

 

 

エイモス・チュツオーラ(1920-1997)はナイジェリアの小説家。今回読んだ『やし酒飲み』が代表作で、wikipediaによれば「ヨルバ人の伝承に基づいた、アフリカ的マジックリアリズムと言われる著作で知られ」ているそうだ。岩波文庫版にも収録されている訳者の解説によると鍛冶屋をしていたこともあるという。同解説にハロルド・R・コリンズの指摘が引用されていた。それによると、「チュツオーラは、鉄を鍛える仕事が大いに気に入り、金属を曲げたり、型どったりすることに、一種の芸術的喜びを感じていた」とのこと。訳者は「農業中心のアフリカ社会では、鍛冶屋は、生活と芸術が一体化した職業であり、同時にヨーロッパの錬金術的な魅力をもった職業だといえる」と書いている。

先に引用した『やし酒飲み』の一節は私がとても気に入った部分なのだが、「自分で自分を投げながら」逃げるなんて、日本にいるとなかなかできない表現だと思う。とても楽しい。外国文学を読んでいると日本の、日本人の道徳観やら倫理観から自由になれると感じる瞬間がある(逆に、今回はじめて読んだこの作品に現れるアフリカ的な感覚は、解説を読むまでまったくわからなかった。たとえば森林(ブッシュ)への恐怖とそこからの価値基準の転換、アフリカ人の行動倫理の主体性についてや、縄張りの意識など。詳しくはこの本の解説に書かれている)。

『やし酒飲み』には対人関係のしがらみのようなものがほとんどない(語り手「わたし」とその妻の間に少し見られるが、物語のメインではない)。主人公が旅に出るのは自分の死んだ父親に会いに行くためではなく、父が生前主人公のために雇ってくれたやし酒造りの名人を「死の町」から連れ戻すためなのだ。しかも、連れ戻したい理由はあくまで主人公の側にあり(欲望)、やし酒造りの名人が死んでかわいそうだ、といった他者への眼差し(同情)は皆無である。やし酒造りの名人が死んでいるのを知った主人公はこんな感じだ。

 

彼(やし酒造りの名人)がそこに死んでいるのを見てまずわたしが最初にしたことは、もよりのやしの木に登り、自分でやし酒を採集し、現場に戻るまえにやし酒を心ゆくまで飲む事だった。それから、やし園までついてきてくれた友だちの助けをかりて、やし酒造りが倒れていたやしの木の根っこに穴を掘って、彼を埋めてお墓をつくり、それからわたしたちは町へ帰った。

(前掲書、8頁-9ページ)

 

主人公である「わたし」は物語の冒頭によると、「十になった子供の頃から、やし酒飲みだった」らしい。「やし酒飲み」として一貫した態度で事件に臨む。多和田葉子はこのことについて解説「異質な言語の面白さ――飢餓と陶酔の狭間で」において、「『わたしは、やし酒を飲む人間である』というのは随分ラディカルなアイデンティティーの提示だと思う。」(前掲書227頁)と述べている。

この小説の登場人物たちの多くは自分自身に忠実で、やりたいことをやりたいままにやっている、と感じた。旅人を助ける白い木の「誠実な母」は親切であるが、それに対してくどくどした感情は書かれない。ただ親切にしてくれた、という事実だけが残されている。他者との関係性というものに対して、とてもドライな作品だ。この関係性のしがらみのなさ(=自由さ)に、私は日本の社会生活にはない気楽さを感じた。

しかし、一切の関係性が存在しないというわけではない。この作品の登場人物同士には奇妙な貸借関係が成立することがある。たとえば「完全な紳士」の物語。この紳士は身体のあちこちのパーツを方々から借りることで完全な紳士となっている(本当は一個の頭蓋骨でしかない)。借りたということは当然返す描写がある。「左足を借りた所へやってきた時、彼は左足を引っこ抜いて、所有主に渡し、借り賃を払い」という具合だ。

それから「死の町」を目指す「わたし」とその妻は旅の途中で「死を売り渡し(お値段七十ポンド十八シリング六ペニー)」たり、一ヵ月三ポンド十シリングの金利で「わたしたちの恐怖を貸与」したりする。「死」や「恐怖」というものさえ売ったり、貸したりすることができてしまうらしい……(しかも金額の設定がやけに具体的である。作品冒頭ではタカラ貝だけが貨幣として通用していた時代もあったことがうかがえるのだが……)。

ちなみに「恐怖」は借主から取り戻すことができたのだが、売り払った「死」は結局買い戻すことができないまま物語は進行する(つまりここから先の部分は恐怖を感じても死ぬことはない、ということになる)。

この「死なない」ということが主人公の自信の根拠になっている。

前半部分では「わたし」は自分が「この世のことはなんでもできる神々の<父>」であると語っている。そしてそのことが自信や勇気の源泉・行動の原動力になっていた。さらに後半では、「わたし」は「不死身」の属性を手にし、それ故に直面する危機に真正面から臨んでいくことになる。解説で説明されるアフリカ人の「モラル」、言い換えると「恐怖」に対する人間の主体性の誇示というのはこのあたりに見られるアフリカの自信、気概のことなのだろう。

「ですます調」と「である調」が入り混じった奇妙な訳文に読み始めたばかりの頃は違和感ばかり抱いていたが、それにも次第に慣れてきて、しまいにはすっかり語り手たちの旅路に寄り添いたい気持ちになっていた。文化も歴史も違う国、感覚も私達とはずれている国の小説は、時に読み手を現実社会のしがらみから解放してくれる。

私は自分で自分をなげるような自由を感じつつ、『やし酒飲み』の文字の上をわたっていた。

人は語り、そして生きる―奥野修司「死者と生きる―被災地の霊体験」

今朝、午前六時二分、気象庁は東北地方太平洋沿岸に津波警報・注意報を発表した。同5時59分頃福島県沖で発生したマグニチュード7.3、最大震度5弱地震の影響だ。

ちょうどこの時私は月刊新潮に三回にわたって掲載された奥野修司「死者と生きる―被災地の霊体験」というルポルタージュを読み返していたところだった。雑誌から顔をあげて、息抜きするくらいのつもりでスマホのニュースをみると、津波警報・注意報の文字。本当に偶然だったのだが、そんな偶然にさえ物語を与えたくなるのが人間なのだろうと思う。

この「死者と生きる―被災地の霊体験」というルポには、著者が東日本大震災の被災地に実際に出向き、津波で大切な存在を失くした人々に取材した貴重な証言が記録されている。著者は「人は物語を生きる動物である」ということを強調していた。

 

人は物語を生きる動物である。そのことはこの旅を終えてあらためて確信した。最愛の人を失ったとき、遺された人の悲しみを癒すのは、その人にとって「納得できる物語」である。納得できる物語が創れたときに、遺された人ははじめて生きる力を得る。不思議な物語はそのきっかけにすぎない。亡くなったあの人と再会することで、断ち切られた物語は、生者によってあらたな物語として紡ぎ直される。その物語は他者に語ることで初めて完璧なものになるのだろう。

(連載第1回、新潮4月号掲載、195頁より引用)

 

タイトルにあるように著者は津波によって大切な存在を失った人々が感じた「霊体験」を集めて紹介している。取材を始めた当初は「霊体験」というよりは「幽霊体験」といったほうが良く、不思議な体験というよりは恐怖体験と言った方が適切だと思われるような話が多かったそうだ。それが、取材を重ねていくうちに恐怖よりももっと近しい感覚を纏った「霊体験」が集まってくるようになったらしい。

それぞれ個別の体験については全三回に分けて掲載された「死者と生きる―被災地の霊体験」をご覧いただければと思うが、証言の大まかな筋を要約すれば(本当は要約なんかしては意味がないのだが。何せ、人々が個別にそれぞれもつ「物語」こそ、被災者それぞれの生きる力になったのだから。)こんな具合になる。

津波によって大切な人を失くした人々は落ち込んだり、途方にくれたり、あの時どうして助けてあげられなかったのか? と言った堂々巡りの自責の念に駆られてしまったりしていた。そんな時、ふと不思議な体験をするのである。亡くなった人が夢に現れたり、亡くなった人が、あたかも目の前の風景、そこに「いる」かのような現象が起こったり……。届くはずのない死者からのメール、そして電話……。このような不思議な出来事は、しかし恐怖体験ではなかった。証言をする生き残った人々は不思議な体験をしたその時に「死者と再会」していたのだ。生と死の境界が消え去るように、日常の中に死者の存在が滲む。そうしてその再会から、死というものが決して遠くに隔たった別個の存在ではないと確信した時、人は生きる力を得る。

 

著者がこのルポを書いた意図を第三回(新潮10月号掲載)で明確に書き記している。「津波で逝った大切なあの人と、共に生きようとしている人の物語を記録することだった。」(引用)と。不思議な体験のひとつひとつが丁寧に拾いあげられ書き記されている。もし、筆者が聞かず、書かなかったとしたら、被災者の死とともに消え去ってしまっていただろういくつもの「物語」が大切におさめられていて、このルポルタージュは私にとって、一読した時から忘れられないものになっていた。

被災者の中には自身の不思議な体験を東北地方に残る山岳信仰(葉山信仰)と重ねた人がいた。また、オガミサマという沖縄のユタや恐山のイタコに似た「口寄せ」や「仏降ろし」を職業とする霊媒師の存在についても触れられている。いにしえの日本人が死を「逝く」と表現したことや、「ご先祖様に申し訳ない」という倫理観についても触れられており、それらの記述から、日本人の集合的無意識としてある「あの世」とのつながりというものに焦点があてられる。「あの世」がどこか「お隣さん」のような存在として実感される経験というものは確かに存在すると思う。

 

かつて日本には生者と死者は共に生きるという感覚があったように思う。いわば死者と生者の共同体である。それがまだ東北に残っているのかもしれない。亡くなった人との再会は、大切な人を死なせて後悔している生者が、あの世の死者と和解する場であり、死者とともに生きていることの証でもある。だからそれがどんなかたちであっても、大切な人との再会を祝福してあげたいと思う。そのとき生者は、死者と共に自ら新たな物語を紡ぎだせるはずだから。

(第1回、新潮4月号掲載194頁より引用)

 

亡くなった人に「再会する」なんて、そんな話はそう簡単にしゃべれなかった、そんな風に証言した人もいた。自分のかけがえのない「再会」についていくら熱を込めて他人に話しても「作り話」だと言われてしまう。そのことが悔しく、またそのせいで傷つくこともあるだろう。現代日本においては「あの世」という非科学的な存在自体が「うさんくさい」と片付けられてしまいかねない。だがこういった合理主義を越えた話を聞いてもらうことが、遺された人々にとって重要なグリーフケアになり得るのだ。物語にとって信憑性などどうでもいい、ただそれを経験したひとがいて、それを語ってくれるひとがいて、その物語を記録したひとがいた。そんなことに目頭があつくなる連載だった。

 

人間は本来、合理性と非合理性のバランスの中で生きてきたはずである。無理に合理的に解釈しようとするから、不思議な体験をした人たちは幻覚かせん妄を見たことにされてしまうのだ。僕は、オガミサマを信じる文化が残っていることをうらやましく思う。

(第1回、185頁より引用)

 

筆者は不思議な体験をした方とは最低でも三回は会うことにしていたそうだ。この理由として筆者は「人は物語を生きる動物であると書いたが、その物語がどう変化するかを確かめたかったからだ」と書いている。実際に半数の方の話に微妙な変化があった。話し始めた時は漠然と「にこっと笑った顔」が見えたような気がするという言い方をしていたものが、三回目に会ったときは「見た瞬間に(亡くなった)お父さんだとわかった」という言い方に変わっていた。変化したからと言ってはじめの話も、後の話もどちらも事実であることには変わりない。

 

「人は物語を生きる動物だが、その物語はけっして不変ではない。常に自分が納得できる物語に創り直されているのだ。創り直すことで、遺された者は大切なあの人と今を生き直しているのである。」

(第2回、新潮9月号掲載200頁より引用)

 

さて、このブログの管理人である私の携帯電話にも悲しい番号がいくつも残されている。震災以後、繋がらなくなってしまった電話番号や繋がらないことがわかってしまって確かめることさえしなかった電話番号、そんな「今はもう使われていない数字の羅列」がいくつもある。この番号たちをアドレス帳から削除せずに、そのまま残しておく私は意味のない数字の羅列に何か意味(物語)を与えようとしているのかもしれず、それは墓碑のような「死の印」であると同時に、かつてその番号の背後に確かにいたあの人たちの顔「生の印」を忘れないように刻み付けておくためのもののようである。

今朝、奥野さんの文章を読み直している最中に地震津波が起こったという偶然にもひそかに何か、意味を与えたいのかもしれない。

最後に、「死者と生きる―被災地の霊体験」の第3回(新潮10月号掲載)で紹介されていた東北大学災害科学国際研究所の川島秀一教授の言葉を引用しておこうと思う。

 

気仙沼駅を降りて、海側へ少し歩くと市役所が見えてきます。江戸期に入るとそのあたりから埋立てられていき、町が形成されました。おそらく今回の津波でやられたところは埋立てられた土地だったと思います。もともとこのあたりはリアス式の土地ですから、平地なんてなかったはずです。自然を改造しても、海は必ず取り戻しに来るということを覚悟したほうがいいですね」

(第3回新潮10月号掲載176頁より引用)

 

奥野修司「死者と生きる―被災地の霊体験」

(第1回新潮2016年4月号、第2回新潮2016年9月号、第3回新潮2016年10月号、掲載)

 

2017年9月30日追記。

単行本化されていたようです。

 

魂でもいいから、そばにいて ─3・11後の霊体験を聞く─

魂でもいいから、そばにいて ─3・11後の霊体験を聞く─

 

 

名づけられた様々な魔法に放り込まれた遍歴の騎士―セルバンテス『ドン・キホーテ』後篇感想④

今回の更新で『ドン・キホーテ』後篇に関する一連の更新は終りになります。前篇も合わせれば随分とこの機知に富んだ郷士に振り回されていたような(汗)

 

ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)

 

セルバンテス 著、牛島信明 訳『ドン・キホーテ』後篇 岩波文庫、2001年

 

彼の死を見とどけた司祭は公証人に、世間でドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと呼びならわされていた善人アロンソ・キハーノは、天寿をまっとうしてみまかったということを、書きつけにして証明してもらいたい、と頼んだ。シデ・ハメーテ・ベネンヘーリ以外の作者が不届きにもドン・キホーテをよみがえらせ、彼の武勇伝を果てしなく書き続ける可能性を排除したいからだ、というのがその理由であった。

(前掲書、74章412頁)

 

こんなことが後篇の最後のほうに書かれているのだけれど、それというのもセルバンテスが存命中にでさえ、『ドン・キホーテ』続篇という贋作が世に出回ったからだ(この贋作の存在も後篇の物語の中に取り込まれている)。それだけでなく、この古典はその後の近代小説の成立発展に大きく寄与し、ことあるごとに見直され論じられてきた作品でもある。私がそもそも『ドン・キホーテ』を読もうと思ったのは自分の好きなラテンアメリカ文学の作家たちがみんな、多かれ少なかれ影響を受けているらしいことを知ったからだった。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの作品に「ドン・キホーテの作者、ピエール・メナール」という短篇がある(『伝奇集』収録)が、この作品は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』を一字一句変えずに現代世界でもう一度書くというのはどういうことになるのか? まるで批評のように書かれた作品である。全く同じテクストが、背景となる時代や文化の違いによってどのように変質するのか、書くこと読むことがどういうことなのか、を書いた変な作品である。カルロス・フエンテスセルバンテスまたは読みの批判』も読むことや書くことについて、背景となる時代や文化と合わせて考えることで再検討を加えている(セルバンテス論の白眉とも評されるこの書物は、我々読者に「ドン・キホーテ」の読みの可能性を提示している)。

 

前置きがとても長くなってしまったが、それだけこの作品が後の時代に与えた影響は多く、今でも多くの人を「読む・書く」という営みの中へ引きずり込んでいるのではないだろうか。今回は以下の二点について書いていきたい。

・名づける、ということで作り上げられる世界の枠組み

・『ドン・キホーテ』にみられる魔法のしくみとその性質

 

 

■名づける、ということで作り上げられる世界の枠組み

 

ドン・キホーテは名づけるのが大好きだ。なぜなら「名づけ」という行為によって彼の大好きな物語がはじめて駆動するからである。前篇において、冒険の旅に出る前に彼は遍歴の騎士としての自分の名前、愛馬の名前、そして思い姫の名前をつけた。この名づけによって冒険(物語)が始まるが、後篇にも何度か「名づけ」のシーンがあるので紹介したい。

後篇の旅でドン・キホーテと従者サンチョ・パンサは、とある公爵夫妻の城(前篇であれほどドン・キホーテが執着をみせた本物の城である)に辿り着く。この公爵夫妻は『ドン・キホーテ前篇』の読者であり、ドン・キホーテの存在を知っていた。知っていたからこそ、城に招待し、歓待した。何故ならドン・キホーテを愚弄して楽しもうと思っていたからだ。公爵夫妻は様々な芝居を用意し、ドン・キホーテを騙していくのだが、そのひとつに「木馬クラビレーニョの冒険」がある。≪快速(アリヘロ)≫クラビレーニョとは、木材(レーニョ)でできていて額に大きな栓(クラビーハ)をつけており、しかも脚の速い(リヘーロ)ことを示しているもので、名前と実体がぴったり、「名前に関しては音に聞こえるロシナンテと十分に肩を並べることができる」(40章253-254頁)というもの。なにかといえば、公爵夫妻の悪ふざけのひとつで、ドン・キホーテを騙すために用意された木馬なのだが、この木馬は魔法の力によって空を飛び、少しも揺れることなくものすごいスピードで目的地へ辿り着くことができるという……(勿論、公爵夫妻の嘘である、本当にただの木馬)。これにまたがって目隠しをされたドン・キホーテとサンチョがしていた(と信じた)冒険が「木馬クラビレーニョの冒険」の物語である。この部分にも「クラビレーニョ」に関して立派に名づけがされてから冒険物語が始められている(ちなみに名づけたのは嘘をでっちあげた公爵夫妻だろう)。参考までに前篇第一巻よりロシナンテの名づけについて書かれた部分を引用しておこう。

 

かくして記憶をたどり、想像をはたらかせて、数多くの名前をこしらえたり、消したり、削ったり、付け足したり、こわしたり、またでっちあげたりしたあげく、ついにロシナンテと呼ぶことにした。彼の見るところでは、崇高にして響きの高いこの名はまた、この馬が以前(アンテス)は駄馬(ロシン)であったことを示すと同時に、現在は世にありとある駄馬(ロシン)の最高位にある逸物(アンテス)であることをも表しているのであった。

(『ドン・キホーテ』前篇1章、岩波文庫版51頁より引用)

 

この他にも後篇には名づけに関して面白いエピソードがある。銀月の騎士との決闘に敗れたドン・キホーテは遍歴の旅をしばらくやめることを決意するのだが、その間代りにやりたいと思ったことが牧人生活である。それをはじめるにあたってもドン・キホーテはちゃんと新しい名前を用意していた。≪牧人キホーティス≫(ドン・キホーテ)、≪牧人パンシーノ≫(サンチョ)、≪牧人サンソニーノ≫または≪牧人カラスコン≫(サンソン・カラスコ)、≪牧人ニクローソ≫(床屋のニコラス)、≪牧人クリアンブロ≫(司祭)などである。結局、牧人生活を始める前にドン・キホーテが死の床につくため、この名づけから物語がはじまることはなかったが、やはり物語に先行して名づけということが重要であったらしい、と思えてくる。

そういえば、現代日本の我々だって、子供の名づけを始めとして何かと名づけには慎重である。小説書きはじめの人によくあるのが「名前だけつけて満足する」パターンかもしれない。やはり物語に先行して名づけるという行為があるらしい。名前というものが世界観を規定する装置として機能し、また名づけという行為が物語の始まりの合図なのかもしれない。

 

 

■『ドン・キホーテ』にみられる魔法のしくみとその性質

 

前篇と後篇で、魔法の性質が異なっている。前篇の魔法の源泉は常にドン・キホーテの頭の中(つまり、ドン・キホーテの読書体験)にあった。彼の頭の中に端を発する(?)「魔法」に周囲が巻き込まれていくのが前篇だった。しかし後篇では、ドン・キホーテ自身が魔法の主導権を握ることはない。終始、周囲によって作り上げられた「魔法」の中をドン・キホーテは困惑しながら進むことになるのだ。最も多くの装置を用意し、周到にドン・キホーテを「魔法」に封じ込めたのが前述の公爵夫妻だ。「木馬クラビレーニョの冒険」の他にもドン・キホーテ主従は多くの「魔法」の中に放り込まれる。

しかし後篇において、一番はじめにドン・キホーテを後篇の「魔法」のロジックに落とし込んだのは従者のサンチョであった。

思い姫、ドゥルシネーアに会いにきたドン・キホーテの目の前には田舎娘の姿しかない。確かにドン・キホーテの目には「驢馬に乗った三人の百姓女」しか見えないのだが(そしてそれが間違いなく現実なのだが)サンチョがこう言う。

 

「まっ昼間の太陽みたいにきらきら輝きながら、そこにおいでなすった方々が姫たちだってことが分からねえとは、ひょっとしたら、お前様の目はぼんのくぼにでもくっついているのかね?」

(10章、164頁より引用)

 

ドン・キホーテにドゥシネーア姫への使いを頼まれたけれど、そんな姫が村にいるはずのないことを知っていたサンチョが苦し紛れについた嘘だ。田舎娘を「美しい姫だ」と言ってしまったのだ。しかしどう足掻いても、ドン・キホーテには田舎娘しか見えない(後篇の彼の目はわりと正しい、前篇では城に見えていた旅籠も、後篇ではちゃんと旅籠に見えている)。結局のところ、ドン・キホーテに敵対する魔法使いが、ドゥルシネーアの姿を醜い百姓娘に変えてしまった、しかしそんな悪い魔法によってドゥルシネーアの美しさを享受できないのは最も姫を想っているドン・キホーテだけなのだという解釈が生まれた。

 

まんまと悪ふざけに成功したサンチョは、ものの見事にだまされた主人のたわごとを聞いて、こみあげてくる笑いをかみ殺すのに一苦労だった。

(10章172頁-173頁)

 

はじめは自分こそがドン・キホーテを魔法にかけた(騙した)ことをはっきり理解していたサンチョであったが、公爵夫妻によってさらに嘘を上塗りされ(騙され)、本当に魔法によってドゥルシネーア姫の美しい容姿が損なわれたと信じてしまうようになる。

 

「さっきのドゥルシネーア姫の魔法の一件に話を戻しますけど、サンチョさんが御主人を愚弄して、百姓娘をドゥルシネーアだと思いこませた、つまり、御主人に姫の姿が見えなかったのは姫が魔法にかかっているせいだと思いこませたと、あなたが想像していらっしゃるあの件は、実はすべて、ドン・キホーテ様を迫害する魔法使いのうちの誰かの仕業であるってことを、わたくしは確認済みの間違いない事実だと思っているのよ。というのも、わたくしはたしかな筋から真実この上ない情報によって、驢馬の背に跳びのった田舎娘こそドゥルシネーア・デル・トボーソであったし、今でもそうであること、そして好漢サンチョは自分では騙したつもりでいても、実は騙されているのだということを知っているからです。」

(33章165頁、公爵夫人の台詞抜粋)

 

やがて姫にかけられた「魔法」を解くための条件に、サンチョが自分の意思で自分自身に三千と三百回の鞭打ちをすることが定められる。もちろん、この魔法解きも公爵夫妻によって作られた「魔法」(つまり嘘)のうちに含まれるのだが……。

 

自分の読書経験に裏打ちされていた「物語」を動き回っていたドン・キホーテが後篇になると(そして後篇のほうが本物の城や冒険にあふれている)影をひそめてしまう。読まれる存在となったドン・キホーテは単に自分が読んだ多くの騎士道物語を生きることができなくなってしまったのだった。何が本当の冒険で、何が嘘なのか、モンテシーノスの洞窟の冒険でもそうであったが、ドン・キホーテは前篇ほどに「物語」を信じることができなくなっている。

なぜ、ドストエフスキーが『ドン・キホーテ』を「最も悲しい物語」と評したのかはわからないままだが、案外こういう自由を奪われたドン・キホーテに悲しさを感じたのかもしれない、と読む者の特権として勝手に思っておこう。

 

ずいぶんと長くなってしまったが、これにて『ドン・キホーテ』前篇・後篇の感想更新はすべて終り! 2016年、この本を読んで本当に良かったと思う。

 

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